倉野立人のブログです。

日々の思いを、訥々と。

職責を果たしているのか =長野市教育委員会の「障がい者雇用未達成」に勧告=

2023-03-31 | 日記

さきの30日、長野労働基準局が「2021年6月1日時点で職員に占める障がい者の割合が法定雇用率を下回り、翌22年末までに一定の改善が見られなかったとして、県内市町村など計12機関に適正な採用を実施するよう勧告した」との報道がされました。

 

 

 

そこで悪しけく注目されたのが、長野市教育委員会への勧告は4年連続となっていることです。

障害者雇用促進法に基づき、各自治体の教育委員会には「法定雇用率」として 職員数の2,5%の障がい者雇用が求められています。しかし、長野市教育委員会における22年末時点の障害者雇用率は1,43%に止(とど)まり、実数で8,0人不足しているとのこと。

長野市教委総務課は「組織内で受け入れ先の確保ができていないのが大きな課題」としたうえで「(障害者が従事できる)仕事づくりや業務の切り出しに随時取り組んでいきたい」としているとのことでした。

この勧告は、法定雇用率を満たさなかった機関に作成が義務付けられる「障害者採用計画」の実施率が50%未満などの場合に対象となるとのこと。12機関は他に、長野市・小諸市・岡谷市の病院事業、上水内郡飯綱町教委・木曽郡南木曽町教委・同郡大桑村・上高井郡高山村・下伊那郡阿智村・同郡天龍村だそうです。

なお、国や地方公共団体などに求められる法定雇用率は2,6%となっています。

 

自治体の教育委員会は まさに当該市町村の「学び」を司(つかさど)る機関であり、また「道徳」の科目では 人として在(あ)るべき道・為(な)すべき所作を如何(いか)に説(と)くかを考察する機関でもあります。

特に昨今は、ノーマライゼーション社会の構築に向けた教育・「誰ひとり取り残さない」とされるSDGsに向けた教育などが推進される中、その膝元にある教育委員会の障がい者雇用が基準にすら達していないことには、何ともいえない残念感が漂うところです。

 

で…さらに残念なことに、そこ(法定雇用率未達成)に 教育界の保守性というか〝保身〟的な意識が見え隠れするところです。

もし まずは身体障がい者を雇用するとなれば そこには在勤職員のフォローや施設の改修が要されることとなり、いわゆる教育現場の負担増が憂慮されることになる。

ましてや それが知的障がい者ともなれば、果たしてどの場面で雇用すればイイかなど 考えも及ばない…教育現場の臨界点のようなものも見え隠れするところであります。

「現場はタイヘンなんです。」弁解の声が聞こえてくるようです。

 

このこと(保身)は、昨年末から関わってきている「青木島遊園地廃止問題」にも重なる思いがします。

肝心の 子どものことを置き去りにして〝大人の事情〟を優先して強行しようとしている遊園地廃止事業。

しかし 手続きには瑕疵(かし)はなく「現場」の職員の身分は固く守られている。

これらのことからも、真に障がい者を思い 真に子どものことを思えば、為(な)すべきことは自ずと見えてくるハズであります。

しかし、現実は…。

 

 

今回の報道に触れ「職責」というものを考えたとき、何をもって「責任」と捉えるべきかを考えてしまいます。

とりわけ教育委員会においては、総論での「教育」の視点で その職責をもって障害者の雇用率を上げなければならないと強く思うところです。


長野市青木島遊園地存廃問題 =長野市が住民監査請求を棄却→かみ合わない論点=

2023-03-29 | 日記

未だ社会問題となっている「青木島遊園地存廃問題」ですが、この日(28日)の報道で 長野市が遊園地の廃止を決めたのは不当だなどとして、市民らから出されていた 遊園地廃止にあたっての工事費用の支出差し止めなどを求めた「住民監査請求」について、市の監査委員が「請求を棄却」したことが報じられました。

この報道に接し、論点の違いというか 何とも〝かみ合わない感〟を抱かされたところです。

 



 

 

報道によると、長野市が 借地である「青木島遊園地」の廃止を決めたことを巡り、市民らが 一部の住民の意見を重視した廃止の決定は違憲・違法または不当だとして、廃止にあたっての工事費の支出や借地契約の解除を差し止めるよう求める住民監査請求を行なっていたところ、これについて市の監査委員は28日に「請求を棄却する監査結果」を荻原市長に提出したとのことです。

