報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

ムジャヒディン勝利式典

2005年05月30日 14時42分08秒 | ●アフガニスタン05
 カブールに着いて、報道関係者が最初にしなければならないのが、取材許可書を取ることだ。在日アフガニスタン大使館のサイトにも明記してある。これがなければ取材は許されない。
 カブールは二度目とはいえ、最初に訪れてから8年も経っている。街の様子も激変している。まったく地理が分からないので、タクシーを利用したが、官庁街は歩いていける距離だった。しかも常に道路が渋滞しているため、歩いたほうが速い。

 取材許可書は外務省で発行している。タリバーン時代と同じだ。オフィスは二階から三階に移動していた。
 オフィサーから簡単な質問を受けた。取材地や滞在期間など基本的なことだ。
「ところで、アフガニスタンは初めてですかな?」
「いえ、二度目です」
「前回はいつで?」
「1997年です」
「・・・タリバーン・タイム」
「ええ、タリバーン・タイムです」
「当時は取材に支障はありませんでしたかな?」
「まったく問題ありませんでした」
 それは意外ですな、という感じで取材許可書は発行された。取材許可書はA4用紙で、それに写真をステイプラーで留め、スタンプで割印をするというものだった。こういうのが一番困る。二つ折りや四つ折りにして持ち歩くとすぐにボロボロになる。ラミネートすると下敷きみたいになってとても不便だ。大事な取材許可書なので、滞在中は大切に保存したい。一日中歩き回るカメラマンにとってはA4用紙は処置に困る。オリジナルは部屋において、コピーを持ち歩くしかない。
 はやくももらったばかりの取材許可書の処置に困ってしまった。カメラバッグには入らないし、ましてやポケットには入らない。結局、手に持つしかなかった。部屋を辞すときに、
「そうそう、二、三日後に大きな式典があるので、国防省へ行ってカードをもらってきなさい」
 と言われた。
 まだまったく地理が分からないのに、次は国防省を探さなければならない。結局、外務省からそれほど離れてはいなかったが、5人くらいに道を訊ねた。国防省は、セキュリティが厳しかった。二つのゲートですべてのカメラのシャッターを切らなければならない。中に爆弾が仕込まれていないかを確認するためだ。建物に入るときも、またシャッターを切らされた。6コマが無駄になった。 式典取材用のカードを受け取るときにもやはり、6コマが無駄になった。ただ、このカードはアフガニスタン滞在中、取材許可書の代わりとして大いに役立った。フォルシー(ダリ語)で「カルタ・ジョナリスタ」とでかでかと書かれていた。

 
 最初の数日間は、申請や手続き、そして式典でつぶれた。
 式典は、「ムジャヒディン勝利式典」というものだった。
 報道陣は、朝5時30分に集合させられ、バスで会場に運ばれた。しかし式典は11時からだ。
 会場に着くと、徹底的な身体検査と荷物チェックをされた。カルザイ大統領やドイツの国防大臣などが出席するため、セキュリティは最高レベルだった。つまり、誰も信用しないということだ。チェックが厳重なのは理解できるが、ほとんど犯罪者扱いだった。高圧的で、絶対服従を強いる非常に気分の悪い態度だった。厳しい中にも節度というものが必要なはずだ。我々でさえ犯罪者扱いするくらいだ。収容所の中の人々がどんな扱いを受けているかは、想像に難くない。
 チェックが済むと、狭い囲いの中に詰め込まれ、絶対にそこから出てはいけない。約30人が、朝の6時から、昼の2時までそこに閉じ込められた。炎天下の中、水もない。
 囲いの周りには、M4A1自動小銃を持った5,6人のセキュリティが目の前でこちらを監視している。銃はいつでも発射できる状態だ。要人席と報道陣の囲いとは100メートルは離れている。空には、アパッチ攻撃ヘリが2機展開している。ここまですれば、確かにテロの危険はないだろう。
 アホくさくて、終始、本を読んでいる白人記者もいた。その気持ちは大いにわかる。あるいは一種の抗議だったのかもしれない。普通こうした式典などでは、カメラマン同士で場所取りの激しい攻防が繰り広げられるのだが、それさえもまったくといってなかった。会場の片隅に閉じ込められては、どこから撮っても同じだ。
 見所もない退屈な式典がようやく終わると、報道陣はセキュリティから犬猫のように追い払われた。態度の悪い、つまり優秀なセキュリティから、僕は背中を突き飛ばされ、行け!と命令された。彼らは、人に高圧的な態度をとることが職性であり、それを行使したくてしかたがないといった感じに見えた。不必要に高圧的なのだ。グアンタナモやイラク、アフガニスタンの収容所の様子が推し量られる。

