報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

東ティモールで米不足

2007年03月09日 18時54分30秒 | ●東ティモール
「最近の飢餓研究(特にインドの経済学者アマーティア・センの研究)は、広範に浸透する飢餓、および死亡率の増加が、しばしば総体としての食糧供給が必ずしも不十分でない──場合によっては豊富でさえある──場所で起きていることを示している」

「そういう事例においては、根底にある飢餓の原因は、食料の欠乏よりもむしろ食糧入手手段の欠如である」

『誰が飢えているのか』L・デローズ著より

世界のどこかで飢餓が発生していると聞くと、われわれは文字通り、食糧が欠乏していると受け取る。しかし、そうした観念は捨てなければならない。以前、「食糧危機を創るIMFと世界銀行」と題してアフリカのマラウィの例を書いたが、マラウィの端から端まで陸路で食糧を輸送するよりも、カンサスから船で運んだ方が安いのだ。国際援助によって近代農法を導入し、収穫量を増加させても、輸送インフラを放置しておいては意味がない。こうしたことが世界中で発生している。その結果、先進国の巨大穀物会社や船舶会社が大儲けをする。

現在の東ティモールでの米不足は、こうした事例とは直接は関係なさそうだが、東ティモールもこうした構造と無縁とは言えないと考えている。

東ティモールを何度も訪れているが、首都ディリのマーケットでは、ベトナム産や中国産の輸入米しか売っていなかった。東ティモールの地方部には豊かな田園が広がっている。しかし、マーケットには自国米がない。それがいつも不思議だった。理由として考えられるのは、輸入米の価格が安すぎるということだ。50kg袋が13ドルだった。1kgあたり0.26ドルだ。国産米が輸入米と競争するなら、これ以下の価格で売らなければならない。はたして、これ以下の値段で利益がでるかどうかはあやしい。

低価格の輸入作物の最大の弊害は、国内作物の生産意欲を削いでしまうことだ。売れないなら作っても意味がない。自家消費以上の生産をしなくなる。あるいは、自家消費のコストすら輸入作物の価格を上回るかもしれない。このようにして、途上国の多くの農村は崩壊し、人口の都市流入・都市スラム形成という経過をたどった。都市部の人口爆発とともに、労働賃金の低下を引き起こし、都市部での生活レベルは低下し、犯罪も増加した。

「米欧アグリビジネスは、伝統的農村社会へ破壊的結果をもたらす。
雇用形態、農作物、消費者の嗜好、村落や家族の構造、あらゆるものを破壊する」

『なぜ世界の半分が飢えるのか』スーザン・ジョージ著より

東ティモールもこうした世界的構造から無縁であるとは思えない。
低価格の輸入米により、国内の米生産意欲は低下していたのではないだろうか。そこへ、昨年の騒乱によって一時は約15万人もの国内避難民を出した。おそらくそのほとんどは農業従事者だ。人口約80万人の国で、15万人が一時的とはいえ農業生産から遠ざかったということは、生産高にも影響を及ぼしているのではないだろうか。現在でも、最大で6万人が避難生活をしていると報告されている。

そして旱魃によって、事実上、米の生産が低下した模様だ。米不足が顕在化した。米価が上がると、米を隠匿してさらに価格をつり上げようとする業者も出ておかしくはない。おまけに、国内の治安を攪乱したい各種勢力が加わり、さらに米不足を引き起こすような画策を行っているふしもある。

東ティモールの米不足は、こうした複合的な要因が関連していると考えられる。しかし、東ティモールの米不足の根本的な原因も、食糧をめぐる世界的な利権構造と無縁とは言えないだろう。



東ティモールで「米騒動」 住民600人が倉庫に投石
http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2007022001000653.html
【東ティモール短信】米がない!
http://www.parc-jp.org/main/a_intl/etimor/ET070221

東ティモール 写真

2006年07月05日 17時56分49秒 | ●東ティモール












Matebian山 標高2373m バカウ県            2003年撮影
東ティモールは、四国ほどの大きさだが、2000メートルを越える山もいくつかある。
最高峰はTatamailau山、2963m。

                ロスパロス市郊外         2004年撮影 
東ティモール東部のロスパロス市郊外には
広大な高原が広がっている。
気候も清涼で、とても赤道直下とは思えない。













                     早朝のロスパロス市中心部       2004年撮影
 
                    朝は、かなり冷え込み、霧がでることも多い。
                    ディリと違って車もほとんど走っていない。
                    同時に産業もほとんどなく、とても貧しい。





Timor-Lest 国連地図
http://www.un.org/Depts/Cartographic/map/profile/timoreg.pdf

東ティモール 小休止

2006年07月04日 20時05分03秒 | ●東ティモール
たまには、のどかな東ティモールの風景でもお楽しみください。














        ライス・フィールド Baucau近郊         2003年撮影

              ビーチ Dili        2003年撮影













                             落日 Dili          2003年撮影



東ティモールの最新情勢は、ラモス・ホルタ外相兼国防相が首相代行になり、これから、後任の首相が選出される。
首相は、与党政党が選出するので、本来与党の党員が首相に就任する。
しかし、国民の不信をかっている与党フレティリンから次期首相が選ばれると、また争乱が再燃する懸念がある。
おそらく、ラモス・ホルタ氏が後任首相に指名され、ひとまず事態は落ち着くことになるだろう。
筋書き通り、というところだろう。

問題は、来年の議会選挙だ。

Don't Steal Our Future !

