倉野立人のブログです。

日々の思いを、訥々と。

立ち止まってはいられない ~生半可(なまはんか)な知識が招く 結果としての「市民不利益」~

2023-09-30 | 日記

立ち止まってはいられない。

改めて そう思わされる案件(相談)があり、思いを新たにさせられました。

28日(木)の夜、共に障がい者支援に取り組む「Gota」チームのMキャプテンに声をかけてもらい、市内のファミレスに足を運びました。

このとき私は、例の報道被害によりゴタゴタしていたのですが、そんな中でも変わらず声がけしてくれたMキャプテンに感謝しつつ ファミレスに入りました。

 

と、メンバーの隣席には 地元の区長会OBと覚(おぼ)しき 私も面識のあるOさん一行が陣取っており、何やら和(なご)やかな雰囲気でおられます。

知らない仲ではなかったので「どうもこんばんわ。」と頭を下げると、 中のお一人が「当選おめでとう。」と声をかけてくれました。…のですが、件(くだん)のOさんは やや口元を歪めながら「礼状問題はどうなった?」と冷笑をかけながら私に。

区長経験者で識見もあるハズの人が、私の顔を見るなり この発言です。

新聞を熟読したうえでの発言なのかは知る由もなく、私の方も「記事をヨク読んでから言ってください。」と喉元まで出かかったところですが、そこは大人の対応「お騒がせしています。」と一礼して仲間の居る席に座りました。

「あ…これが世間の認識なんだ。」と心の中で嘆息しながら でしたが。

 

さて 本題。

この日メンバーが集まったのは、障がい者支援施設に通うAくん(20才代)から 予(かね)てよりの相談を受けている件についてです。

(この詳細については後日に譲ることとし、今回は概略のみとさせていただきます)

皆でドリンクバーの飲料を飲みながら…一見 穏やかなコミュニケーションの場に映りますが、その会話の中身は深刻といえるものでありました。

 

 

 

 

このAくん、市内の障がい者支援団体に身を置く中、昨年6月に農作業(草刈り)に従事していたところ 仲間の不注意で脚(ふくらはぎ)に大怪我を負わされてしったのです。

当然 これは重大な労働災害であり、当時の現場の状況や 就労環境(見守り・管理等)が問われる案件です。

さらに当然、Aくんに対しては 治療費などの医療費保障(補償)・さらに事故の被害者となってことで保険での補償などの手厚い措置が講じられるべきところであり、そのことについては 就労先が加入する保険会社等が直ちに受け持つ運びになるハズでありました。

ところが、です。

Aくんに対する保険保証の事務作業は遅々として進まず、無為に時間ばかりが経過することになってしまっているのです。

生活保護を受けているAくんには不安ばかりが募り「この先いったいどうなるのか…」と困り果てて「Gota」に相談を寄せているのでした。

Aくんの心配は3点に及んでいます。

1つは、自分の受けた被害について補償がされるかどうか。

2つめは、Aくんの〝生活の糧〟でもある「生活保護」は、事故の補償後も維持されるのかどうか。

3つめは、今後 就職して自活(自立)してゆけるかどうか。

このうち、1・3については 機微に触れる内容でもあるので後日に吟味のうえ詳細報告させていただきますが、今回は 2 について(関連して)見えてしまった〝行政体質〟について述懐するところです。

述べているとおり、障がいを抱えながら生きるAくんにとって「生活保護」は、まさに生きてゆくための いわば命綱であり、これが維持されるかどうかは 彼にとっての生命線となっています。

しかし今回、ケガを負わされて「補償」が匂わされることになったことで それ(補償)が収入とみなされ、もしかしたら生活保護が打ち切られるのではないかとの情報が伝えられ、Aくんの不安は増幅するばかりとなってしまいました。

Aくんにとっては、ケガの補償(金)は二の次の話し。とにかく生命線である生活保護が存続されるかどうかが全てなのです。

 

この、Aくんの他でもない心配を知るMキャプテンは 私に対し、このこと(補償されても生活保護は維持されるのか)との疑問(心配)について 議会(常任委員会)の場で確認して欲しいと言われ、私もそれに準(順)じて常任委員会(福祉環境委員会)の場(所管事項調査)で質問しました。

「生活保護制度を受けている障がい者さんが、同支援施設の就労の場で受傷し、保険(補償)の対象になった場合、生活保護は維持されるのか。」

それに対し 生活保護を所管する生活支援課々長は「一般論ですが」と前置きしながらも「たとえ保険(補償)の対象になったとしても、生活保護が打ち切りになることはありません。」と明確に答弁したのです。

 

ところが、です。

その後の「Gota」の調べ・また その後の所管の動きによると、どうやら 生活保護を受けている者が、保険や補償の対象になると それは収入とみなされ、生活保護の対象から外れることになってしまうことが判ったのです。

(この件に関するAくんを取り巻く顛末は やはり後日に譲ります)

結果、生活支援課々長の答弁は 事実(現状)と異なるものであることが判然してしまいました。

 

・・・・・。

今回のケースは、Aくんを案じ サポートしてくれる存在(Gota)が居てくれるから大過なく推移していますが、これが 天涯孤独の人が行政指導を頼みの綱として指導を乞(こ)うたとき、そのアドバイス(アンサー)が間違っていたとしたら。

その人は 行政を頼ったばっかりに誤(あやま)てる道を歩まされ、結果 不利益を被(こうむ)ることにもなりかねないところでありましょう。

 

同様の他のケース(行政(所管)による誤情報)を「Gota」のMキャプテンは指摘しています。

さきに調査に入った、障がい者就労支援施設「空風」に設置されている 高額(約1,000万円)の〝レトルト食品製造機械〟が置き晒(ざら)しになっている点について「設置費用に長野市の補助金が入っているんじゃないか」との(Mキャプテンの)問いに対し、対面した職員(障害支援課)は「補助金は入っていません。」と断答(だんとう)したのです。

しかし実際には、設備全体の中で相当額の補助金が入っていることが判り、結果 所管課職員の答えは間違っていることが判然しました(この「補助金が入っている・いない」は、機械の設置後に行政指導が行なえる(行なうべき)か否かの重要な分岐点になる点でした)。

 

 

「生半可」という言葉があります。

これは「十分(充分)でなく中途半端であること。いいかげんであること。また、そのさま」と解説されており、そのとおりと思います。

今回 市行政(担当)は、まさに生半可な情報のままに それを外に向けて発信(回答)し、それは状況によっては大きな〝市民不利益〟を招くことになりかねないものでありました。

補償の対象となっても生保はダイジョウブ・市の補助が入っていないから(市による)指導の対象では無い など、職員の持っている情報次第で大きく間違った方向に賽(さい)が投げられるところでありました。

しかも 二重の問題と言えるのではないかとされる点は、これらの生半可な対応が いわゆる社会的弱者である障がい者さんを適切に支援することを職務(職責)とする福祉担当の職員によって為(な)されていた(いる)という現実(実態)であります。

前述のとおり、たとえばAくんのような 生保を頼りに生きている障がい者さんは、何か分からないことや困ったときには 何はなくとも行政(職員)を頼り、適切な(正しい)アドバイスを受けたいと乞うところでありましょう。

その切実(悲痛)な声に対するファイナルアンサーが間違っていたとしたら…。

 

また、この Aくんの不安要因の(大きな)一つには、就労先である障がい者支援団体(担当者)の〝事務手続きの遅さ〟があると断ぜられます。

Aくんが受傷させられた。それは もしかしたら万(ばん)やむを得ないこととしながらも、問題は その後の対応の〝スピード感〟です。

もし、Aくんの受傷後ただちに雇用主(障がい者支援団体)が 治療費や補償の補填の事務手続きに入っていれば、Aくんの無用とも言える不安は生じることも無く推移し、その後の生保関連等の対応もスムーズに行なわれていたでしょう。

 

 

 

本来 社会で最も庇護(ひご)されるべき社会的弱者が、最もないがしろにされているとも言われかねない実態がある現実社会。

この現実を目にした以上は、これを看過することがいかにできるものでありましょうか。

 

立ち止まってはいられない。

改めて そう思わされた案件でありました。


23日の新聞報道 その後

2023-09-27 | 日記

令和5年長野市議会議員選挙から10日余が経過しました。

そして、私に関する唐突な新聞記事が掲載されてから5日余が経過しています。

あれから相当の時間が経過してしまいましたが、この間 周囲から寄せられてきた批判や激励がない交ぜになった多くの反響に基づく出稿元(記者)とのやり取り等に相当の時間を要し、ついぞ今日にまで至ることとなってしまいました。