監査結果では、違憲性や違法性をいずれも否定したうえで「公園の廃止は市長の裁量に基づくものであり、また 地元区長会から出されていた公園の廃止要望を区民の総意と考えるのは相当で、裁量権を逸脱するものとは認められない。」などとして、不当性も認めませんでした。

 

この監査結果は、いわば〝織り込み済み〟のものであったのかもしれません。

監査を請求した側は、今回の青木島遊園地の廃止を巡る経過が いわば総じて妥当では無いとの判断の下、その経過を辿った中での技術的な視点で(遊園地廃止の)違憲性・違法性・さらに不当性を追求したものであったと思われます。

しかし残念ながら、今回の住民監査請求の論点(狙い)と 監査委員の判断(監査結果)は、ややかみ合わないものであったようです。

青木島遊園地を廃止に追い込んだ経緯には 明らかに不透明な点が多々あり、その決定をそのまま了(りょう)とできないことは公然のことであります。

これまでも伝えられているとおり、廃止決定の論拠となってきた「公文書」については その内容に事実と異なる記述が遍在していたり、住民の「声」を置き去りにしたまま事(こと)が進められてきたりと、市の描いたシナリオのままに廃止のストーリーが作り上げられてきた感、このことは 多くの市民は とても承服できるものではないと捉えています。

しかし、そんな不遜な展開であっても〝手続き上〟では何ら瑕疵(かし)が無いことから、監査委員としては、その経過をもって違憲・違法・不当とは言えないとの判断を示したものであったようです。

そして これ(監査結果)は、同職の職責においては 然るべき判断であったということであり、それは同時に〝かみ合わない結果〟として市民に伝えられることとなりました。

 

一方で この監査結果は、行政の姿勢という点で「それでイイのか」との疑問符を改めて強調することになったと思います。

監査委員は、廃止判断の妥当性としての筆頭に「市長の裁量に基づくもの」としています。

このことについての疑問点が。

 

 

 

監査の中では「最終的には首長の判断が重視される」との大義があると思われるところですが、その〝市長判断〟を促すための報告(公文書)の内容が事実と異なっていたとすれば。

市長は、いわば間違った報告を聞かされ それを基に(間違った)判断をした(させられた)ということになり、その妥当性には疑問を抱かざるを得ません。

 

また 同じく監査委員は「地元区長会から出されていた公園の廃止要望を区民の総意と考えるのは相当」としていますが、このことについても大きな「?」が。

 

 

 

地元区長会が出した遊園地の廃止要望は、手続き上では〝住民を代表しての要望〟ですが、それが実際に〝区民の総意〟であったかについては「そうではなかった」ということが強く証明されたことは周知のことであります。

すなわち、2/11に行なわれた住民説明会では、参加者のほぼ総数に上(のぼ)る人たちが「遊園地廃止に反対」との意思を強く示しており、住民の真の意向を置き去りにしたまま(区長会による)廃止要望が出されたことは火を見るより明らかなものでありました。

にも関わらず 監査委員が「区民の総意と考えるのは相当」と言ってのけたのは、何というか 後ろを見ずに手続きのハンドルだけを握りしめてアクセル全開といった無理矢理感がにじみ出ているものでありました。

 

今回の監査報告は、改めて市民と行政との意識の乖離(かいり)を再認識させられるものでありました。

さまざまな行政手続きを経れば経るほど、心の中に疑問の雲が湧き上がってくるのは 私だけではないでしょう。

 

 


青木島遊園地廃止問題 =これまでと異なる視点での疑問点が=

2023-03-27 | 日記

未だ社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、これまでと異なる視点での〝疑問点〟がクローズアップされることになっており、これには法曹関係者も関心を寄せることになっています。

 

その〝疑問点〟とは、青木島遊園地が 隣接地の宅地開発行為における「緑地」と見なされていることに起因するもの(疑問点)です。

 

ことの経緯は、私が知る限り 下記のとおりです。

数年前、ここ青木島遊園地に隣接する区画で 一般住宅を対象にした「開発行為」が行なわれたそうです。

下記グーグルマップの 遊園地の南に隣接するエリアです。(矢印周辺)

 

 

 