2006年06月26日 16時05分29秒 | ●東ティモール



























2004年5月19日 オーストラリア大使館前
ディリ・東ティモール

独立2周年記念式典の前日。
オーストラリア大使館前で抗議集会を行う、
東ティモール住民。

オーストラリア政府による石油略奪は、
東ティモールの学生や市民、NGOによって、
頻繁に訴え続けられていた。

いま、まさにスローガンは現実のものとなり、
東ティモールの未来が、
奪われようとしている。



写真: 東ティモール 住民投票日

2006年06月23日 17時59分24秒 | ●東ティモール
99年8月30日 住民投票日
ロスパロス 東ティモール

3日前の武装襲撃にもかかわらず、
大勢の住民が投票に訪れた。

このときは、まさかすべての出来事が仕組まれているなどとは
夢にも思わなかった。
不覚にも「独立」という言葉に魅了され、
何も見えていなかった。

東ティモールにまつわる一連の出来事は、
最初の事の起こりから、何もかもが仕組まれていた。
そして現在も、世界は欺かれ続けている。

写真 : 99年8月27日 ロスパロス・東ティモール

2006年06月19日 17時54分40秒 | ●東ティモール
武装民兵の襲撃情報が入ったため、ヴェリッシモ氏宅を守るために来た独立派の若者たち。
右端がヴェリッシモ氏の長男セルジオ。現在、ディリで判事を務めている。





裏庭で襲撃に備える。
独立派の若者たちが手にしているのは、たきぎ用の薪だけである。
そのため僕ものんきに構えていた。

この直後に、武装民兵が現れたのだが、撮影はできなかった。



最初の銃撃から、数十分後(時間は定かでないが)に、乱射がピタリと止んだ。
襲撃者は去ったものと勘違いして外に出た。
裏の木造家屋が業火をあげて炎上していた。
三回だけシャッターを切り、家人を探しに家屋にもどった。
































二回目の銃撃が終わったあと、燃える家屋を脱出。
ヴェリッシモ氏の隣人に救われた。

この写真は、隣家から撮影した燻りつづけるヴェリッシモ氏の家屋。
裏の木造家屋は茅葺だったので、すでに燃え尽きた。




翌朝、ようやくUNAMETの文民警官がきた。欧米の文民警官は凄まじい銃撃に恐怖して、明るくなってからインドネシア警察と共にやってきた。

僕が泊めてもらっていた部屋はこのようになっていた。




Sr.Verissimo Dias Quintas
ヴェリッシモ・ディアス・キンタス氏
ロスパロスのリウライ(酋長・王)
1999年8月27日没
享年65歳






<参考記事>
PTSD
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/ca59f3cc08b6118a5b4d360a3c307308

取材準備:覚悟
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/ae549105fb264dc9183b9d135701eba3

武装襲撃  (99年8月27日ロスパロス・東ティモール)

2006年06月18日 17時29分23秒 | ●東ティモール
<まさかの襲撃>

「ミリシアの襲撃があるかも知れないぞ!」
 ヴェリッシモ氏の長男セルジオが言った。
 僕にはまったくピンとこなかった。こんなのどかな田舎町で?
 まさかね?
 平然としている僕に、
「お前、怖くないのか?」
 と彼は険しい表情で言った。
 僕はまだ、ミリシア(併合派武装民兵)がどれほど残忍なのかを知らなかった。
 そして凄まじい殺戮と破壊が一週間後にはじまることも。

 しばらくして、独立派の若者が五、六人警備のためにやってきた。薪用に積まれていた棒を手にし、民兵を迎え撃とうとしていた。棒で戦おうというのだから、たいしたことにはならないだろう。カメラを構え、僕は彼らから少し離れたところに立った。
 それからほどなくして、生け垣越しに五、六人の頭が見えた。民兵は本当にやってきた。先頭の男だけ、バラクラバ帽(目出し帽)を被っていた。ゆうゆうと歩いて敷地の中に入ってきた。そして先頭の男が何かを叫んだ。その瞬間、独立派の若者たちは一斉に棒を捨てて、血相をかえて逃げ出した。
 僕は、その瞬間までは乱闘になったら写真を撮ろうなどと、のんきに考えていたのだが、若者たちの表情と逃げ方に、ようやくただならぬものを感じた。

 僕を含めて八人ほどが逃げ遅れた。女性や子供もいた。全員あわてて家の中に散った。
 僕の飛び込んだ部屋には、女性と子供、そして独立派の幹部A氏がいた。あわてすぎたため、手が滑って、ドアを閉めることができなかった。
 民兵たちは、家の中を破壊しはじめた。家屋内に怒号とは破壊音が響いた。僕は、開いたままのドアから顔を乗りだして、写真を撮ろうと試みた。こん棒で台所を破壊している男の背中が見えた。あわてて身を引いた。写真を撮るのは危険すぎた。見つかれば、他の三人も危険に晒してしまう。A氏は内側のドアを開け、となりの部屋に移った。

 家の中のあちこちで破壊の音が響いた。
”この部屋も、もう見つかる”、そう思うと恐怖で体が強ばる。捕まればどうなるのだろうか。ただ恐怖だけがつのっていく。子供はベッドの下で震えていた。女性は小さな声で必死に祈っていた。女性が引きつった顔で部屋の上を指差した。空気窓から濃い黒煙が部屋の中に吹きこんできた。
”火をつけやがった!”
 カメラは二台ともバッグの中に突っ込んだ。写真どころではない。もう何をしていいかわからない。僕は部屋の真ん中に棒立ちになっていた。

 いきなり激しい射撃音がした。壁一枚外で、自動小銃の連射がはじまった。軍用の自動小銃の音だ。セミオートで連射しているが、まるでフルオートなみの撃ち方だ。
 銃撃が始まった瞬間、女性をベッドの下に押し込み、僕ももぐった。狂気に満ちた射撃に身がすくむ。もはや見つかれば、確実に殺される。
”どうやってここから逃げればいいんだ!”