 

この間、私自身 学ぶことがありました。

先ずは公職選挙法の難しさ。

後に確認すれば、出した側は真摯かつ単純な御礼のつもりであったとしても それが選挙中に出されたことで、公選法に須(すべから)く準拠していないとの指摘があれば、それは思慮が足りなかったと申せます。

ただ これはあくまで儀礼の範囲であり、私以外の陣営も一般的に行なっていることを側聞するとき、今後は私の陣営においては よりシビアに対応しなければならないことを思い及んだところでありました。

今後は、電話やメールで謝意を示すことが妥当ではないかと考えているところです。

 

そして これはやや心情的な面になりますが、私(私たち)が 心からなる謝意を示して出したささやかな礼状ハガキを 中身を熟読しないままマスコミに流した人の心理はいかばかりか ということを悩ましく受け止めました。

私(私たち)なりに示した誠意が 全く違う形で受け取られ(またはそこ(誠意)を分かっていたうえでのことかは知る由もありませんが)その対応として「当選御礼ではないか」と(マスコミに)持ち込んだ人は、それを遡(さかの)れば どういう気持ちで我が陣営に差し入れを持ってこられたのか…悩ましい限りであります。

 

そのうえで、今回の新聞記事の掲載内容であります。

みなさん既にご案内のとおり、あの記事の見出しは 私(倉野)が「当選御礼のハガキを出した」となっており、多くの(新聞)読者の方々は あたかも私が端(はな)から当選御礼のハガキを出したものと認識し、そのように印象づけられていることを知らされています。

そのことは ときに誹謗(ひぼう)からなる〝言葉の刃(やいば)〟として ときに私に直接向けられ、さらには 私を純粋に応援してくださった方々に対しても、いわば「からかいの言葉」として向けられていることを知ることで非常に残念に思い、また(私を応援してくださった方々に対し)申し訳なく思うばかりであります。

 

取材した記者に確認するなどしたところ、真相は下記のとおりのようです。

これまでも明らかになっているとおり(23日の記事の本文にあるとおり)私は、選挙の告示日以降にいただいた祝電・メッセージ・差し入れ等に対し、純粋な謝意をもって礼状ハガキを郵送しました。その差出し期間は 9月13日頃~15日までの間でありました。

この間 14日頃にも差し入れをいただいたことから、早急に御礼を申し上げなければとの思いから 15日の早朝(6時半頃)郵便局前ポストにおける第一回目の収函に間に合うように投函すれば その日の配達分に含まれると側聞して(早朝に)投函したのですが、残念ながらその日(15日)の配達分には含まれず 一部の礼状(15日投函分)は、土日休日を経て週明け(投開票日以降)に届いたようなのです。

で、その週明けの配達分の礼状ハガキが「当選の礼状ハガキではないか」との認識の下で新聞社に持ち込まれ、それが〝証拠〟として独り歩きを始めたようなのです。

 

記者は私に「ハガキを受け取った人が「当選御礼と思った」と言っている。」と話しました。

しかして記者は、その人の言葉を鵜呑みにして「これは当選御礼ハガキだ」と判断したのでしょうか。

しかしハガキの内容は 単に差し入れ等に対する御礼に過ぎず、配達された日にちは選挙後であっても その文中に「当選御礼」の表現は一切ありません。

また このハガキは あくまで特定な人に出された御礼ハガキであり、選挙期間中にみだりに文書図画を頒布するという行為でもなく、あの報道は過剰に過ぎたと思うところです。

 

そのうえで。

今回の新聞報道において 私(私たち)が、(これは私個人の問題に限らず)最も問題視せざるを得ないのが「記事のタイトルと本文(事実関係)の大きな相違」です。

記事を読み返していただければ判るとおり、記事のタイトルは「当選御礼ハガキを出した」ですが、本文は「祝電や陣中見舞い等への礼状を出した」に止(とど)まっています。

しかし 記事を熟読しない読者(有権者)は、記事のタイトルと本文の書き出しを見た(読んだ ではなく)瞬間に、私が端(はな)から当選御礼ハガキを出したんだ との半ば〝断定〟につながっている現実がそこにあるのです。

これは ひいては「印象操作」とも思われかねない表現方法であり、併せて 非常に恐ろしいことであると思います。

 

通報や情報提供による記者の取材。それらを積み上げたうえで文字(記事)にする作業。

そしてそこには、公(おおやけ)の場=紙面 に出来事を、いわば世間(社会)に晒(さら)すことへの責任が生じるハズです。

 

私の周辺におられる同紙の読者の中には、私のことも然(さ)ることながら、今回の報道において大きく矛盾した内容を平然と(読者さん曰く)掲載した同紙の姿勢そのものに大きな疑問(憂慮)を抱く方が少なからずおられることに気づかされます。

ある御仁は「これは あの「松本サリン事件」の初期報道と同じじゃないか。」と憤(いきどお)っておられました。

1994年に発生した「松本サリン事件」この際も 同紙は、十分な裏付けが無いままに第1通報者の河野義行さんを犯人視する報道をしていました。

いわば冤罪記事であります。

このことについては、同紙創刊150周年に際し 論説主幹が強い内省を込めて寄稿しています。 

 

 

 

寄稿文は「1994年夏 県警本部担当記者のリーダーだったとき「松本サリン事件」が勃発、その際に 150年の社史において目を背けることのできない重大な人権侵害をした。信濃毎日新聞は裏付けのないまま第1通報者の河野義行さんを犯人視する報道をしてしまった。取材力・判断力・人権を尊重する姿勢・報道記者としての自覚。すべて足りなかったと思う。」

あの時、メディアは恐怖や不安をあおるように「早く真相を知りたい」という欲求を満たすように、真偽不明の情報に飛びついては 異様な熱を帯びて報道合戦を繰り広げていった。距離を置いていたつもりが、渦の中にいた。浅はかな思い込みが急所となった。悔やみきれない。」旨を述べています。

この後 初期の報道によって犯人に仕立て上げられた河野さんは、それが後に誤報道と判った後も「悪しきレッテル」を貼られ、誹謗中傷などの言葉に尽くせぬ社会的被害を受け続けることになったことは周知のことであります。

 

さらに御仁は「事(こと)の大小はあれど、今回の報道も似たようなケースだ。あんな失敗を犯しておきながら、この新聞社は報道の機微について何ら学習をしていないのか。」

「これは、単にアンタのことに止(とど)まらない。このような先走った報道が平気で行なわれ続ければ、われわれは何を信じて情報に接すればイイのか。」と強い憂慮を示しておられました。

 

 

あの記事の掲載後、私は数度に亘って出稿元(記者)と話しをしました。

記事の掲載に至った経緯を訊き、そのうえで事実誤認・解釈の相違点について胸襟を開いて話したうえで 記事のタイトルと本文との大きな相違について指摘し、さらに 多くの読者が憂慮する「マスコミによる報道の在り方」についても言及したうえで、改めて本件について追記事を掲載することを求め 記者もそれを真摯に捉え、掲載に向け 上(デスク)と相談すると前向きな様子で電話を切りました。

 

ところが、です。

の日(27日)の夜、私のスマホにSNSが。

掲載見送りの連絡でした。

 

 

 

この決定が どのような経過で下されたのは知る由もありませんが、同紙デスクは 追記事掲載の必要性を認めなかったということでありましょうか。

 

 

・・・・・・。

前掲のとおり、私にとって今回の一件は さまざまなことを学び、また さまざまなことを感じ入る機会となりました。

その学びの内容は 多くは苦行となるものでありましたが、せめてもの救いは「理解者」の存在であります。

さまざまな経過を踏まえたうえで「その全てを糧(かて)にして頑張れ!」と言ってくださる方々の存在。これは私にとって このうえなく心強いところです。

おそらくは、今後の人生行路の中で 茨(いばら)の道も待ち受けているかもしれませんが、私自身 多くの方々にお支えいただいていることを何よりの励みとし、これからも あまねく市民みなさんのために精進してまいる決意を新たにいたしたところであります。

 

何より 目前に横たわる諸課題は枚挙に暇も無く、おろおろと立ち止まっている場合ではありません。

これからも「滅私奉公」の意気で歩んでまいります。

 


