まさに〝混迷五輪〟ともいうべき状況に至ってしまった「東京五輪2020」は、それでも日程に従い ソフトボールやサッカーなどの競技が「プレ開始」され、23日には開会式が行なわれることになっています。
そんな中、国の中枢である立場の者の発言が「現実が見えてなさ過ぎる」と物議を醸していることが報じられています。
新型コロナウィルス禍のな最中(さなか)、あたかも五輪日程を追うように 主開催地である東京都内での新型コロナウイルス陽性感染者が右肩上がりに増加しており 憂慮の念を共有する事態となっています。
7月中旬に 第4波のリバウンドより早いペースで1,000人超えを記録して以来、ほぼ毎日千人の大台を上回る陽性感染者の発生が報じられています。
直近では22日に1,979人を記録…都内感染者は 1週間前より671人増え、前週の同じ曜日に比べて増えたのは33日連続となったとのことです(前週比155.7%)。
都内の累計の患者数は19万人をゆうに超え、このうち現在入院している重症患者は65人となったとのこと(その内訳も、従前の高年齢者だけでなく いわゆる現役世代が増えていることも併せ伝えられています)。
そんな中、21日に行なわれた会見で菅首相は「国民の皆さんには自宅でテレビなどで声援を送っていただきたい。テレワークや交通量の抑制にも協力をいただきたい」と五輪への協力を要請したとのこと。
・・・と ここまではよかったのですが、その舌の根も乾かぬうちに こうも続けたとのことです。
「パラリンピックまでに感染状況が変わったら、ぜひ有観客の中で開催したいと思っている。」と。
さらには、丸川珠代五輪担当相についても(閣議後の)会見で「(東京パラリンピックについて)「状況が許せばぜひ観客を入れて行いたい。学校観戦をはじめ子どもたちの観戦が可能になるような環境をつくりたい。」と語ったことが報じられました。
これらを耳にした私は、その場で一瞬ことばを失い 直後に大きな違和感を禁じ得ませんでした。
この楽観論…コロナ禍の現実とあまりに乖離したメディア発言(発信)は、一体どのような根拠で行なわれる(発せられる)のでありましょうか。
コロナ禍の中、それでも開催される「東京五輪2020」は、感染拡大の抑制とアスリートの夢舞台の実現という いわば相矛盾した中で行なわれようとしています。
そして そのギリギリの選択が「無観客開催」ではなかったか。
しかし 現実には都内の感染者は増加の一途を辿り、医療現場は五度(ごたび)の危機的状況に陥ろうとしています。
そのような状況下、国(政府)は 五輪に「かまけて」いるだけでは無く、都内の感染拡大防止に全力を挙げ、都内の医療現場の支援にも全力を挙げるべきではないか。
しかし 現状の対応…国等は 飲食店等を標的とし、中途半端な規制をかけ 後は〝呼びかけ〟に終始するのみ。
あげく飛び出したのが「パラリンピックは有観客で。」とのKY発言…これを聞いて呆れたのは 私だけでありましょうか。
さらに言えば〝子どもたちの観戦〟を持ち出した五輪担当相発言…一見〝美談〟に映るこの発言も、こと ここに至れば「子供をダシに 支持(率)回復を画策しているのでは…」との穿(うが)った意見もSNS上に聞かれるほどです。
一方で私は かかるKY発言に対し、コロナの感染リスクの面で大きな違和感を覚えたものでした。
ご案内のとおり パラリンピックは「身体障がい者のスポーツの祭典」であります。
そこに出場するパラリンピアンは、身体の障がい以外は いわゆる健常者と同列であるものの、一度(ひとたび)コロナに感染すれば さまざまな面で社会生活に大きな支障がでることでありましょう。
また 五輪担当相のいう「子供の観戦」については、コロナ禍は児童への感染リスク(重症化率)は低いとはいうものの、児童は 今回のワクチン接種の対象外(12才以下)であり、社会全体においては感染リスクの最前線にいると言えるのではないか、と。
これから行なわれる東京パラリンピックは、そのような「リスク」を包含する方々の参加が見込まれるものであり、そこには オリンピック以上の感染予防への取り組みが求められているのではないでしょうか。
しかしながら、この度の〝要人発言〟は、それを度外視した楽観論。
あたかも 戦場で弱者を火線に晒(さら)しても、対面を保とうとの〝大本営発表〟に近いものがあるのではないかと思わされたところです。
そして これらの発言は、総理が いわばオウム返しで言い続けている「安心安全な大会を成功させ、未来を生きる子どもたちに夢と希望を与える歴史に残る大会を実現したい。」と大きく乖離(かいり)していると言わざるを得ないのです。
今、残念ながら 都内は人流(じんりゅう)に溢れています。
これは何故か。
幾度にも亘る『緊急事態宣言』に 都民が辟易(へきえき)していることに併せ、もはや人々が政治を信頼できなくなってきていることの証左ではないかとも思わされるのです。
政治…というより 人間関係は「信頼」の下に成り立っていると思います。
「多少の無理はあっても、アイツが言うなら そしてそういう理由であれば、ここは一肌脱いでやるか。」というやり取りが 社会での良好な関係を築き、互いに高め合う環境が構築されてゆくものでしょう。
そして その心理(心根)こそが、日本人の持つ寛容・受容の精神ではなかったか。
しかし 残念ながら今、日本は真逆の方向に進もうとしているのではないか。
アスリートによる〝純粋ドラマ〟が演じられようとする一方、自分たちの都合だけで描いたシナリオに基づく〝悲喜劇〟が、同じ舞台で行なわれようとしている感しきりであります。