<嵐の前>

 僕が東ティモールヘ着いた当初は、後の武装襲撃や大殺戮など想像もできないほど、静かでのんびりした雰囲気だった。

 東ティモールの人口は八〇万人ほど。住民投票の登録者は、約四六万人。投票の管理運営や集計作業は、国連東ティモール派遣団(UNAMET:ウナメット:United Nations Mission in East Timor)が行なう。投票の規模も小さいし、何といっても国連が間に入っているのだ。何かが起ろうはずがない。僕はそう安易に考えていた。

 ディリには世界各国の報道陣が三〇〇人近く滞在していた。フリーランスがいてもあまり意味がないので、僕は地方へ行くことにした。

<ロスパロスのキング>

 まずディリからミニバスで三時間ほどのバウカウという街へ行った。
 もともとは日本軍が作った飛行場がある。岩をくり抜いた地下基地なども残っている。第二次大戦中、東ティモールは日本軍に占領されていた。
 バウカウから、さらに東に進みロスパロスへ。とても小さな町だ。

 ロスパロスには、宿というものはなく、僕はたまたま独立派のヴェリッシモ氏(六五歳、当時)の家に泊まることになった。ヴェリッシモ氏は、独立派組織CNRT(ティモール民族抵抗評議会)の幹部であり、CNRTの事務所は、彼の家の敷地内にあった。

 彼は、国連関係者のために、ささやかなレストランを営んでいた。おいしいポルトガル料理を出すので、毎日のように国連関係者が食事に来ていた。
 はじめての客は、ヴェリッシモ氏の履歴を聞くことになる。
「私はロスパロスのキングだ」
 氏の家系は神話にもでてくるらしい。東ティモールで一番古い家系だという。
 国連関係者からは”オールド・キング”と呼ばれ、親しまれていた。
 彼は、独立派ゲリラ・ファリンテルの兵士だったこともある。四一歳当時の写真は、いかにも独立の闘士といった面構えだった。彼の三男セザールは、ジャカルタでシャナナ・グスマンのボディガードをしていた。

 そんなヴェリッシモ氏の家に寝泊りし、独立派の投票キャンペーンに同行して、口スバロス郊外の村々をまわった。しかし、出かける度に、民兵に気を付けるように注意された。当初、僕にはCNRTのメンバーは民兵に対して神経質すぎるのではないかと思った。しかし、それは誤りであった。
 
 八月二七日、午後五時三〇分。
 ヴェリッシモ氏宅は武装民兵に襲撃された。

<脱出不可能>

 外の銃撃は止むことがなかった。とんでもない事態になってしまった。
 ベッドの下では女性と子供が一心不乱にお祈りをしている。僕もさすがに成す術がない。相手は自動小銃を乱射し続けているのだ。もはや単なる脅しではない。前日はディリで四人の独立派が殺害されている。民兵は本気だ。見つかれば命はない。

 民兵は、銃撃を加え、家の中を破壊し、火をつけてまわっている。いずれこの部屋も発見される。ドアは開いたままだ。もう、来るに違いない、と思うと恐怖が全身に走る。

 いったいどのくらい時間が経っただろうか。いきなり銃声がやんだ。静寂がおとずれ、いままでの狂気に満ちた銃撃が嘘のようだ。銃弾が尽きたに違いないと思った。数百発は撃っただろう。外に人の気配はなかった。

 すぐベッドの下から出て、他の人たちを探した。いったん外に出た。すでに日は落ちていた。しかし、外は明るかった。裏の木造家屋がすさまじい勢いで燃えていた。裏口から家の奥に入ると、突然A氏が現われた。しかし他には誰もいない。皆無事に逃げたのだろうか。

 子供と女性のいる部屋に戻ろうとした時、裏口の方から、ガラスや皿の破片を踏む音がした。A氏はあっという間に近くの部屋に消えた。一瞬おくれて僕も、そばの棚の裏に隠れた。ここでは隠れたことにならない。後悔したがもう遅い。民兵はまだいたのだ。なんてことだ。しばらく裏口の気配をうかがい、そっととなりの部屋に移った。ベッドが三つあるだけで他に何もない。仕方がない。ベッドの下にもぐった。

 突然、外で銃撃がはじまった。またしても凄まじい銃撃が途絶えることなく続いた。尋常ではない撃ち方に、恐怖がつのった。
 民兵は襲撃の前には、アンフェタミンのような薬物を与えられるという話しを聞いた。外での銃撃は、まさに”キレ”ていた。
 裏口の方で人の動く気配がした。こんどこそ見つかるのではないか。裏口の方が明るくなった。さらに放火したようだ。そして家の中にも火炎ビンが投げ込まれた。リビング内がぱっと明るくなった。
 外は銃撃、内は炎と煙。
 外に出れば間違いなく撃たれるだろう。家の中で火と煙に耐えているほうがましだ。幸い、壁と床はモルタル造りになっているので燃えない。燃えるものは家具、調度品と天井の梁だ。おそらく焼け死ぬことはない。ただ、すべての窓は襲撃に備えて閉じられていたので、煙は外へ逃げずどんどん濃くなっていった。煙を耐えられるところまで耐えるしかない。