 一応、カルザイ大統領だけは真剣にショットしておいた。アメリカの石油会社ユノカルの最高顧問としてタリバーン政権との交渉を担当し、そしてアフガニスタンの大統領に据えられた男、ハミド・カルザイ。ほんの数秒だが、ジープに乗ってわれわれの前を笑顔で通過していった。

ブログ再開にむけて

2005年05月27日 19時20分35秒 | ●アフガニスタン05
 アフガンの乾燥大地から、熱帯のタイに。
 空から見るアフガンの大地には、ほとんど植物が見当たらなかった。
 それとは対照的に東南アジアの大地は、一面森林に覆われている。
 同じ陸続きのアジアでもこんなにも環境が違うのだと、あらためて驚く。
 東南アジアの、体にまとわりつく不快な湿気が、実は豊富な生命の源であると知る。
 そう思うと、バンコクのこのベタベタの空気にも、多少親しみを感じなくもない。

 この濃厚なタイの湿度の中で、乾燥大地アフガニスタンの報告をさせていただきます。
 しかし、まだあまり頭が整理できていません。
 フィルムも少しずつ現像しているところです。
 いましばらく準備が必要かと。

 留守中に、訪問いただいた方々、コメントをいただいた方々にお礼を申し上げます。
 コメントは、カブールでひととおり読ませていただきました。かの地より返信したかったのですが・・・。遅ればせながら、今後ご返信させていただきます。


アフガニスタンを出ました

2005年05月26日 19時31分31秒 | ●アフガニスタン05
 21日、アフガニスタンを出て、バンコクに戻りました。
 アフガンから、せめてあと一回はブログを更新するつもりでしたが、残念ながら出来ませんでした。
 物理的には可能でしたが、心理的に不可能でした。
 というのも、5月4日に当ブログを更新した3日後、そのネット・カフェが自爆テロで爆破され、二人が死亡するという事件が起こったからです。
 自爆テロの当日は、僕はカブールから遠く離れたカンダハルという街にいました。利用していたネット・カフェが爆破されたことも知りませんでした。カブールに戻り、自分が利用していたネット・カフェが自爆テロに遭ったことを知らされ、恐怖しました。米軍施設でもない、米軍関係者が利用するわけでもない、ただの民間のネット・カフェが自爆テロの対象になるなんて・・・誰が予想しただろうか。もちろんアフガニスタンでは、はじめてのことです。もはや外国人を殺傷できるなら、なんでもするということなのか。

 そのネット・カフェは、僕の泊まっていたゲスト・ハウスから一番近く、歩いて3分ほどでした。20台以上のパソコンがあったと思います。ノートパソコンを持ち込む客のために、大きなテーブルもあり、真ん中からケーブルが10本ほど出ていました。いつ行ってもすぐに利用できる理想的な店でした。通信速度も100Mbpsと申し分ない。そのため利用客は外国人がほとんどでした。

 カンダハルに発つ前に、二日続けて利用しました。初日は、友人にメールを送り、次の日に当ブログを更新しました。ブログを更新した日は、二時間半いました。そしてその3日後に自爆テロ・・・。

 もはや、ネット・カフェに行こうなどという気にはなれませんでした。「外国人の行かないネット・カフェなら大丈夫さ」と宿の連中は言いましたが、僕自身が外国人です。僕が利用することで、店番の人がヒヤヒヤするかもしれない。いや、僕自身が一分も座っていられないでしょう。
 ネット・カフェどころか、自爆テロの話を聞いてから二日間は、僕はほとんど宿からでませんでした。宿の周辺を少し歩いたものの、道行く人がすべて自爆テロ犯に見えてしまう。そそくさと宿にもどりました。情けないが仕方がない。一度恐怖に取り付かれると、もうどうしようもない。爆弾テロの恐怖とは、その破壊力とともに、いつどこで爆発するか予測できない点にあります。少なくとも僕は、これまでに二度、爆弾テロを目の当たりにしています。爆弾テロの怖ろしさ、無慈悲さは身に染みています。
 3日後には、ようやく普段どおり街を歩くようにはなりましたが、いままでのような暢気な気分では歩けなくなりました。僕は、アフガニスタンの状況を楽観視しすぎていた。

 それから数日後の5月16日、イタリア人のNGO女性スタッフがカブールで誘拐されました。カブールに滞在するすべての外国人に激震が走りました。

 アフガニスタンを取り巻く状況は、今後ますます悪くなっていきそうです。

 中司達也
 アフガニスタン取材を終えて



アフガニスタンより

2005年05月04日 17時31分26秒 | ●アフガニスタン05
 みなさん、おひさしぶりです。
 カブールより、お送りします。

 8年ぶりのカブールです。
 その第一印象は、
「ここは本当にアフガニスタンなのだろうか・・・」
 というものです。

 もちろん前回訪れたのは、タリバーン政権下の鎖国時代でしたから、様変わりしているのは当然ですが、それにしても変わりすぎではないかという気がしてなりません。

 米軍の空爆とタリバーン政権の崩壊からまだ3年ほどです。パキスタンやイランに滞在していた多くの難民が帰還して人口が増えたのは理解できます。しかし、道路にあふれる車、くるま、クルマ。軒を連ねる商店にあふれかえる物、もの、モノ。3年あれば十分、人や車や物があふれるのかもしれません。しかし、東ティモールは3年でこんなにも変化しませんでした。
 多くの国と国境を接するアフガニスタンと島国の東ティモールとを比較するのは適切ではないかもしれませんが、それにしてもアフガニスタンの変化はあまりにも急速すぎるような気がします。