宅地を開発(造成)する際 それが一定以上の規模になる場合には、そこ(開発する区画)には 公園などの「緑地」を 半径250m以内に設けなければならないことが「都市公園法」なる法律で定められています。

ここで指摘される 青木島遊園地南側の宅地も、一定以上の規模であり「緑地」を設けなければなりませんでした。

 

 

 

ところが 同法では「かかる造成地に 公園などの緑地が予め存在するときは、その既存の公園を緑地として認める」との付則があることから、この宅地造成業者は 青木島遊園地を「緑地」として申請、開発許可を得たのでした。

と いうことは、この 緑地が不可欠の造成地(宅地)がある以上は、付随する緑地である青木島遊園地も存在し続けならなければならないことになります。

ところが 今回、青木島遊園地は廃止されようとしている。

 

で このことについて市は見解を示しているのですが、それが どうにも咬(か)み合っていないことになっているのです。

宅地等の開発の許認可を下(お)ろす建築指導課によると、この 開発に必須の「緑地」については 近接する小学校の校庭についても「緑地」とみなすことができるとのことなのです。

いわば拡大解釈と申せます。

確かに、青木島小学校の校庭は 当該の宅地の250m圏内にあり、立地上 また同法の解釈のうえでは成立することになります。

そのうえで 長野市は「この宅地の「緑地」については、青木島遊園地の代替として 青木島小学校の校庭を緑地として認める」との解釈を行なっているとのことでした。

 

 

 

で…この〝拡大解釈〟なのですが、そこには 解釈の成否を決める「所管課の判断」があることが知らされています。

長野市には、前述の「都市公園法」を補完するために「長野市開発許可審査基準」なるものが定められています。

 

 

 

そして その中で、前掲の拡大解釈(小学校々庭を公園(緑地)としてみなしたり 公園等を設置しないこと)の許可(同意)は、長野市公園管理者の同意が得られた場合とする とされているのです。

 

 

 

つまり 今回の問題についても、公園の所管である「公園緑地課」が 当該の宅地(開発)における〝緑地の拡大解釈〟について同意している。だから長野市として 青木島遊園地が廃止されても問題はない、という論理のようなのです。

 

ただ、この論理には 相当の無理があることが判ります。

側聞するに、市(公園緑地課)の判断は 青木島遊園地を宅地開発の緑地とみなす→その遊園地(=子どもの居場所)廃止→それを青木島小学校の校庭に代替→だから青木島小学校の校庭は青木島遊園地のなり替わり→だから(同義だから)青木島小学校の校庭は宅地開発の緑地とみなす、と取れるものですが、これって こじ付け以外の何ものでもないですよね。

またぞろ 子どもをダシに、行政ルール(の解釈)を野放図に広げてしまっている。

 

また「小学校の校庭は開発行為における緑地となり得る」の前例づくりは、市内の他の開発行為における〝抜け道〟ともなることが懸念されます。

小学校周辺の開発行為においては 軒並み〝緑地不要(校庭が代替する)〟との悪知恵を関係者に与えてしまうことになりはしないか。

 

また、聞けば 議会(委員会)で「判断から相当の年月が期間が経っているので 緑地の廃止は同意できる」との答弁がされたようですが、そんな〝ほとぼり冷めたら(緑地の)廃止もオッケイ〟などの判断がまかり通るとすれば、開発時点では緑地としておいて 数年経ったらそこに物件建設との〝時間差攻撃〟を認めることにもなりかねず、ここにも大きな矛盾が見えるところです。

 

さらに 国交省の別資料を見ると、確かに学校関係の土地を公園として適用することができるとありますが、それはあくまで「廃止した学校跡地」となっており、今回のように 現役の学校々庭を公園とみなすこと自体、無理があるといわざるを得ないでしょう。

 

 

 

 

・・・・・・。

大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」は、これまでと別の視点においても 何とも言えない曖昧な中で疑問の対象となっているようです。

このことについては、関係者が相談した法曹界の人も関心を寄せており、判断によっては新たに大きな問題となるかもしれません。

いずれにしても 市に対しては、何らかの見解を求めてゆかなければならないでしょう。

 

「市長が謝ったからイイ」とか「もはや時間切れ」では済まされない〝膿(うみ)〟のような懸案をを孕(はら)んでいると申せます。

 