 外の銃撃はおさまる気配がない。自動小銃の音に混じって、散弾銃のような音がまじっていた。おそらく手製銃だろう。家の周りの数ヶ所で銃声が響ている。まるで戦争のような連射が一秒たりとも止まなかった。
”ここで殺される!"
”死にたくない。生きたい!"
 頭のなかではそんなことばかりが明滅する。
 しかし、助かる見込みのないことは明白だった。
 狂気の銃撃から逃げられるわけがない。
 天井から煙が濃くなってじわじわ降りてきた。
 体も心も、すでに半分死んでいるような状態だった。
 時間の感覚もなく、ただ死ぬのを待っていた。

 突然、銃声が止んだ。
 そのまま様子をうかがった。さきほど銃声が止んだときは、民兵が去ったものと勘違いして、危うく発見されかけた。できるだけ煙に耐えようと思った。が、それも数分だった。すでに限界にきていた。これ以上とどまると窒息してしまう。

 とにかく銃声は止んだのだ。賭けるしかない。ドアを恐る恐る開けた。煙が外に流れだす。裏で燃える続ける木造家屋の炎で、外はかなり明るい。暗ければどれだけ気が楽だったろうか。意を決して煙とともに外に飛び出す。すぐ目の前に屋外のトイレがある。トイレのドアは外からかんぬきがしてあった。連中はここは調べていないということだ。トイレの中に入った。窓から煙は入ってくるものの、呼吸に支障はない。水槽にはたっぷり水も入っている。ここならかなり耐えられる。そう思うと気分も少し落ち着いた。

 窓から外を何度も窺った。人の気配はない。脱出するなら今だ。いよいよ脱出と思うと、撮りためたフィルムを火の中に置いていくのが辛くなった。僕の部屋は火元から一番遠く、まだ燃えてはいなかった。今ならまだ間に合う。いや、そんなことよりとにかく逃げることだ。
 ちょっとの間、俊順したが、やはりフィルムは捨てていけなかった。家の中を隠れ回っている間もカメラ・バッグを持ったままだった。息を止めて家の中に飛び込み、煙の中を走り、ザックをひっつかんで、すぐ外に飛び出した。
 あとは暗闇に向って一目散に走った。ザックとカメラ・バッグを抱えていては走ったとは言えなかった。二〇メートルも行かないうちに、視界に人の姿が見えた。
”民兵か!”
 全速力で走った。振り返ると、人影が手招きをした。そのまま走ったが、人影は手招きを続けた。人影には殺気がなかった。僕は足を止め、その人の所までもどった。
 彼は黙って、納屋を示し、ここにいなさいという、しぐさをした。
 時計を見ると六時三〇分だった。襲撃から一時間がたっていた。
 僕と主人は長い間、焼けていく家屋を見ていた。
 あたり一体の家々は明りを消し、廃村のように静かだった。

<信用できない軍、警察>

 夜一〇時頃、くすぶり続けるヴェリッシモ氏の家の方から車両の音がした。窓の隙間から、息を殺して覗いた。インドネシア警察だった。一〇人ほどの警官は、一五分ほどいて、去って行った。ほっと胸を撫で下ろした。

 住民は、軍や警察は併合派民兵を強力にバックアップしていると見ている。時として、軍人は私服に着替え、民兵に混じって襲撃の指揮をとっているのだという。もちろん証拠などない。しかし、ほとんど公然の秘密なのだ。
 独立派の住民にとって、警察も軍も、恐怖の対象でしかない。

 真っ暗な納屋の中で一人、まんじりともせず夜を過ごした。頭の中では襲撃時の模様が、エンドレステープのように何度も回っていた。

 翌朝五時、空が明るくなると、再び警官がやってきた。窓の隙問から、ずっと観察した。焼け落ちた家のまわりに、もっともらしくテープをめぐらしていた。しばらくして、ニュージーランドの国連文民警察官の制服が見えた。僕は、納屋から出て、文民警官に事情を説明した。

<A氏と再会>

 UNAMETロスパロス支部の建物に着いて、ようやく助かったんだと実感できた。しかし体には恐怖がべったり張り付いたままだった。

 UNAMETで働くティモール人の通訳から「街中に民兵が俳個している」と聞かされた。国連の敷地から出るのは危険だ。文民警官から事情聴取を受けた。そのあと、僕は最も気がかりなことを文民警官に訊ねた。昨晩の襲撃の犠牲者についてだ。
 犠牲者は一名。
 家長のヴェリッシモ氏だった。全身滅った斬りだったそうだ。
 ヴェリッシモ氏は家族を守るため、民兵に立ち向かったのだと思う。あの場で怯えていなかったのはヴェリッシモ氏ただ一人だった。その姿をありありと覚えている。
 
 昼すぎ、昨夜の襲撃から逃げ延びた人たちが保護されてきた。ヴェリッシモ氏を除く全員がいた。誰もが極度の緊張状態か虚脱状態だった。A氏もいた。幽霊のような表情だった。僕の姿をみとめ、ゆらゆらと歩いてきた。
 力なく握手をし、少し話しをした。
「あれから、どうやって逃げましたか?」
 A氏は、燃える家から脱出したあと、近くの溝の中に潜み続け、明るくなってから教会に匿ってもらったそうだ。
 そしてA氏はこんな言葉を口にした。
「わたしは、あの家の中で、民兵に捕まったのだよ」
 あの状況で民兵に捕まり、無事にすむなど信じられない。
「どうやって逃げたんですか!?」
「連中はわたしを捕まえたものの、すぐわたしを放して、外国のカメラマンの君の方を探したんだよ」
「・・・・・」
「君が先に捕まっていれば、わたしも生きてはいなかっただろう」
 
