もう少しだけ、言葉について。
ほとんど蛇足の部類だ。
十代半ばから後半にかけて、僕は乱読多読、活字中毒の類だった。
文字であれば何でもよかったのだと思う。
そうして読んだ作家諸氏の作品をいま読むことはもうない。
二十歳をすぎると、蔵書はあっさり処分された。
短い乱読多読時代のささやかな遺産が、ふたつだけある。
ひとつは、開高健が引用していた古いトルコの諺。
「本はすでに書かれすぎている」
それから、坂口安吾の言葉。
「文章ではなく、もっと物語りにとらわれなさいよ」
開高健は、ある時期から書けずに相当悩んでいたようだ。
井上靖との対談で、
「書けないんですよ。どうしたら書けるようになるんでしょう?」
とすがるように質問していた。井上靖は、
「書けばいいんですよ。どんどん書けばいいんですよ」
と、ものすごい答えを返していた。
開高健は、頭の中で「本はすでに書かれすぎている」とこだましていたにもかかわらず、それでも書くことにこだわった。
坂口安吾は、いまでも根強い人気のある作家ではないだろうか。
既成概念にとらわれず、戦後の時代の本質を見抜いていた数少ない作家だと思う。小説を美文で固めるよりも、内容にこそこだわれと言い切った。十代半ばの僕は、小説の文章とは技巧を尽くすものだと思いこんでいたので、坂口安吾の言葉は衝撃だった。
開高健は言葉にこだわりつづけた作家だ。その語彙力は並外れていたし、文章は練りに練りあげられていた。それにくらべると、安吾の文章は実に平易を極めている。開高健の凄まじい語彙力には敬服するが、残念ながら一言一言に込められたものは、それほど深くはなかったのかもしれない。坂口安吾の文章は極めて平易だが、そこに込められたものは、とても深いのだと思う。
「坂口安吾研究」を検索エンジンにかけると無数にヒットするが、「開高健研究」は三件だった。生きた時代が違うのでフェアではないが、同じ時代に生きたとしても結果はそれほど変わらないだろう。
書きたいものがなければ、文章なんて書く必要はないし、書くなら、文章などにこだわらず、自由に書きたいものを書けばいい。それだけのことだ。
何十年も文章を書く必要を感じなかったが、いまは少し書きたいことがある。いずれ書かなくなるかもしれない。そうあって欲しいと思う。そのときは、きっといい時代なのだ。
ほとんど蛇足の部類だ。
十代半ばから後半にかけて、僕は乱読多読、活字中毒の類だった。
文字であれば何でもよかったのだと思う。
そうして読んだ作家諸氏の作品をいま読むことはもうない。
二十歳をすぎると、蔵書はあっさり処分された。
短い乱読多読時代のささやかな遺産が、ふたつだけある。
ひとつは、開高健が引用していた古いトルコの諺。
「本はすでに書かれすぎている」
それから、坂口安吾の言葉。
「文章ではなく、もっと物語りにとらわれなさいよ」
開高健は、ある時期から書けずに相当悩んでいたようだ。
井上靖との対談で、
「書けないんですよ。どうしたら書けるようになるんでしょう?」
とすがるように質問していた。井上靖は、
「書けばいいんですよ。どんどん書けばいいんですよ」
と、ものすごい答えを返していた。
開高健は、頭の中で「本はすでに書かれすぎている」とこだましていたにもかかわらず、それでも書くことにこだわった。
坂口安吾は、いまでも根強い人気のある作家ではないだろうか。
既成概念にとらわれず、戦後の時代の本質を見抜いていた数少ない作家だと思う。小説を美文で固めるよりも、内容にこそこだわれと言い切った。十代半ばの僕は、小説の文章とは技巧を尽くすものだと思いこんでいたので、坂口安吾の言葉は衝撃だった。
開高健は言葉にこだわりつづけた作家だ。その語彙力は並外れていたし、文章は練りに練りあげられていた。それにくらべると、安吾の文章は実に平易を極めている。開高健の凄まじい語彙力には敬服するが、残念ながら一言一言に込められたものは、それほど深くはなかったのかもしれない。坂口安吾の文章は極めて平易だが、そこに込められたものは、とても深いのだと思う。
「坂口安吾研究」を検索エンジンにかけると無数にヒットするが、「開高健研究」は三件だった。生きた時代が違うのでフェアではないが、同じ時代に生きたとしても結果はそれほど変わらないだろう。
書きたいものがなければ、文章なんて書く必要はないし、書くなら、文章などにこだわらず、自由に書きたいものを書けばいい。それだけのことだ。
何十年も文章を書く必要を感じなかったが、いまは少し書きたいことがある。いずれ書かなくなるかもしれない。そうあって欲しいと思う。そのときは、きっといい時代なのだ。
というのがいつの時代の諺なのか、あるいは本当にそんな諺が存在するのかは知りませんが、含蓄深い言葉だと思います。
幅広い解釈が可能なので、解説するのはやめておきます。
ただ、これからも、人類あるかぎり本は書かれすぎて行くでしょう。
それは、この諺の作者も承知の上だと思います。
何百年前の人なのか、あるいは千年ほど前の人なのかもしれません。
そのとき、すでに「本は書かれすぎている」と感じた人がいるのだ、と考えるのは、十代の僕にはたいへんなインパクトであったことは確かです。
後々に、トルコのエフェソスの遺跡の図書館を見たときは、ちょっと感慨深いものがありました。
このことについて考えると、本一冊書けそうな気がします。