青木島遊園地廃止問題 =不透明な経過に未だ疑念の声が= 長野市子ども議会に思う

2023-03-25 | 日記

今や大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、この件について 行政側が「これにて一件落着」を決め込もうとしている一方、本来の主役であるハズの市民側は これまでの経過における疑問点や不信感を未だ拭い去ることができずに、検証や改善を求める立場を守っています。

 

さきに荻原市長が いわば急転直下に「地主都合で廃止」を表明し「市長が廃止と言っているのだから仕方が無い」との悪しき機運を醸成しようしている中、遊園地…いわんや そこで遊ぶ子どもたちにこよなく思いを寄せる心ある市民の方々は「青木島遊園地の存続を願う地元住民有志の会」を設立したうえで、市の強引ともいえる(廃止に向けた)手法に疑問の声を上(あ)げ続けておられるのです。

現に、これまでの経過の中においては「公文書」とされる記録報告の内容が事実と異なっていたり、また この頃は、土地取引の経過という重要な場面を記(しる)した公文書が存在しないなどと 行政の職責にも悖(もと)るような対応を行なっていたことが露見するなど、不信が不信を呼ぶような状況に陥っており、慚愧(ざんき)に堪(た)えないところとなっています。

 

それらの実態を踏まえ「願う会」においては、去る16日に 改めて市(市長)に対し、青木島遊園地を廃止とした市(市長)の判断を撤回する要望書を提出、そこ(要望書の中)で これまでの市の取り組みにおける疑問点について質しています。

例えば 市が廃止を決めた6つの理由についても、その後の時間経過に伴い 廃止理由は事実上破綻しているにも関わらず、市は未だに〝片付け忘れた洗濯物のように〟市のHPに晒(さら)したままにしており、その理由はナゼ?、また、遊園地の代わりに小学校の校庭を利用させると言っておきながら 未だに実現していないのはナゼ?など、さまざまな疑問点がありながら 市はそれらに明確に答えないまま看過を許していることから、これら疑問点について検証と具体的対応を求めるとしております。

 

今後、何らかの手段をもって市の対応を求めるとのことでありますが、いずれにしても 何だかこのまま、3月議会終了→年度末 のドサクサ紛れに〝時間切れタイムアップ〟を狙っているかの済(な)し崩し姿勢だけは許してはならないとして、今後も関係者(市民側)は 子どもを思う心の火だけは消すこと無く、気強い姿勢で市と対峙してゆく決意を新たにしておられるのでした。

 

 

 

 

◇「長野市子ども議会」が行なわれる  ~子どもの視点の鋭さに感服~

この日(24日)、毎年恒例となっている「長野市子ども議会」が行なわれ、参加した子どもたちから多様かつ〝鋭い〟質問や提案が出され、何というか目を覚(さ)ませられる思いがいたしました。

 

 

 

私は、第二部(長野市議会経済文教委員会(委員)との意見交換会)を傍聴させていただきました。

 

 

 

普段は〝大人議会〟の中で委員会審査を行なう委員会室に子どもも入室〝大人委員(議員)〟の横に座って 順番に意見を述べてゆきます。

 

 

 

それぞれの〝子ども委員〟は、事前に入念に意見をまとめ 緊張感とない交ぜになりながら、市政に向けた思いを述べてくれました。

 

 

 

で その発言内容は実に立派で、非常に当を得たものばかりでした。

・学校給食の試食イベントを行ない、給食への理解を深め ひいては食品ロスにつなげてはどうか

・市域内のゴミ削減に向け 新たな啓発活動を行なっては

・ゴミ集積所のカラス対策の推進(工夫)を

・天候に関係なく子どもが運動したり交流できる場所の確保を

・公民館を児童生徒に開放して学びや交流の場としてはどうか

・通学路の外灯のさらなる増設について

等々、単なる子どもの視点を超えた「市民の視点」で市行政を捉え建設的な意見を述べている姿には 感動すら覚えたところです。

 

これから成長し、いずれ長野市の将来を担ってくれる子どもたち。

先ずは その存在に感謝し、その無限の可能性が限りなく広がるよう支援してゆくことこそが、私たち大人の役目であると強く実感しました。

そのために何ができるか。

そのことを心に留(と)めつつ、日々に臨んでゆこうと思いを新たにいたしたところでありました。

 

 

