報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

乱読時代の遺産

2006年04月19日 23時06分54秒 | 軽い読み物
もう少しだけ、言葉について。
ほとんど蛇足の部類だ。

十代半ばから後半にかけて、僕は乱読多読、活字中毒の類だった。
文字であれば何でもよかったのだと思う。
そうして読んだ作家諸氏の作品をいま読むことはもうない。
二十歳をすぎると、蔵書はあっさり処分された。

短い乱読多読時代のささやかな遺産が、ふたつだけある。
ひとつは、開高健が引用していた古いトルコの諺。
「本はすでに書かれすぎている」

それから、坂口安吾の言葉。
「文章ではなく、もっと物語りにとらわれなさいよ」

開高健は、ある時期から書けずに相当悩んでいたようだ。
井上靖との対談で、
「書けないんですよ。どうしたら書けるようになるんでしょう?」
とすがるように質問していた。井上靖は、
「書けばいいんですよ。どんどん書けばいいんですよ」
と、ものすごい答えを返していた。
開高健は、頭の中で「本はすでに書かれすぎている」とこだましていたにもかかわらず、それでも書くことにこだわった。

坂口安吾は、いまでも根強い人気のある作家ではないだろうか。
既成概念にとらわれず、戦後の時代の本質を見抜いていた数少ない作家だと思う。小説を美文で固めるよりも、内容にこそこだわれと言い切った。十代半ばの僕は、小説の文章とは技巧を尽くすものだと思いこんでいたので、坂口安吾の言葉は衝撃だった。

開高健は言葉にこだわりつづけた作家だ。その語彙力は並外れていたし、文章は練りに練りあげられていた。それにくらべると、安吾の文章は実に平易を極めている。開高健の凄まじい語彙力には敬服するが、残念ながら一言一言に込められたものは、それほど深くはなかったのかもしれない。坂口安吾の文章は極めて平易だが、そこに込められたものは、とても深いのだと思う。

「坂口安吾研究」を検索エンジンにかけると無数にヒットするが、「開高健研究」は三件だった。生きた時代が違うのでフェアではないが、同じ時代に生きたとしても結果はそれほど変わらないだろう。

書きたいものがなければ、文章なんて書く必要はないし、書くなら、文章などにこだわらず、自由に書きたいものを書けばいい。それだけのことだ。

何十年も文章を書く必要を感じなかったが、いまは少し書きたいことがある。いずれ書かなくなるかもしれない。そうあって欲しいと思う。そのときは、きっといい時代なのだ。