 襲撃後すぐに写真をあきらめて、つくづく良かった思う。へたにカメラマン根性など出していたら、自分はおろか他の人たちまで犠牲になっていたところだ。

<あらかじめ計画された大殺戮>

 襲撃から生き延び、僕はディリに戻った。
 しかし、投票結果の発表をひかえたディリにも不穏な空気が流れていた。
 BBCやオーストラリアのジャーナリストが民兵に襲われて怪我をしていた。
 開票結果が発表されれば、民兵が大暴れすることは間違いなかった。
 民間機は、不穏な東ティモールへの運行をストップしてしまった。

 負傷者を出したBBCは、国連の開票発表の前日に、チャーター機を呼んで東ティモールを離れた。BBCがいち早く現場を離脱したことで、全メディアが浮き足立った。

一九九九年九月四日、午前九時。
開票発表。於:マコタ・ホテル(現ホテル・ティモール)

独立:三四、四五八〇票(七八、五%)
併合: 九、四三八八票(二一、五%)

開票結果は、ラジオを通じて東ティモール全土にアナウンスされた。
それからしばらくしてディリの街に銃声が鳴り響いた。


<完>
=====================================================================

これは、一九九九年九月に書いたルポを加筆修正したものである。

後の取材で、ヴェリッシモ氏を殺害した襲撃者は十一名であることがわかった。
全員が東ティモール重大犯罪部から訴追されている。
十一名の中には、インドネシア国軍特殊部隊コパススの隊員が二名含まれている。
襲撃者は、このコパスス隊員に指揮命令されて襲撃を行った。
襲撃実行犯十一名に加えて、当時のラウテム県の知事エルムンド・コンセッソンも訴追されている。
襲撃を立案・指示したのは、知事エルムンド・コンセッソンである。
エルムンドは現在、バリ島で悠々自適の生活を送っている。



<参考記事>
PTSD
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/ca59f3cc08b6118a5b4d360a3c307308

取材準備:覚悟
http://blog.goo.ne.jp/leonlobo/e/ae549105fb264dc9183b9d135701eba3

「 アルマンド 」(仮題)

2006年06月16日 17時35分35秒 | ●東ティモール

 アルマンドの車は真っ暗な山中でパンクした。すぐ先の道路には民兵によって殺された大勢の遺体がいまだ打ち捨てられている。そこには女性や子供の遺体さえある。二〇〇mほど先のその地点は、東ティモール併合民兵の待ち伏せ場所だった。しかし、そんなところでパンクしたとはアルマンドは知る由もなかった。


一九九九年九月。
 東ティモールはインドネシア国軍、警察、そして併合派民兵の殺戮と破壊と略奪の真只中にあった。ディリの街のいたるところに殺害された遺体があった。路上にころがる遺体。家屋内、商店内にはガソリンを撒かれ焼かれた遺体。井戸の中には折り重なるように投げ込まれていた。特に海岸には多くの遺体が打ち捨てられていた。地方のある街では、多くの住民が生きたまま、高さ数百メートルの崖から突き落とされた。東ティモール全土で一〇〇〇~三〇〇〇人あまりの市民が虐殺されたというが、いまだ正確な数字は判然としない。海に流された遺体やワニのいる川に流された遺体もあるからだ。
 インフラの八十%は破壊され、ビルといえるものはすべて炎上した。一般家屋も破壊、焼打ちを免れたものは少ない。破壊を免れた家屋も全ての財産を略奪された。車、バイク、電化製品あらゆるものが消えた。
 あれから二年(二〇〇一年当時)近くたった今でも、インフラのほとんどは破壊されたままである。どの街を訪れても、破壊され炎上した建物や民家ばかりが目につく。地域によって差はあるが、現在でも電気、水道の供給すら完全ではない。


 九九年九月一七日、その殺戮と破壊の真只中の街から、アルマンドは単身、車を運転してディリを脱出した。この車は、民兵の略奪を恐れた彼の友人が、西ティモールのクパンまで運んでくれるよう依頼したものだった。ティモールでは車はたいへんな財産である。


<暗闇>
 左前輪がパンクしていた。西ティモールとの国境まであと数十キロの山の中である。もっとも危険な地帯だ。速やかにタイヤを交換し、出発しなければならない。
 しかし、パンクした車を前にアルマンドは途方にくれていた。車にはタイヤのボルトを外す工具がなかった。工具と呼べるものはジャッキ、ペンチ、ドライバーにプラグレンチくらいだった。あとはゴムのり、ハサミ、ヤスリ、ビニールホース、針金、そして壊れたプラグ。これだけで一体どうすればいいというんだ。

"こんなところでもたもたしていたら民兵に見つかってしまう"  
 アルマンドは恐怖した。すぐそばには民兵に襲撃されたものであろう一台の焼かれた車があった。
 パンクした車の前でアルマンドは知恵をしぼった。
 とにかく車をジャッキアップした。
 どうやってタイヤをとめている四つのボルトを外すか。ペンチなどでは緩まない。タイヤレンチの代わりになるものはないか。しかし車にはそんなものはない。
 "考えろ!考えれば、なんとかなる。"
 アルマンドは普段から、何でも工夫することが好きな質だった。
 一般に途上国の人々は、あるだけの道具、あるだけの材料で、物を修理することに長けている。車種に合わないフロントガラスをばっちりはめ込んだりもする。工夫次第でたいていのものはなんとかなるものなのだ。