今朝(23日)の信濃毎日新聞の報道について

2023-09-24 | 日記

今朝(23日)の主要地方紙に、さきの長野市議選における私の行為が掲載されました。

みなさまにおかれましては たいへんお騒がせすることとなり、改めまして心よりお詫び申し上げます。

 

 

 

但し、この記事のタイトルと記事内容には大きな違いがありますので いわゆる〝三分の理〟として述べさせていただきます。

当方は 選挙中の差し入れ等へ御礼を述べるハガキは出しましたが、当選を御礼する内容のハガキは出しておらず、その点(表現)について、記事のタイトルと記事の内容(実際のハガキの内容)が大きく異なっているのです。

賢明な読者は 記事を読み進めていただければお判りのとおり、(記事の)タイトルは「当選御礼ハガキを出した」ですが、私の発言(事実)を元にした本文では「あくまで陣中見舞いなどへの礼状ハガキを出した」こと(事実)だけが掲載されていることから、この記事自体 タイトルと本文の内容とが合っていないのです。

なぜ このような〝矛盾記事〟を掲載するに至ったのか、疑問に堪えません。

ただ (新聞の)一般読者の方々は、記事のタイトルを見た瞬間に第一印象を抱かれることから、私が端(はな)から当選御礼ハガキを出したように思われたことについては残念に思うばかりです。

 

こちらとすれば、いただいたものに対し 純粋な謝意をもって善意(儀礼)で出した礼状ハガキ~それも みだりに不特定多数の有権者に出したものではないもの~が、当方の儀礼を受け取ったハズの人の手によってマスコミに持ち込まれたという事実に少なからずショックを受けているところですが、一方で報道の後も多くの方々に励ましの言葉やメッセージをいただいていることに、今まで以上に感謝の念を新たにしているところであります。

 

いずれにしても、いくら期を重ねたとはいえ 公職選挙法に対する認識が甘かったことを改めて反省し、今後は二度とこのようなことの無いよう自戒してまいる所存であります。

 

以上、お詫びとご報告に代えさせていただきます。


障がい者支援の名の下(もと)での虐待

2023-09-23 | 日記

ニュース記事で、全国で障害者向けグループホームを運営する会社が 愛知県内で運営する施設で利用者から食材費を過大に徴収していたことが分かり、これが 厚生労働省が障害者虐待防止法で定める(禁止する)「経済的虐待」の疑いがあるとして、県が立ち入り監査を実施したことが報じられました。それを耳にした私は このような形でも障がい者への虐待が為(な)されていることを改めて知り、心を痛めたところでした。

 

 

 

 

関係者によると、愛知県内のグループホーム1カ所で 利用者から徴収した食料費の金額が、実際に使った材料の購入額よりも多いケースが発覚したとのこと。他のグループホームでも同様の状況が判明したとのことでありました。

利用者からの施設利用料の経費を定める「厚労省令」によると、グループホームの運営事業者は 利用者から食事の材料購入に際し必要な実費のみを徴収すると規定していますが、この施設(会社)の中には 実際の食材費は利用者1人当たり月約8千円なのに、約2万4千円もの多額を実費として徴収していたところもあったとのこと。

愛知県は、食材費の徴収方法を見直し 過大に徴収した分をさかのぼって返還するよう指導していますが、障がい者支援を逆手に取った虐待を 本来は障がい者支援に努めるべき施設(運営会社)が平然と行なっていたことに、今の障がい者支援の〝闇の部分〟を見た思いがしたところです。

 

改めて「障がい者への虐待」の行為について見ると、以下の5つに分類されています。
① 身体的虐待(叩く、殴る、蹴る、つねる、正当な理由がない身体拘束等)
② 放棄・放置(食事や排泄、入浴、洗濯等身辺の世話や介助をしない等)
③ 心理的虐待(脅し、侮辱、無視、嫌がらせ等で精神的に苦痛を与える等)
④ 性的虐待(性交、性器への接触、裸にする、わいせつな映像を見せる等)
⑤ 経済的虐待(本人の同意なしに年金・賃金・財産や預貯金を処分する等)

このうち、今回のケースは ⑤の「経済的虐待」に該当するということでしょう。

一般的に障がい者への虐待というと、①~④の 身体および精神に対する虐待が挙げられており、このことだけでも 今も施設のどこかで日常的に行なわれている実態があることに憂慮を禁じ得ないところです。

従前にも触れていますが、本来は主役であるハズの利用者(障がい者)さんを無碍(むげ)に「管理」するかの職員の〝勘違い〟は、やがて利用者(障がい者)さんへの虐待の温床となり、そのうえで厄介なのは それが当たり前のこと(行為)としてまかり通っていることです。

そのうえでの 今回の経済的虐待。

モノ言わぬ(反論できない)障がい者さんや 立場の弱い家族をいいことに、まるでボッタクリともいえる食材費の過大徴収は「取れるところから取れ」とばかりの、タチの悪い接客業のような振る舞いと思わされてしまいました。

一方で、かかる障がい者さんの収入(工賃)は 未だ低劣のまま留め置かれており、障害者年金はあるものの さしたる収入も無い障がい者さんから費用をむしり取る行為(それも逃げようの無い食材費から)は、低劣な収入にあえぐ障がい者さん(家族)から過大請求の、無慈悲ここに極まれりといったところでありましょうか。

 

「障害者ビジネス」という言葉があります。

これは、障がい者支援を逆手にとって ちゃっかり懐(ふところ)を潤す諸行のことを指すものですが、今回の食材費の過大徴収は いわば正規の施設運営の皮をかぶったあざとい手法…障がい者支援何でもアリの実態を見せられた感で、残念にならないところであります。

 

今回の報道を一つとして「障がい者支援」の名の下(もと)での実態を改めて検証する必要性を再認識させられたところでありました。

 


長野市議選 ~史上最低の投票率に思う~

2023-09-21 | 日記

〝激戦〟と言われた長野市議会議員選挙が終わりました。

が、私を含め 当事者(関係者)の力(りき)み具合とは裏腹に、その投票率は過去最低の37,32%に止まってしまいました。

実に6割以上の人(有権者)が選挙に行かなかったことになります。

 

私自身、この事実に嘆息したところですが、20日の主要地方紙の社説でも この点について触れられていました。

 

 

 

 

記事(社説)は「(有権者の)6割余が棄権したことをどう受け止めるべきなのか。県内で一番大きな市の自治の足腰が弱っている現れに見える。とりわけ当選した議員にとっては、自らの存在意義に関わる問題ともいえる。あらためて考えなければいけない数字だ。」と断じています。

一方、選挙そのものは激戦だったことは評しています。

定数36に対して51人が立候補、全国で議員のなり手不足が課題になっているさなか、今回より定数が3議席多かった前回選の52人に次いで多い候補者数であること、その中で、20代の無所属新人2人の当選・最大会派の会長や議長経験者の落選・日本維新の会の公認候補がトップで初の議席を得るなど「変化」が現れたものの、議員選択(選挙)に参加した市民はついに4割を切ったことを伝えています。

さらに記事は 過去の社説にも触れています。

「目を覆わんばかりの低投票率は何を物語るか」―と、本紙社説が書いたのは1995年の長野市議選で、この時の投票率は60,13%であったこと、当時は65%を下回れば〝低投票率〟と言われた時代…時代の趨勢を感じざるを得ないことを述べています。

記事はさらに「30年足らずの間に市の環境は大きく変わった。長野冬季五輪に向けた活況は急速に冷め、人口減少を背景に行われた平成の大合併で旧豊野町・戸隠村・鬼無里村・大岡村を編入。その後も少子高齢化は止まらない。あちこちで小中学校の統廃合が進み、地域のまとまりは解(ほど)けつつある。」としています。

また「並行して、議員が何をしているか見えない―との声をよく聞くようになった。」とも述べています。

このことについては「暮らし方、働き方もさまざまな市民との接点が限られてきているためだろう。人口が集中する市街地でより低く、中山間地域では高めに出る地区別の投票率を見ても明らかだ。」としたうえで「薄れる存在感は、議員報酬に見合う仕事をしているのか―との批判も生んでいる。その文脈で、定数削減を実績としてアピールする候補者もいた。」と分析しています。

そのうえで「民意が吸い上げられにくいと懸念される中山間地域を含め、全市的な課題には「地元」意識を超えて取り組みたい。地域課題の解決に関わる住民自治協議会や市民団体などとの連携をもっと深めることも必要だろう。議会活動をチェックしてもらう議会モニターや、議員の政策立案を補助する政策サポーターなど他議会の住民参加の取り組みも参考に、市民との距離を近づける工夫もさらに探りたい。」