 すでにモバイルなどもやは当たり前という社会になっています。おしゃれなモバイル・ショップがそこらじゅうにあります。通りで中古モバイルを手にぶら下げて売っている人もいます。中古は20~30ドルくらいです。

 こうした急速な変化がいいことなのか悪いことなのかを、外国人の僕が判断するべきではありませんが、何かアフガニスタンの人々を物質漬けにしているような気がしないでもありません。自足的な社会ではなく、消費型の社会を押し付けようとしているような・・・。商店には、日用雑貨から加工食品、コンピュータ関連機器、化粧品まで、ありとあらゆるものが並んでいます。いったい誰がこんなものを買えるというのか、理解に苦しみます。産業もほとんどなく高失業率のいまのアフガニスタンでは、消費者層などまだ形成されているとは思えません。
 いまのところアフガニスタンには関税がないようなので、富裕層がいまのうちにできるだけ輸入しておこうとしているのかもしれません。

 鎖国から転じて、急速な消費型社会への移行は、そこから取り残される多くの人々を輩出していくことになると思います。ごく一部の富裕層と圧倒的大多数の貧困層です。途上国が歩まされる典型的なパターンとなるのでしょう。あくまで西欧主導による復興援助ですから。
 しかしいまのところ、何がなんだかよく分からないというのが正直なところです。


 アフガニスタンでの写真撮影は、問題もなく快適です。アフガニスタンの人々の応対は極めて好意的で、安心して撮影ができる環境にあります。カブール市内の治安もいまのところ良好です。ただし、いたるところに武装警官が配置されているということは、その必要があるからでしょう。欧米人の泊まるゲストハウスには、民間の武装警備員がいます。お金持ちは武装ガードマン付で食事や買い物をしています。夜は出歩かないことにしています。

 そこらじゅうを歩き回って撮影していますが、人とクルマの洪水の街中を歩くのはとても疲れます。あまりにもすべてがせわしなく、落ち着いて腰を下ろせる場所さえない。たいていのイスラム社会には、チャイハネでチャイをすすり、うだうだ話をして時間を過ごす”文化?”のようなものがありますが、カブールからはそうした”文化”は消えてなくなっています。

 僕が見つけた安息の地は、山の斜面の住居群です。ブラジルのファベーラを彷彿とさせる光景ですが、入ってみたいという衝動を抑えられずに、上ってみました。こういう不便な場所に住んでいる人たちは間違いなくもっとも低所得の人々か、所得のない人々でしょう。カブールにいる間は頻繁に通うことになりそうです。



< 写真 >




ムジャヒディン勝利記念式典。
周囲一帯を完全閉鎖し、隔離された敷地での式典。
アフガニスタンに来て、まさかカルザイ大統領を撮ることになるとは思わなかった。






米兵とISAF(国際治安支援部隊)のドイツ兵。
彼らは警備とは関係がなく、のんきにしていた。

式典上空を警戒するアパッチ攻撃ヘリ。
第一級の警備体制だった。
記者団は狭い囲いの中に閉じ込められた。
記者団専属のセキュリティが5、6人いた。
もちろん記者団を守るのではなく、
記者団の中に変なそぶりをする人物がいたら即座に撃つためである。





カブール市内のおもだった通りはどこもクルマの洪水。
歩いた方が早い。

旧市街のオールド・バザール。
バザールは広いエリアに広がっているが、
いつも人でごった返している。
どこの国でも市場やバザールは活気があり、一番好きな場所だが、
カブールのバザールは活気とは違う何か別の空気を感じる。
普通は、売り手と買い手の攻防が発する熱気が
バザールの活気と魅力を生むのだが、
ここには、売り手ばかりが存在するような気がする。



カブール市内には山がふたつほどそそり立つ。
その麓には山肌に張り付くように家屋が建っている。
カブール市内のたいていの場所から見える。
ブラジルのファベーラ(スラム)を彷彿とさせる光景だ。
毎日見ているうちに上ってみたくなった。
リオだったら、身ぐるみ剥がされる。
しかし、カブール市街の喧騒に辟易して、恐る恐る上ってみた。
そして、こんな人たちに出会った。



















































































中司達也
カブールにて