そのうえで思うこと。

この日のように、将来を担う子どもらに活躍(発表)の場を供するのも長野市。

無垢(むく)な子どもの居場所(遊園地)を奪うのも長野市。

これは大きな行政矛盾ではないか、と。


青木島遊園地廃止問題 =長野市が 地権者との交渉の「公文書」一転 作成へ= WBCに学んだこと

2023-03-23 | 日記

長野市が 半ば強引に廃止を決めた青木島遊園地問題について、その経過の中で 実に残念なことに、さまざまな不透明な所作が見られることとなっています。

その(不透明の)数々については これまでも散々に亘り伝えられているところですが、こと ここに至って、行政の責務ともいえる事務手続きに大きな瑕疵(かし)があることが分かり、改めて問題視されることになってしまいました。

 

17日の報道で「長野市が廃止を決めた「青木島遊園地」を巡って、1月下旬から先月下旬まで 市が地権者と借地契約の延長交渉を行なった際の、地権者とのやり取りが分かる「公文書」について、取材に対し長野市は「該当する公文書は存在しない」と回答したのです。

その一方で市(所管課)は「職員の個人的なメモは残している」と答えています。

さらに その際「情報公開の対象となる公文書を作成しなかった理由は特に無いが 今のところ作成の予定も無い」とも話していることが明らかにされたのです。

 

このことについては、関係者はじめ 私自身も大きな疑問を抱きました。

(さきのブログでも触れていますが)この市(所管課)の行為は、実に〝あざとい手口〟を物語っていることを強く実感させられました。

取材に対し 市(所管課長)は「市職員が組織的に用いるため職務として作成 取得した文書で情報公開請求の対象となる「行政情報」としては保存していないが、経過を記録した職員の個人的なメモは存在する」と答えています。

ということは、経過を記録した「紙」は存在しているのです。

しかし、それはあくまで 職員の個人的なメモ であり、市職員が組織的に用いるため職務として作成 取得した文書で情報公開請求の対象となる「行政情報」ではない。

つまり 経過を記録した「紙」は、たとえ市民が ルールに基づいて情報公開請求しても(個人的なメモだから)公開する義務は生じない、という論法なのです。

だから、上司に対し 実際には「紙」で報告していたとしても、行政ルール上においては公文書は存在しないので「市長には口頭で報告している」で片付けられるのです。

 

まさに これは、行政事務(業務)において「公文書」を整備しなければならないルールを逆手に取ったあざとい手口、もっと言えば「禁じ手」と言わざるを得ません。

だから、マスコミが所管課に情報公開を求めても おそらく担当職員は「個人的なメモはあっても それはあくまで個人のもの。公文書は作成してないので、公開したくてもできないのです。」と 涼しいカオで答えたのでしょう。

こんなことがまかり通るとすれば、市行政の公正性は破綻してしまいます。

市にとって都合の悪いことは、公文書でなく「個人的なメモ」で残せ。そうすれば 記録は残るが、万一 情報公開請求という合法的手段で公開を求められても、その手から堂々と逃げることができる。

そうだ、この手があるゾ、と。

 

そうです。長野市は、昨年来の遊園地問題の中で 情報公開請求に直面したことを「学習」したのです。

それは、市民からの求めに 更に真摯に応えなければならないと学習したのではなく、どのように〝合法的に逃げるか〟を学習したのです。

いわば〝悪知恵〟をつけた、と言わざるを得ないのです。

 

このことについては、さきの3月市議会最終日の「討論」で、私の方からも厳しく意見しました。

[3/20 3月議会「討論」倉野 読み原稿]

さて、さきに述べたとおり、市は当初、遊園地の廃止の経過の中で、児童センター利用児童が恒常的に苦情者に迷惑をかけていることを公文書に記し、その間違いを指摘された際も「事実誤認でした」として、指摘にいわばフタをする格好でやり過ごしており、そのことからも「公文書とは一体なんぞや?」との疑問の声が上がったところですが、しかし、相変わらず公文書は 行政事業の中で大きなウェイトを占めています。現に、今でも遊園地問題の中で児童センター児童が受けたクレームの回数などは訂正されないまま公文書は未だに独り歩きしており、あたかもそれが正しいものであるかのように周知されることとなってしまっています。