で、記事は最後に「もちろん、課題を市議任せにしていいはずはない。低投票率に何を見るのか、主権者である市民は考えなければならない。」と まとめていました。

 

 

私自身は、これまで いち議員として、活動を怠りなく努めてきたつもりでありました。

日々「ブログ」を更新すると共に、市民の方々の要望やご意見などには須(すべから)く応えるなどしながら 活動の「見える化」を図ってきたつもりではありました。

しかし、実際には…全くダメと 自らを断じなければなりません。

今回選挙の最終投票率をみれば、私が地盤とされる川中島・更北地区は35,18%と 市内最低を記録。最も有権者が投票しなかったという〝ワースト地区〟となってしまいました。

 

[参考]長野市議会議員一般選挙 投票状況(結果)速報

            ↓

https://www.city.nagano.nagano.jp/documents/13332/05shigi20.pdf

 

 

で、私の支持者(Aさん)が、こんな〝笑えない笑い話し〟を。

投票日翌日の月曜日、Aさんが職場の同僚(70才代/男性)から「クラちゃん当選できて良かったね。」と声をかけられたとのと。そこまではよかったのですが、その人は会話の最後に「クラちゃんなら大丈夫と思ったから、オレは投票に行かなかったよ。」と涼しいカオで言い、Aさんは その場に固まってしまったそうです。

 

政治 とりわけ地方政治には多くの課題が内在しており、そんな中 行政サイドをチェックする議会の役割は、ますます大きくなっているハズであります。

その「チェック役」を選択する市議選の投票率がこの凋落ぶりとは…この現実を われわれ議員は真摯に受け止め、いわば本来の務め(チェック機能)を果たしたうえで、それを市民の方々にキチンと伝えてゆかなければならないことを改めて自覚すべきと思うばかりです。

 

私は 今回の選挙において「市(市長)に対し、迎合も対立もしない」を掲げてまいりました。

無為にスリ寄ることもしなければ、ただただ反発することもしない。政策本位、是々非々のうちにチェック機能を高めてゆくこととしております。

今、私が知るだけでも 市行政にはチェックすべき課題が山積しており、それも そのほとんどが、いわば〝古いメガネ〟で覗いただけでは見通せない案件であることが再認識されています。

 

私自身、選挙を通じ 再び立場を与えていただきました。

このうえは再び自分自身に喝(かつ)を入れ その職責に挺身すると同時に、その背中を見ていただくことで 市民の市議会を見る目をイイ意味で変えていただき、ひいては これからの投票率アップにつなげてゆきたいと思ったところでありました。


市議選を終えて

2023-09-19 | 日記

令和5年長野市議会議員選挙が終結し、各候補者の当落が確定しました。

私は 得票が前回並み、順位はやや上げて20位となりました。

 

 

 

 

言いようによっては 非常に厳しい結果とも申せ、自省の念を新たにするところであります。

選挙事情としては、私の地盤とされる地域において 私を支援するとした派が、突然に同じ地盤の他候補の支援に回るなどして いわば身内に足元から切り崩されるような展開となり、終盤にマイナス要素が大きく作用したこととなってしまいましたが、そんな中でも 私に対し多くの支持者が思いを寄せてくださいました。

従って 今回の選挙結果は、前回に比しても遜色なく さまざまにご厚情をいただいた感であり、改めて感謝の思いが募るところです。

また そんな外部からのマイナス要素とは別に、今回 私の場合は (私の)不徳の致すところにより、スタートの出遅れ・組織の刷新(若返り)等の未達など 足りないことばかりでありましたが、それを みなさんが寄ってたかってカバーしてくださり、成果につなげることができました。

本当にありがとうございました。

 

開票報告会の夜も、深夜にも拘わらず 女性部を中心に多くの方々にお集まりをいただきました。

私は〝まな板の上の鯉〟であったことから 別室で待機していましたが、その間 時間ごとに伝えられる得票を聞いては、一喜一憂されていたことを伺っています。

やがて「当確」が出て 報告会場に呼ばれると、それは大きな拍手に迎えていただきました。

 

 

 

バンザイの後には、みなさんから次々に花束を贈っていただき 何だか戸惑うほど。

 

 

 

 

一様に笑顔&笑顔。我がことのように喜んでいただき、冥利に尽きたところでありました。

その後は必勝だるまの両眼を開眼し、喜びを分かち合いました。

 

 

 

 

最後に、私の方から遊説隊(ウグイス嬢)に 改めて敬意を表させていただきました。

従前も触れましたが 私の選挙手法は、候補はクルマに乗りっ切りではなく 適宜に分離して票の掘り起こしに努めるべきと考える中、私の〝分身〟である遊説隊は 候補の分も(候補のことを)内外に広めていただくことになっており、そういう面では 実に良く気働きをしてくださいました。

 

 

 

閉会後にはINCの取材を受け、抱負の一端を述べさせていただきました。

 

 

 

 

 

新たな構成となった長野市議会。

一部で世代交代など議員の刷新もあり、新たな布陣で議会が運営されてゆくことになります。

れからの議会がどのような展開を辿るのか、私も含め 知る由はありませんが、一方 俯瞰(ふかん)で見れば、これまでの体制が変わることも想定され そういう面では興味深いところでもあります。

 

 

いずれにしても、諸課題は待った無しの状況にあります。

私の元(もと)にも、18日の朝イチから 祝意の言葉もそこそこに、さまざまな課題の投げかけが寄せられています。

「クラちゃん、当選おめでとう!さて、再び現職になったところで ○○について頼むよ」とばかりに、障がい者支援について・土地利用について・高齢者福祉について・公共交通について・スポーツ施設の課題について・犬の散歩 公園開放について・団体運営について 等々「待ってました!」とばかりに怒濤の如く宿題が押し寄せてくる感、ありがたいことであります。

 

選挙は終われど、止まっていることはできません。

市民益のため、直ちに走り出す(走り出している)ところです。

これからが勝負!と 自らを鼓舞しながら。

 

 


令和5年 長野市議会議員選挙 =みなさまに心からなる御礼=

2023-09-18 | 日記

令和5年長野市議会議員選挙の投開票が行なわれ、おかげさまで私は再選を果たすことができました。

この結果を真摯に受け止め、新たな決意をもって 改めて前へと進んでまいります。

取りも直さず、ご支援いただいたみなさまに心からなる御礼を申し上げます。

 

本当にありがとうございました。

 

 


長野市議会議員選挙が告示される

2023-09-11 | 日記

この日 9月10日(日)、令和5年執行の長野市議会議員選挙が告示を迎え、私も候補者の一人として立候補の届け出を行ないました。

 

 

 

(これはどの陣営にも共通して言えることですが)この日は好天に恵まれ、スタートダッシュにふさわしい陽気となってくれました。

とりわけ我が陣営は 地元の神社の境内で出陣することが恒例となっていることから、天候にメチャメチャ左右されるのです。

でも顧(かえり)みてみれば これまでも一度も雨天の出陣となったことは無く…農地は雨が渇望されていますが、この日だけはご勘弁クダサイと 晴天に感謝したところです。

 

出陣に先立ち「神事」が斉行され、選挙活動の無事なる完遂を共々に祈念させていただきました。

 

 

 

 

神事の後 番組は「出陣式」に移行し、ご参集のみなさまに これまでのご厚情への心からなる御礼と、選挙活動を通じて精一杯お訴えさせていただくこと・そのうえで方々の倍旧のご支援をお願い申し上げました。

 

 

 

ご案内のとおり、同時刻(時間帯)には 別途「届出班」の方々が市役所で立候補の届出を行なってくださっています。

今回の選挙は、何せ候補者数が多い(50人超)ために選挙事務にも相当の時間がかかっていることから、その(時間)調整が難しいところがあります。

この間、ご参会いただいた全てのみなさんに「必勝だるま入眼」を行なっていただき、それぞれに気勢を上げていただきました。

私も、天に届けと「えいっ!!」と声を上げて入眼させていただきましたよ。

 

 

 

その後 相当の時間が経過しましたが、待ちに待った「七つ道具」が到着、選挙事務所前で直ちに第一声を行ない 遊説隊は市中へと出発しました。

私は市内で行事の挨拶のために分離し、一旦 単独行動に。

こんな感じで(遊説カーを)乗ったり降りたりの繰り返しをしながら、いずれにしても一人でも多くの方々に 倉野立人を見知っていただくよう活動展開してゆくところであります。