 アルマンドはジャッキをポンプアップするためのステンレスパイプに目を付けた。幸いパイプの内経はボルトよりも大きかった。彼はパイプの端を石で叩いた。タイヤのボルトに合わせて、また叩いた。ボルトにはまるように狭めるためだ。ボルトにがっちりはまるまで叩いた。それが完了すると、そのパイプを傍らの焼かれた車の頑丈な部分に差し込み、ゆっくりL字型に折り曲げた。
 タイヤレンチができあがった!
 即席レンチをボルトに差し込み、力いっぱい回すと、きしみ音をたててボルトは緩んだ。急いで、四つのボルトを外し、パンクしたタイヤを車から取り外した。アルマンド安堵した。あとは、スペアータイヤを取り付れば脱出できる。アルマンドはトランク・ルームからスペアータイヤを取り出した。
 しかし、スペアータイヤはぺしゃんこに空気が抜けていた。
 午前一時。アルマンドは暗闇の中にひとり呆然と立っていた。


<ディリ>
 アルマンドが脱出してきたディリの街では、この世の地獄が続いていた。
 彼は、民兵が女性を殺す現場さえ目撃している。しかし助けたくともどうすることもできなかった。見つかれば自分も殺される。隠れて、ただ見ているしかなかった。
 しかし彼もついにインドネシア国軍兵士に見つかってしまう。 が、幸い、アルマンドは西ティモールのフローレス生まれだった。
西ティモール生れで東ティモールに移住してきた者は、すなわち併合派(支持)と単純に受け取られていた。彼は六才の時に両親に連れられて東ティモールに移り住み、以来二七才の今日まで東ティモールの人間として生きてきた。ただし独立を指示する人間として。彼は独立派ゲリラ・ファリンティル(現国防軍)に多量の弾薬を寄付したことさえある。国連が来てからはUNAMET( United Nations Mission in East Timor)のセキュリティ・ガードとして働いた。
 国軍兵士はアルマンドが独立支持だとは夢にも思わなかった。しかし、西ティモールに去らねば、撃ち殺すと脅かした。虐殺と破壊の中、併合派の市民はすべて強制的に西ティモールに送られていた。併合派の家屋も容赦なく破壊された。強制避難に従わなければ併合派でも容赦はなかった。アルマンドはディリ退去をよぎなくされた。しかし、ディリに留まるのも、退去するのも、同じくらい危険に満ちていた。


<暗闇>
 アルマンドは役に立たないスペアータイヤを前に途方にくれていた。
どうすればいいのか・・・タイヤレンチを自作して、ようやくタイヤを外したというのに。
 そのときディリの方角から車のライトが近づいてきた。アルマンドはその車を止めた。家族を乗せ同じくディリを脱出してきた車だった。事情を説明した。その車にはスペアータイヤが積まれていた。が、無情にも、彼はそのタイヤをアルマンドに与えることを拒否した。しかし無理もない。家族まで乗せているのだ。スペアータイヤを失ったあと、今度は彼の車がパンクするかも知れない。アルマンドは、相手を恨む気にはならなかった。

 スペアータイヤは諦めるしかなかった。しかしアルマンドは彼に五分だけ待ってくれるように頼んだ。先を急ぐ相手は苛々しながらも、なんとか聞き入れてくれた。
 アルマンドは急いでパンクした前輪と、スペアータイヤをヘッドライトで照らされた路上に並べた。
 彼はこれからパンクしたタイヤのチューブを修理するしかなかった。タイヤからチューブを取り出す作業は一見単純だが、人力で行うのは容易ではない。ホイールのリムにがっちりはまっているタイヤの縁を一度リムの内側に外す必要がある。人力で行おうと思えば、大型の鉄のハンマーでもない限り不可能だ。どうやって外せばいいのか。それをアルマンドは思い付いたのだ。
 路上に並べた二つのタイヤ。それを車のタイヤでゆっくり踏んでもらった。車の重みでタイヤの縁はリムの内側に外れた。タイヤを踏んでしまうと車はそのまま去って行った。

 アルマンドはヘッドライトの明かりの中に、またひとり残された。
 彼は次のことを考えなければならなかった。
 チューブを取り出すためには、いったんホイールのリムの内側に外したタイヤの縁を、今度は逆に外側へ外さなければならない。これも本来専用の金属の板二枚がなければ容易にはいかない。
 が、当然そんなものはここにはない。
 "丈夫な金属の板はないか!"
 アルマンドは闇夜の中で恐怖と闘いながら、次から次へと考え続けなければならなかった。
 板状の丈夫な金属・・・。
 アルマンドは焼かれた黒焦げの車を見た。そこに板状の金属を発見した。彼は車の下にもぐった。そしてそれを取り外した。
 サスペンション用の板バネだった。
 専用の工具より幅も厚みもはるかに大きい。それ自体ではとてもリムとタイヤの縁の間に入るしろものではなかった。彼はドライバーを取り出し、リムとタイヤの縁の間に差し込んで、こじあげた。なんとか分厚い板バネを差し込む隙間ができた。板バネをその隙間にねじ込み、力一杯こじあげた。タイヤの縁はリムの外側に外れていった。これでチューブが取り出せる。ヘッドライトの明かりの中で
黙々と作業を進めた。

 ふたつのタイヤからチューブを取り出し、チェックした。前輪のタイヤのチューブは裂けていた。パンクというとり破裂したのだ。スペアータイヤの方のチューブは穴が空いているだけだった。チューブの修理をはじめた。穴の修理は簡単だ。裂けた方のチューブをハサミで切り取った。ハサミは小さく切れない代物だったが、あるだけでありがたかった。切り取ったチューブ片にヤスリをかけた。
チューブの穴のあいた部分にもヤスリをかけ、両方にゴムのりを塗り一〇分待った。張り合わせたあとを石で叩いて密着させた。修理の完了したチューブをタイヤの中に戻した。そしてホイールの外側にはずしたタイヤの縁を、再度板バネを使って、ホイールのリムの内側にもどした。
 終わった・・・
 これであとは空気を入れるだけだ。
 そこまでを恐怖と闘いながら、必死になって考え続け、アルマンドはやり遂げた。