 

選挙の「華」である今回の遊説隊 とりわけ「ウグイス嬢」については、ベテランさん1名を配したうえに 地元の女性陣に日替わりで乗車していただくことになっています。

これがまた 硬軟あいまった明るい雰囲気を醸成してくれています。

遊説中に立ち寄ったNさん方。普段は辛口なNさんも「ベテランさんはハキハキしていてイイ。サポートさん(地元の人)も 慣れない中でも精一杯にマイクを握っている姿勢が伝わってきて これまたイイ。」と褒(ほ)めてくださいました。

 

 

 

野球の投手リレーではありませんが、ウグイスさんも何人かの交代を重ね それぞれに持ち味を発揮していただきました。

なかなか経験することの無いウグイスですが「最初は緊張したけど、慣れてくるとやり甲斐があります。」と前向き感想を述べてくれます。こちらもお願いした甲斐があったというものです。

 

 

 

この日は選挙初日につき 地盤とする地域をくまなく回り、マイクを通じて とりも直さず立候補のご挨拶をさせていただきました。

宅内の窓から・農作業の手を休めて・玄関からお出ましくださって それぞれに手を振ってくださる方もおられ、感謝に堪えないところです。

走りながらの車窓からのご挨拶を恐縮に存じながら、それでも限られた期間・限られた手法をもって でき得る限りの努力を重ねてまいります。

 

 

 

夜は、各地域の方々のご尽力により「個人演説会」が設営され お訴えの機会をいただきました。

 

 

 

旧来の選挙手法でいえば、できるだけ大きなハコ(会場)に多くの人を集め その数を競うようなことが主流でありましたが、それも今は昔。

コロナ禍の影響もあり、ただただ(人を)集めることに汲々とせず 寄ってくれた方々と膝詰めで話す。この方がよほど親近感の醸成に資してくれるものです。

 

こちらの地区は、かつて地元の方々の要望をイイ意味で反転させ 住民パワーでマレットゴルフ場を造成した、私(の政治理念)にとっても大きな転機となった地区であり、そこが初日の個人演説会場となったことに縁(えにし)を実感しました。

 

私も みなさんを前に、当時の苦労を回顧すると同時に あのときに発揚され現在にも受け継がれているボランティアスピリッツこそが、もしかしたら今後の地域自治の指針にもなり得ることを話させていただきました。

 

 

 

選挙初日は まさに駆け足のままに終了しました。

残された日は あと6日…さまざまな面で限られた中ではありますが、私なりに精一杯に「思い」を伝え、ご理解いただく努力を重ねてまいります。

読者のみなさんにおかれましても、倍旧のご支援のほどをお願い申し上げる次第であります。

 

 

 


長野市政との「向き合い方」について思う/市長の海外トップセールスを引き合いに

2023-09-09 | 日記

この10日(日)に、統一地方選挙の一環として「長野市議会議員選挙」が告示を迎えます。

議会改革の一助として実現した「議員定数の削減」によって 現有39を36議席に削減した中、実に50名を超える候補者が立候補することとなっており まさに激戦の様相を呈することとなっています。

さらに言えば、とりわけ今回の長野市議選には いわば多種多様な候補者が名を連ねておられることを実感します。

これまで 選挙の不文律でもあった〝地盤・看板・カバン〟を持たない人(とりわけ若い人)が複数名に亘り立候補を表明、その詳細は存じませんが おそらく独自の手法・独自の人脈等を駆使して、今までに無い活動を展開しておられることでしょう。

このことについて、私自身は「多様化」という視点で歓迎すべきことと思っています。

時代は正(まさ)に ジェンダーフリー・SDGsの傾向にあります。さまざまな立場の人たちが多様な意見や考えを持ち それを議会という場で述べ合い議論を深める。

これは間違いなく ややもすると前例踏襲・旧態依然を旨とする市議会(行政)に新味をもたらすものでありましょう。

何というか、一色で同じ方向にだけ向いて泳ぐ魚の群れに 色とりどりの魚が混じった様相とでも申しましょうか…いずれにしても 選挙結果によっては、議会という池州(いけす)は今までとは違う眺めになると思います。

そのうえで私は、今回の選挙は 長野市政にとって大きな節目となることを予感するところです。

市行政においては 市長が交代して半期が経過しようとしており、その評価(真価)が問われることになっています。

さきのブログで触れたとおり、各紙においても「荻原市政をどう評価するか」が焦点となっており、かかる市政に向き合う議会の姿勢そのものも問われていることになっています。

「令和元年東日本台風」さらに「コロナ禍」を経て誕生した新市長に対峙する議会構成を占う今回の長野市議選。

さまざまな事柄が変遷する中、これからの市議会がどのようなメンバーで運営されることになるのか…このことについて 市民の関心が高まり、高い投票率をもって審判が下される環境ができることを期待するばかりであります。

 

かくいう候補者の一人である私とすれば、前掲の多様性を受け入れつつ 私は私なりに時代に則(そく)した新たな感性を磨きながら、今の市民・これからの市民の方々のニーズに応えられるよう活動を活性化してまいる所存であります。

そのうえで 今の荻原市政については、私は正(まさ)に是々非々「迎合も対立もしない」スタンスで向き合っています。

一部の議員の中には、まるで飼い犬のように彼に盲従する人もいれば あたかも親の敵(かたき)のように激しく対立する人もいます。

しかし、主体はあくまで市民。私たちは、市民の方々に選択された者の一人に過ぎないのです。

つまりは その行動の原資(基準)として「市民はどう考えるか」「市民のためにどうあるべきか」だけを考えて行動すべきところであり、そこを履き違えてはならないと強く認識するところです。

その行動基準をもって、市政をチェックする。

行政行動(事業)が 市民益に叶っていれば了(りょう)とし、そうでなければ否定(否決)すべきところです。

 

そういう点では、私は「成果主義」を挙げるところです。

このことについては、先日のブログで述べた「予算主義⇔決算主義」に通じるところですが、市行政の行為(事業)について「やっただけ」で終わることを許さず そのこと(事業)がどのような成果をもたらしたかまでを検証し、そこでようやく事業の善し悪しを判断すべきと考えています。

とりわけ、市民から預かった血税を支弁する以上は「○○をやりました。」だけの子供の日記のような報告ではなく「○○を行なったことで、▽▽のような成果がもたらされました。」までを聞いたうえでチェックを重ねてゆく。

そんな作業の積み重ねこそが、真に市民の期待に応える(議会の)行動となると改めて認識しているところです。

 

 

で、その(市行政の)「成果の検証」について 此度(こたび)典型的な事例がみられています。 

さきに 荻原市長が、海外からの観光需要を取り込もうと 初めて「海外トップセールス」を行なったのです。

荻原市長とすれば 就任後初の〝外遊〟で、タイと中国に出向いたものです。

 

 

 

 

これは、9/1からタイの首都バンコクで開かれた、日本の伝統的な食や文化などの魅力を広めようと8年前から行われ 約12万人が訪れる人気のイベント「バンコク日本博」に参加したものだそうです。

 

 

そのオープニングセレモニーでステージに上がった荻原市長は「長野市は冬のオリンピックを開催した国際的な知名度の高い都市である一方、都市と自然が融合したとても素晴らしい街です。果物をはじめ おいしい食べ物がたくさんありますので、タイの皆さんの心をわしづかみにできると自信をもってやってまいりました。」とスピーチしたことが報じられていました。

 

 

 

というのも、長野市に宿泊した外国人環境客は 延べ11万7,000人余り(コロナ前)もあり、このうち中国とタイからの観光客が台湾・オーストラリアに次いで多いことから 市長は初めての外遊先として、伸びしろがあるこの2か国を選んだとのことです。

 

 

 

 

この「バンコク日本博」では、自ら長野市の観光PRブースに立ち 果物などの特産品などをアピールしたそうです。

 

 

 

さらに市長は、タイの人気情報番組にも出演し、軽妙な語り口で 長野市の果物を引き合いに「フルーツ好きな(タイの)人にはたまらない街だと思います。ぜひ私はタイの皆さんに長野市に来ていただきたいと思う。」と愛好を崩して長野市をアピールしておられました。

 

 

 

さらに市長は タイの日本大使館や日本政府観光局などを訪れて懇談したほか、現地のスーパーなどを視察して日本産のフルーツの販売状況など確かめられたとのこと。

その後は 中国を訪れ、首都・北京や長野市の姉妹都市である石家荘市(せっかそうし)などを訪問、現地の旅行会社などに長野市の魅力をアピールしたとのことでありました。

市長は、今後も積極的に海外でのトップセールスを行ない 外国人観光客の誘致や農産物の輸出などに力を入れていきたいとしたとのことです。

 

 

ここまではイイ。かつてのオリンピック金メダリストがなった市長として海外に出向き、長野市を広く内外にアピール。今までの市長に無い個性をもって 長野市の〝露出〟に努める姿勢は評価すべきところでしょう。

そのうえで です。

私(=市民)が注目(検証)するのは「今回の外遊で どのような具体的な成果がもたらされるか(もたらされたか)」であります。

さらに言えば、その「成果」については その〝中身〟が問われるところでありましょう。

よくいう「長野市のことを精一杯PRし、好印象を得てきました」とか「タイの情報番組でパーソナリティと有意義な時間を共有してきました」などの〝抽象的な成果〟では、市民は納得してくれるでしょうか。私は「否(いな)」だと思います。

市長と一部の職員が経費(市費)を浪(ろう)して遠く海外まで出向く以上は「ガンバってきました」などとの成果報告では許容されるものではなく、そこには 例えば向こうの農産物移出事業体と大型契約を結ぶとか、長野市への訪問を確実に促すべく観光エージェントと提携するなどの「具体性」が求められるところであり、そこまでの成果が見込めないままの〝成果〟であれば、それは まさに外遊「ただ遊びに行っただけ」との誹(そし)りは免れないところでありましょう。

 

重ねて申せば、私は 市(市長)とは 迎合も対立もしません。

むしろ、市(市長)のことを案ずればこそ「成果」を求めるのです。

彼を〝裸の王様〟にしないために。

 

・・・・・・。

このことを典型的な事例とするように、私(=市民)は 今後も市(市長)に対し「成果」を求めてゆきたいと思います。

ただただ予算化し「やっただけ」の事業・ただただ設置し ロクな稼働もしないような設備を許さず、それらが何をもたらし 市民益の向上に資したか(そうならなかったか)を厳しくチェックし、そのうえで 市民も市(市長)も「良かった」と共々に言い合えるような市政をめざし、自分(議員)なりに機能してゆきたいと 心底から思うところです。

 


本当に気をつけてほしい 〝凶器〟にもなりかねない便利な動力機械

2023-09-08 | 日記

ネットのニュースで、私たちの身近な社会生活(行動)の中に潜む ときに生命に関わる危険が招いた痛ましい事故が報じられ、他人事でない感を強めると同時に (私の)周辺で起きている事案と関連づけざるを得なかったところです。

ニュース記事は、複数人で草刈り作業を行なっていた男性作業員が 他の作業員が使っていた草刈り機(ビーバー)で足を切られ、生命を失うことになってしまったとのことでありました。

 

 

 

現場は豊橋市の池の周辺とのこと。

おそらく池の淵にうっそうとする雑草のせいで視認が悪くなり(淵を見誤り)池に転落することを防ぐために草を刈っておこうという作業と思われるところですが、そんな場所で重大事故が起きてしまいました。

作業は豊橋市が委託。当時、現場では4人が2人1組で作業しており、被害に遭った人(Aさん/69歳 男性)は 一方の作業員が刈った草を集めていたそうです。

豊橋市などによると、作業を始めた後の午前9時頃ごろ Aさんは他の作業員(Bさん)が使っていた草刈り機で右大腿部を切られ、病院に搬送されましたが約3時間後に死亡が確認されたとのことです。

さらに警察によると、作業中にBさんの草刈り機の振り幅が大きくなり、勢い余ってAさんに当たったことが原因と見られているとのこと。

警察は業務上過失致死にあたる可能性もあるとみて調べていると報じられていました。

 

この草刈り機は肩掛け式で、通称「ビーバー」と呼ばれ 広く普及しているものです。

私たち田舎に住む者にとっては〝雑草との戦い〟において欠かせない便利な動力機械です。

 

(資料)

 

 

古来「草刈り」といえば、鎌(かま)で行なっていましたが、この「ビーバー」の登場により 飛躍的に作業能率が上がることとなりました。

この機械の特徴(特性)は、何といっても〝小回りが効く〟というところでしょう。

手(鎌)で刈るには範囲が広すぎる・でも大型の乗用草刈り機などは入れないような難儀な場所でも自在に作業でき、回転刃や紐カッターを駆使して効率よく除草してゆくのです。

 

(資料)

 

 

しかし、です。

この「回転刃」が、状況によっては非常に危険な存在となるのです(ご利用者は既にご案内のとおり)

難儀な雑草を刈り取るため 円状の周囲を研(と)がれた鉄製の刃が動力によって高速で回転、触れるもの全てを刈り取ってゆきます。

 

(資料)

 

 

そこには人感センサーなど無く、機械を背負った者の裁量に任せ 草だろうが小木(しょうぼく)だろうがガンガンと切り(刈り)進めてゆくのです。

今回は そんな最中(さなか)に起きてしまいました。

おそらく、作業現場であった池の淵は広々としており 作業をより効率的に進めるために振り幅を大きくして、ひと振りで広い面積を刈ってしまおうとの心理が働いたものと思われますが…。

前掲のように鉄製・円状で高速回転する刃。そこに人の身体が接触しようものなら ひとたまりもありません。

警察によると 受傷箇所は大腿部。おそらく動脈を傷つけてしまったのでしょう。

 

今回の事故は 恐ろしいものではありましたが、でも これは、地域のどこででも起こり得る事故でもあるところです。

この時期、雨が全然降らなくとも 何故か雑草だけは生い茂(おいしげ)ってゆきます。

今も地域のどこかで、必ずといってイイほどビーバーが稼働し 草刈り作業が行なわれていることでしょう。

言い換えれば、私たち(作業する人)は 常に危険と隣り合わせにいるのです。

今回の事故は、事前の確認不足・現場での目視不足・いわゆる〝ながら作業〟等が招いたものと思われます。

とりわけ (ガソリン動力のビーバーの場合)機械の音が大きく 声が聞こえにくいこと・また 草刈り中は足元しか見ないため 周囲に目が行き届きにくいことなどから、作業の前に相互に安全確認しておくことが肝要です。

作業中は互いに近寄らない・作業を進める方向を確認しておくことなどすることで 刃が仲間の方に向かないようにすることを大前提に、作業中に「オーイ!」などと改めて声をかける必要のないよう事前対応が求められるところです。

また 今回の事故は「慣れ」が招いたものかもしれないとも思います。

かくいう私も この機械をいくらか扱えるため、地域の公園の草刈りなどに出張っては ビーバーを使って除草作業に参加する者の一人なのです。

そんな立場をもってしても、今回の事故は とても他人事とは思えません。

いつも日常的に行なう作業。で あるからこそ、事前打合せと作業中のルール確認を徹底することが ひいては自分の身を守ること・さらには 同じ仲間同士が受傷する(される)などの悲劇につながることを未然に防いでくれることを改めて自覚(自戒)したいところです。

 

 

・・・・・。

そのうえで、私の周囲で かかる除草作業に関する難儀(難解)な課題が聞かれているのです。

このこと(課題)自体は、草刈り(ビーバー)そのものが全てというワケではなく、その詳細等については 状況に応じて後日に譲ることといたしますが、いずれにしても 不測の事態がさまざまな出来事を招くことがあること、そのものが「社会」であることを心に留め 日常生活の中で起きる(起きるかもしれない)あらゆる事案に向き合ってゆきたいと思うところです。

 


「成果」を見定めるべき =決算主義の重要性=

2023-09-07 | 日記

報道などで周知が進んでいるとおり、来る9月10日(日)に 統一地方選挙の一環としての「長野市議会議員選挙」が告示を迎えようとしています。

かくいう私も候補者の一人として立候補することになっておりますが、そこ(立候補/告示日)に向け、正直 今が一番キツい時期となっています。

先ずは 佳境に入っている地回り(挨拶回り)。告示を迎えると 公職選挙法の規制に伴いリーフレットなどの資料が配付できなくなるため、何が何でも前日(9日)までのうちに 地盤である地域を中心に一軒 ゝ に足を運び、挨拶を兼ねての配布作業を終えなければならないのですが、日々の用務に加え 現職ゆえに様々な案件と向き合うことも要され、なかなかはかどっていないのが現実です。