 しかし、彼は最後の段階になって呆然自失となった。
"どうやってタイヤに空気を入れたらいいんだ!"
 続けざまにおとずれる目の前の難問を、一つずつ解決するのに必死だったアルマンドは、先のことなど考える余裕はなかった。ここまでやり遂げながら、空気を入れられなければ、何の意味もないではないか!風船をふくらますのとはわけがちがう。コンプレッサーかポンプがなければどうにもならない。こんな山の中にそんなものがあるわけがない。いままでの努力は一体何だったんだ。
 アルマンドは泣き崩れた。
 泣きながら神に祈った。
 "生まれたばかりの子供の顔をもう一度見せてください。妻の顔を見せてください"と。
 民兵がいつやってくるかもしれない。そう思うと気が狂いそうになった。アルマンドは絶望感で泣き続けた。
 漆黒の闇夜だけが彼の味方だった。


<ディリ>
 そもそもアルマンドは、いったん西ティモールのクパンに避難していたのだ。それをわざわざ殺戮と破壊の真只中の東ティモールのディリに舞い戻ってきたのだ。「給料」を受け取るために。
 併合派民兵が大暴れする混乱の中で、彼は国連(UNAMET)のセキュリティ・ガードとしての給料を受け取れないまま西ティモールに避難した。先にクパンに避難していた妻は子供を出産していた。クパンで彼は無一文に近い状態だった。それで彼はディリに戻って、UNAMETから未払いの給料を受け取ろうと決心した。無謀といえばあまりにも無謀な行為だ。安全な西ティモールのクパンから、わざわざ殺戮の街にやってくるとは。しかし、それほど金に困っていた。まさにミルク代もなかったのだ。西ティモールには金を借りられるような友人、知人はいなかった。たよりはUNAMETの給料だけだった。
 しかし、危険を冒してディリに着いてみると、国連の姿はどこにもなかった。いったい何のために舞い戻ってきたのか・・・。


<暗闇>
 アルマンドは泣き続けた。
 そして祈り続けた。
 "生まれた我が子の顔を、妻の顔を見せてください"
 そしてアルマンドは何度も自分に言い聞かせた。
 "考えるんだ!あきらめるな!考えろ!"
 "生きてここを脱出するんだ!"
 しかし、ポンプもコンプレッサーもないこの山の中で、どうやってタイヤに空気を入れることができるのか。不可能だ。いくら工夫することに長けたアルマンドでも、もはや答などないことは明白だった。
 彼は絶望の淵にいた。
 それでも、彼は自分に言い続けた。
 "考えろ!あきらめるな!"と。
 泣き、祈り、考え続けた。
 考える続けることだけが、恐怖から逃れる唯一の方法だった。
 長い時間が経ったように感じた。
 そしてアルマンドの頭に、ひとつのイメージが浮かんだ。
 "やってみる価値がある!"  
 アルマンドは、トランクに転がるスパークプラグに飛びついた。古びて壊れ、使いものにならない代物だった。彼はペンチと釘を使ってスパークプラグに細工をしはじめた。それが完了したら、車のボンネットを開け、四気筒のエンジンからスパークプラグをひとつ取り外した。そしてそこに細工したスパークプラグを取り付けた。


<ピックアップ>
 このとき、ディリの方向から車のライトが近づいてきた。そしてアルマンドの車の後方で止まった。ピックアップトラックだった。アルマンドはスペアータイヤを持っているか尋ねようと思った。運転席に三人、荷台に一人の男がいた。男たちが降りてきた。二人はアルマンドの右側に、一人は左側に、残る一人は車の後方に立った。四人の内三人はAK四七自動小銃を持ち、一人だけ拳銃だった。
 ついに恐れていたことがおこった。
「ここで、何をしている」
 男の一人が冷たい声で言った。
 アルマンドの心臓は高鳴った。
「パンクの修理をしている・・・」
 アルマンドは答えた。心臓は高鳴り続けた。
 男たちは冷たい目でアルマンドを見続けた。
 彼らは制服は着ていなかったが、インドネシア国軍兵士に違いなかった。四人そろってアーミーカットだった。民兵はどちらかといえば長髪が多い。
 アルマンドのズボンのポケットには国連のセキュリティ・ガードのIDと国連旗があった。国連で働くものは独立派であるとみなされる。ボディ・チェックされれば、まちがいなく命はない。
 男たちは、アルマンドを見定めるように、黙ったまま睨み続けていた。そして、
「ここに長居するな・・・死にたくなければ・・・」
 と低い声ですごんだ。
 それだけを言うと男たちはピックアップで走り去った。
 アルマンドは胸をなで下ろした。
 兵士のピックアップには略奪してきたものであろう様々な物品が満載されていた。彼らは先を急いでいたのだろう。

 我が身の好運を喜んでいる暇はなかった。もはや一刻も早くここを去りたかった。第二第三の略奪兵士や民兵が来るかも知れない。
 アルマンドは急いで作業の続きに入った。


<暗闇>
 彼は、トランクにある一メートルほどのビニールホースを取り出した。そして、兵士が来る前に、エンジンに取り付けた”細工をしたスパークプラグ”に、そのホースをかぶせ、はずれないように針金できつく巻いた。ホースの反対側を、パンク修理をすませたタイヤの空気注入口にかぶせ、おなじく針金でしっかりと巻いた。エンジンとタイヤがホースでつながった。