でき得る限り時間を割いて東西南北に足を向けておりますが、ここ数日が地域完全踏破のための〝胸突き八丁〟となっています。

また 告示日を数日後に控え、立候補に向けた届出事務・選挙日程の思考・初日 とりわけ「出陣式」の準備・選挙中の「個人演説会」のお願い等々 事前の準備作業も佳境に入っています。

これらについては多くの支援者の方々にお支えいただいているとはいえ、どうしてもそれら事前作業には本人が絡(から)まざるを得ない面があり、打合せや 必要に応じては会議の資料づくりと〝二刀流〟ならぬ三刀流四刀流の取組みを求められることも重なり、そのこと自体はありがたいところではありますが、物理的(時間的)にタイトになるを強いられているところであります。

で、その一番のシワ寄せは 何いう「ブログ更新」なのです。

私のブログは「今日のランチ(^_^)」などと写真一枚で済ます類(たぐ)いのものではなく、記載には それ相当の時間を要するものなので、前掲の様々な〝選挙関連活動〟に時間が割かれてしまうと ブログ更新が儘(まま)ならなくなってしまいます。

そんなこんなで、読者のみなさんには「ブログ更新どうした?」と思われている方もおられるとは存じますが、諸事情をご賢察のうえそ理解いただければ幸甚に存じます。

髙山(こうざん)の登山ではありませんが、いわば今が七合目過ぎか…一番キツいところであると思われますが、私なりに精一杯に歩みを進めておりますので どうぞヨロシクお願い申し上げます。

 

 

◇市議選「候補者アンケート」に思う…「成果」を見定めるべき

来る市議選に向け、候補者の考え方の一端を伝え 投票行動の参考にしていただこうと「候補者アンケート」が一部紙面に掲載されて(され始めて)います。

この詳細については後日に譲ることといたしますが、この場では 各候補者における回答全般における「傾向」のようなものについて述懐するところです。

アンケートは とりわけ現下の市政運営(荻原市政)に対する評価が求められており、そのうえで「各論」について述べることを求める内容となっています。

 

 

 

 

そのうえで、多くの候補が「評価する」としていることに気づかされます。

それらを見て 私は、各候補の云々(うんぬん)と言うより それ(「評価する」の回答)が、今の地方政治(行政)の現状を表(あらわ)していることを実感させられたものでした。

 

 

 

このことについては、アンケートの運び方自体に課題(特徴)があるところではあります。

設問の軸は「荻原市政を評価するか否か」であり、これは有権者にとっても 各候補が「荻原市政寄りか そうで無いか」を判断する いわば分かりやすい指標となっています。

ところが(私自身)ヨク考えてみれば、荻原市政は道半ばであり 現時点でイイとも悪いとも決めつける段階では無いと思うのです。

確かに 彼(荻原市政)は、就任以来 さまざまな施策を打っています。

しかしそれらは 今のところ「実施」に止(とど)まっており、明確な「成果」につながっていないのが実際のところでないか と。

したがって 現時点では、いわば心底から評価するともしないともいうべきで無い…イヤ言いようが無いと思わざるを得ないのです。

 

そんな中、多くの候補(特に最大会派の現職)は「評価する」としています。

そして その理由も「〇○の施策を打っているから」と、いわば予算づけしし実施した時点で「評価」につなげているのです。

このことについて 私は何ら非難するところではありません。

私自身、現に 信毎のアンケート「産業振興」の項目については、期待を込めて「やや評価」とさせていただきました(しかし、結果はまだまだこれからの評を付けて ですが)。

 

そのうえで私は、今の地方行政の現状を垣間見た思いがいたしました。

それは「予算主義」です。

とりわけ地方行政においては 事業等に〝予算を付けること〟に重きが置かれており、その後のこと…事業はどのような成果をもたらしたか・逆に 予算づけして事業を行なったものの、成果が挙がらなかったのではないか・この事業は市民益に叶ったものだったのか、などの検証への意識が薄く いわば予算化したところでイイ悪いが決せられてしまう傾向にあるのです。

これに対するのが「決算主義」です。

これは(前掲のとおり) 予算化した事業がどのような成果をもたらしたか否かを検証する作業であり、年間の事業を総括する作業になります。

議会においては「決算特別委員会」で審査に付されるものです。

私自身、これまでも 税金を投入して行なった事業の結末をチェックする作業 これこそが重要ではないかと考えていました(います)が、長野市議会おいては かかる決算(チェック)作業が軽んじられている傾向にありました。

決算特別委員会は 9月議会が終了した後の(遅い)タイミングで開かれ、かつて在籍した最大会派においては「勉強のため」として 主に新人議員が(決算特別委員会)のメンバーに指名され、事業の結果説明を聞き置くだけの いわば追認機関に止(とど)まっていたものです。

私は この現状に大きな疑問を抱き、最大会派を飛び出して新会派を立ち上げた以降に「決算審査の重要性」を訴えました。

その後 さまざまな経過を経たうえで「決算特別委員会」は、次年度の予算編成に(委員会の)審査結果が反映されるよう 前倒しで実施されること・決算審査については 一部の議員が行なうのではなく、議会全体(全員)が審査に臨むために 分科会方式を取ることなどと改善が為(な)され、現在に至っています。

 

それでも 今回の候補者アンケートでは、予算化(事業化)した時点で「評価」とし いわば結果は抜きにしてヨシとしている人が多い傾向は 残念と言わざるを得ないところです。

 

私自身は、行政の行なう事業については シッカリと成果を見定め、そのうえで「良かった・悪かった」と評点すべきであると考え、これからも そのような姿勢(視点)で行政と向き合ってゆきたいと思っています。

施設を整備したり 機器を配置した時点で完結とせず、それらが どのように機能したか(しなかったか)・その投資が 真に市民益に叶う働きをしたかどうかを検証をして、初めて「評価」につながると強く認識するところです。

 

 

・・・・・・。

そんな中、これだけは 明確な「結果」として評せざるを得ない案件が。

他ならぬ「青木島遊園地廃止問題」です。

このことについては 今さら多くを語りませんが、いずれにしても 市(市長)は 多くの市民の「声」に基づき、首長としての権限を公使したうえで英断し、遊園地を存続することができた。

しかし実際には、過去の経過に拘泥し 予定通り廃止の選択を許してしまった。

これは 明確な「結果」であり、これについては「評価しない」の判断を明確に示すことができる(できた)ところです。

非常に残念な「マイナス成果」でありました。


関東大震災から100年 未だ繰り返される自然災害に対峙する「マイタイムライン」の重要性

2023-09-04 | 日記

さきの9月1日は、わが国の中枢を成していた(いる)東京直下/首都圏に 未曾有の被害をもたらした「関東大震災」から100年が経過した日でありました。

1923年(大正12年)9月1日の午前11時58分頃に発生した大地震は、東京都や神奈川県を中心に 火災・建物倒壊・土砂災害などの大規模かつ多様な被害を一斉に発生させ、実に10万人を超える住民が犠牲となってしまいました。

その後 この日は「防災の日」とされ、各地で防災訓練が行われるなどして 震災そのものは国民の間に定着しています。が、もはや当時を知る人も少なくなり、首都圏直下型地震の実際の恐ろしさは風化しつつあるようです。

この日、あの未曾有の大震災から100年の大きな節目を迎えるにあたり 私たちは起こった事実を改めて回顧し、首都圏を再び大地震が襲う恐れ/怖さを再認識し この際は世代を超えて記憶を受け継ぎ災害に備えなければならないと思うところです。

 

 

 

気象庁や内閣府などの資料によると、関東大震災の震源は神奈川県西部 深さ23kmで、マグニチュードは7.9に及んだとのこと。東京府(当時)と埼玉・千葉・神奈川・山梨県が震度6に及び、北海道や中国・四国地方にまで及ぶ広範囲で揺れを記録したそうです。

自然災害においては「発生時刻」が 被害の大小や被害の類別を左右すると申せます。

さきの「阪神淡路大震災」は早朝の食事用意どきに伴う火災発生・「御嶽山水蒸気爆発」は行楽時期の休日の昼どきに伴う人的被害拡大など、いつなんどき(災害が)起きるかで 不測の被害拡大を招くことを、私たちは思い知らされています。

で、この関東大震災においても然り。大正は9月の昼飯前 炊事の煮炊きに火が使われている時刻(11時58分頃)に発生した大きな揺れは、ただ揺れるだけではなく 火のついた五徳(ごとく)をひっくリ返して火災を発生させ、そこに 折しも襲来した台風の影響による強風を受け(火災が)拡大し、地震による揺れ・その多くが木造建築だったことで類焼の拡大・津波などによる家屋流出などで約30万戸が何らかの被害を受けたそうです。

無論、電気・水道・道路・鉄道などにも甚大な被害が発生しました。

 

 

 

さらに、震災の前日にはまとまった雨が降ったことから 山地や丘陵で土砂災害が多発、、神奈川県小田原市では列車が海に転落したり「震生湖」ができるなど、地形が大きく変わり、さらに房総から伊豆半島東岸にかけて12mにも及ぶ津波が発生したそうです。

 

このように「未曾有」といえる関東大震災でしたが、その(災害の)歴史は 残念ながら今も繰り返されています。

大きなものでは 前掲の「阪神淡路大震災」や「東日本大震災」、類(たぐい)は違いますが「東日本台風」などの水害、また(前掲の)「御嶽山水蒸気爆発」など、私たちの暮らす社会においては いわば否応なしにさまざまな災害が降りかかっているのが現状です。

そんなとき、私たちはどうやって我が身を守ればいいのでしょうか。

 

このことについては、余りに規模の大きい災害の場合は どうすることもできない面はありますが、私とすれば、せめて 自衛と自覚のためにも「マイタイムライン」を推奨するところです。

「マイタイムライン」とは、各々が暮らす地域の地勢や それぞれの生活環境に合わせた形で、自分なりの避難行動を予(あらかじ)め決めておくものです。

 

 

 

この いわば自主計画は、イザというときに慌てずに行動することができ 画一的でない「自分なりの避難計画」として非常に有効であることから、この際は 個々人が自分の生活を基本としたうえで、計画づくりに臨んでもらうことが強く求められています。

 

 

 

私といたしましても、この「マイタイムライン」を推奨したうえで、それらを蓄積した「地区マイタイムライン」などにイイ意味で派生させたうえで「自分の身は自分で守る・地域の安全は そこに住む人たちの目線で保持する」を念頭に(進)勧めてゆきたい、と、関東大震災から100年を契機に 改めて思いをいたしたところであります。

 

[参考]長野市の資料(HP)/マイタイムラインをつくってみよう!

   ↓

https://www.city.nagano.nagano.jp/documents/1067/702852_1205966_misc.pdf

 

行政(自治体)においては、例えば河川の河道掘削や排水機場の整備・また火災に備えた機器やインフラ整備などのハード面を、一方で住民(市民)は「マイタイムライン」などのソフト対策や防災・減災意識の醸成を担うなどしながら、それぞれの立場で重層的な取り組みを行なうことで、より安全な社会づくりが進むと考えるところです。

 

過去において、また全国各地で起きるさまざまな災害。

自分の住む地域以外で起きた報を聞いたとき「ウチの地域じゃないから関係ねー」で済まさず、常に他山の石(自分事)と捉え 被災地(者)と痛みを共有しながら事象に向き合いたい。

それがまた「思いやり社会」にもつながると思うのです。

 


障がい者支援のハズが「人権問題」に

2023-09-02 | 日記

さきのブログ記事の続編です。

障がい者 とりわけ知的・精神障がい者支援に取り組む「Gota」チームのMキャプテンが、新たな問題を提起してくれました。

障がい者の「人権」に関する問題提起です。

 

Mキャプテンは 2つの事例を挙げ、障がい者さんの人権が 本来は障がい者さんを支援(庇護)する立場の者(法人など)の都合で、いわば蔑(ないがし)ろにされている実態を問題視しています。

1つめの事例は 高松市から。

同市内にある障がい者支援施設(自閉症と診断された 重度や最重度の知的障害者を中心に現在47人が利用)が、職員不足を理由に 利用者11人の契約を解除すると保護者に通知してきたのです。

 

 

 

 

この施設には、自閉症のうち 自分や他人を傷つけるといった行動が頻繁に現れる「強度行動障害」がある人もいて、家庭や地域での生活が難しいことから 施設は欠かせない存在として利用されています。

今回の利用者との契約解除の背景には 施設職員の大量退職(30名のうち12名が退職)があり、そのまた背景には あろうことか施設内部における問題(幹部職員から部下へのパワハラ)があったとのことなのです。

高松市によると、この施設については 2020年以降内部告発などが相次いでおり、同市は運営法人に対して無期限の特別監査に入ったうえで 関係者のヒアリング・口頭や文書での指摘を行なってきたとのことでしたが、どうやら改善には至らなかったようです。

この状況について 高松市のO市長は「利用者や保護者の同意なしに利用者を強制退所させるということは人権上問題があり、あってはならないものだと考えている。もし利用者の強制退所ということになれば、法人に対して社会福祉法に基づく業務改善勧告を出すことも視野に入れている」と説明しています。

しかし現状は いわばにっちもさっちもゆかない状況に陥っているようです。

施設側は「新規職員の採用も難しく、利用者の安全と残った職員を守るためには苦渋の決断だった。理事会では 家族の方から他の施設に移ってくれる人を募る案も出たが、最終的には定員を減らすしかないという結論に至った」と説明したうえで、契約を解除する11人の人選については「障害の特性や 家族構成などを総合的に勘案して選定した」としています。

これに対し 保護者の多くは以前から施設側に説明会の開催を求めているものの、それ(説明会)が行なわれていないことから 今回の解除通知に対して「職員減少は契約解除の理由に当たらない。そのうえで 説明会が実施されない限り契約解除には応じない」としており、議論は平行線を辿ったままであることが報じられていました。

 

 

2つめの事例は、ここ長野市から。

精神障がいをもつ人(Aさん)が、本人の希望や 通所施設の関係者からの勧めにより就職しようとした施設について、結果的に就職に至らなかったものの いわゆる研修として就労した日数分に発生するハズの賃金が、関係者(ケアマネ・主任)の手で書類が作られていなかったことをいいことに〝(就労が)無かったこと〟にされていたのです。

そのうえ この就職の斡旋について関係者は、本人の意向や適応などを度外視したように「歯をくいしばってでも(一定期間)頑張れば正社員になれるのに」などと、本来はAさんに寄り添って支援すべき立場の者が まるで厳しい監督官のような口ぶりで事(こと)に当たっており、これは不適切対応の誹(そし)りを免れないと言わざるを得ない状況です。

障がい者さんの就労移行は いわば薄氷を踏むような非常にデリケートな作業であること、そのことは百も承知のハズの関係者が 何ともデリカシーの無いままに話しを進めたあげく 成立しなかったら「しょうがないね」と結末をつけ、そのあげくに せっかく就労(研修)して得られるハズの日給を無かったことで済ませるというのは、いったい誰のための存在なのかと聞きたくなるような〝職務怠慢〟ぶりでありましょう。

 

この2つの事例の共通点は「施設都合」に他なりません。

高松市の事例は、職員間のパワハラを要因とする職員の大量退職について そのツケを利用者(障がい者)さんに回したあげく、施設の存続を最優先させようとしている。

長野市の事例は 一見すると利用者(障がい者)さんのために動いているようだが、その実(じつ)は 思慮(配慮)も浅いままに話しを進め、成立しないとなったときには 利用者(障がい者)さんの立場(日給を受ける権利)を度外視したままに完結している。

 

「これは完全に人権問題だ」とMキャプテンは断じ、私もそう思うところです。

事ほど左様に、障がい者さんの人権が置き去りにされたまま 施設や団体だけが温存され維持されているとすれば。

一体、誰のため・何のための障がい者支援施設(団体)でありましょうか。

 

そのうえでMキャプテンは「この際、市民に問いたい」と吐露します。

「この 内向きな事業。どう考えても 目的(障がい者支援)に副(そ)っていないのに、それが何の疑問も抱かれずに運営されている実態がある。これはどう考えてもおかしい。」

「だから この際は、広く市民に(実態を)知ってもらい、それでイイと思うか問いたい」と。

 

「Gota」は、さまざまな媒体を通じて 地域における障がい者支援の実態を伝え、それを市民に問うたうえで(問題を)正してゆきたいと考えています。

そのために為(な)すべきことを模索し、実行に移してゆくことになります。