 そしてアルマンドは運転席に飛び込み、キーを回した。エンジンをかけると、アクセルをめいいっぱい踏み込んだ。
 夜の静寂を打ち破りエンジンが唸る。
 ポンプはあったのだ。エンジンとはすなわちポンプそのものではないか。
 ペンチと釘を使って中身を引き抜き「中空」にしたスパークプラグを通り、シリンダー内の混合気はビニールホースからタイヤへ送られた。

 三分ほどエンジンを吹かし続けた。長い時間に感じた。そして運転席から飛び出し、タイヤの圧を確かめた。すでに十分入っている。完璧ではないが、走るのに問題はない。もはや一秒も長居したくはなかった。アルマンドはホースを引きはずした。細工をした中空のプラグを外し、正常なプラグを取り付けた。そしていまや「混合気」で膨らんだタイヤを、手製タイヤレンチで車に取り付けた。
 時計は午前三時を差していた。二時間かかった。いや、たった二時間でやってのけたのだ。


<脱出>
 アルマンドは車を走らせた。
 二〇〇メートルほど走ると、車は急な登りの右カーブに差し掛かった。アルマンドの車のヘッドライトは道路脇の多くの遺体を照らし出した。二〇~二十五体。殺害され、血にまみれた男性、女性、老人、若者、そして子供の遺体。信じられない光景だった。アルマンドはそこが民兵の待ち伏せ場所だったことを悟った。
 アルマンドは涙を流しながら、ハンドルを握った。


 夜が明ける前に、彼は危険地帯を抜けた。
 そして、生まれたばかりの我が子と妻の待つ、クパンに着いた。
 クパンを出た時と同様、無一文で。
 車の所有者である友人は、車を受け取ると礼を言っただけで、何の謝礼も支払わなかった。 





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これはインタビューをもとに構成した真実の物語である。
中司達也

1999年9月4日 東ティモール

2006年06月14日 17時20分26秒 | ●東ティモール
1999年9月4日 東ティモール ディリ

住民投票の結果がアナウンスされた直後のディリ市内。
独立派が圧勝したにもかかわらず、
通りに人影はなく、
インドネシア国軍、警察の車両以外はほとんど走っていない。

不気味な静寂につつまれた街に、
散発的な銃声が轟く。
木霊が去ると、より深い静寂がおとずれた。
いったい、何が起こっているのか。
これから何が起ころうとしているのか。

写真 : マリ・アルカティリ

2006年06月04日 15時20分22秒 | ●東ティモール
マリ・アルカティリ東ティモール民主共和国首相
東ティモール警察創立3周年記念式典にて
2004年

マリ・アルカティリ首相は、インドネシア支配時代は、アフリカのモザンビークで亡命生活を送っていた。そのため、闘争の象徴であるシャナナ・グスマンやノーベル平和賞のラモス・ホルタに比べ陰の薄い存在だった。

東ティモール「独立」後、アルカティリ首相は警察力を強化し、グスマン大統領の影響力の強い国防軍に対抗しようとした。

ほとんどの閣僚が出席したこの式典にも、グスマン大統領の姿はなかった。
2004年


東ティモールの治安維持権を国連PKFから、東ティモール国防軍(FDTL)へ移譲する式典。
2004年

そしていま、治安維持権は国際軍に移譲し返された。




長谷川祐弘国連東ティモール支援ミッション副代表(当時)と歓談するアルカティリ首相。
2004年

(長谷川氏は現在、国連東ティモール事務所代表)









グスマン大統領と歓談するアルカティリ首相。
「独立」一周年記念式典にて
2003年

両者が笑顔で向かい合うことはもう二度とないだろう。

写真 : ジョゼ・ラモス・ホルタ

2006年06月03日 12時31分39秒 | ●東ティモール
記者会見中のジョゼ・ラモス・ホルタ東ティモール外務大臣
会見ルームは政府庁舎の庭に建てられたクーラーも壊れたバラック
会見する側も、取材する側も少し辛い
2003年

ホルタ氏は、東ティモール民族抵抗評議会の幹部として、東ティモールの対外活動を精力的に担った。東ティモール独立の平和的解決に尽力した功績を認められ、1996年度のノーベル平和賞を受賞。


1999年12月

ジョゼ・ラモス・ホルタ氏
サッカー大会の開会式に

中央は、INTERFET(インターフェット:多国籍軍)司令官

サッカー大会の予選を観戦するホルタ氏。
いまでは、考えられない光景である。








予選を勝ち抜き、決勝に進んだ東ティモールのチーム。










こちらが対戦相手の”INTERFET”チーム。
つまり、多国籍軍選抜チーム。







ちなみに、この大会の名前は、
”NOBEL CUP”である。





















9月の破壊と虐殺からまだ二ヶ月。
何か異次元的なサッカー大会であった。

1999年12月

写真 : シャナナ・グスマン

2006年06月02日 22時56分01秒 | ●東ティモール
2002年5月
独立式典後、正式に東ティモール民主共和国の初代大統領に就任したシャナナ・グスマン氏


1999年12月
ジャカルタの刑務所を出所してまもない頃のシャナナ・グスマン氏。

独立派ゲリラ・ファリンティルの司令官だったグスマン氏は、インドネシアの治安当局に逮捕され1992年11月から1999年9月まで投獄されていた。

一連の写真は、マーケットの不衛生な生ゴミを清掃しようと呼びかけるグスマン氏。
グスマン氏は、熱帯の暑熱で腐った生ゴミをなんと素手で掃除しはじめた。

焼け跡の東ティモールの街は、極端に衛生環境が悪化していた。



















詰まったドブに手を突っ込んで泥を掻き出すグスマン氏。
三年後に、大統領になる男である。