そんな中、先日の報道で、児童センター児童が遊ぶ遊園地を巡り、地権者との交渉を記(しる)した記録を公文書として残していないことが明らかになり、驚きを隠せませんでした。そして、その一方で、一連の経過を記した 職員のメモは有るとのこと回答がされ、そこに本市の作為が垣間みられたところです。

私の周辺の識者の推察によると、おそらく土地交渉など際どいやり取りを公文書に残せば 後で情報公開請求された際に開示しなければならなくなるので、公文書としては残さないことにした。しかし、重要な案件だから口頭でのやり取りはできない。だったら あくまで個人のメモとして記録すれば「紙の資料」は残せるけれど、それは情報公開請求が出されても 出す義務は生じない。という論法ではないか。というものです。

公の者が、行政ルールを逆手に取って、その抜け道を使って情報公開の義務を逃れる行為。これは いわば禁じ手と言わざるを得ません。

これをヨシとして職員が合意の上で手を染めているとすれば、本市の将来は非常に危険なものになると言わざるを得ないでしょう。

おそらく、昨年の時点で、情報公開請求によって痛くもないハラを探られることになったことから、このことを学習し、その後の機微に触れる案件については、敢えて公文書として残らない手法を編み出したと思われるところですが、これでは向いている方向が違うと思います。

市民のあらぬ誤解を招いたことを真摯に受け止め、その後は正しい手順を踏んで情報公開に努めるどころか、ルールに則ったうえで 結果隠ぺいを図る行為。こんなことが今後もまかり通れば、市民に開かれた市政はほど遠いものになってしまいます。

この報道が事実とするならば、市民の心には、市に対する新たな疑念の雲が湧き上がったところでありましょう。

この場を借りて、このことについて市に猛省を求めるところです。

 

このことについて どのように市が受け止めたのかは知るところではありませんでしたが、22日に「長野市が地権者との交渉 一転公文書作成へ」の報道を耳にするに至りました。

 

 

 

報道の内容は下記のとおりです。

近隣住民の騒音への訴えをきっかけに長野市が廃止を決めた遊園地について、市は存続に向けて行なった地権者との交渉経過を公文書として残す予定はないとしていましたが、一転して、今後作成する方針を明らかにしました。

長野市が廃止を決めた青木島遊園地を巡っては、市が先月末まで地権者と借地契約の延長交渉を続けていました。
しかし その経過を記した公文書を作成しておらず、NHKの取材に対し今後も作成の予定がないと答えたことから、交渉経過の検証ができないと 市議会からも批判の声があがっていました。

 

 

 

この問題について、市の担当者は「交渉経過について早急な報告が必要だったため市長には口頭で報告していた」と説明したうえで、今後、公文書を作成する方針を明らかにしました。

 

 

 

そのうえで荻原市長は「当時は文書にまとめる余裕もなかったと思うが、行政が行なっていることを記録としてとどめることは必要だと思う。一連の市の対応を総合的に検証していくなかで、交渉記録の取り扱いについてもしっかり考えていきたい」と述べました。
一方で荻原市長は、公園廃止に向けた工事のスケジュールや、住民への今後の説明のあり方などについては、まだ決まっていないとしています。

 

 

 

長野市(所管課)は、報道ならびに議会側の正義に気圧(けお)される形で 渋々「公文書」を作成することになりました。

それまでは「公文書は無い。でもメモはある。記録はあくまでメモだから(情報)公開の義務は無いよ。」でシラを切り通すつもりでいたようです。

しかし、そうは問屋が卸しません。

 

 

 

22日の会見で、市長ならびに所管課は「交渉経過について早急な報告が必要だったため市長には口頭で報告していた」と答えていますが、その一方で職員の個人的なメモの存在は改めて認めました。

今後、市(所管課)は 一連のやり取りを巡る「公文書」を作成するようですが、その基(もと)となる資料は一体なに?

口頭で行なっていた内容の「記憶」を辿り、さらに職員の個人的なメモからなる「雑記」を重ねて〝公(おおやけ)の文書〟とするつもりなのでしょうか。

そして、そんな 継(つ)ぎ接(は)ぎだらけの書類が「公文書」として また独り歩きを始めるのでしょうか。

こんな展開のうえでの「公文書」が、果たして信頼にあたるものになるのか?

残念ながら〝否〟信頼に耐えないというのが私の感想で、それは 多くの市民が同様に思うことと拝察するところです。

 

その〝信頼に耐えないこと〟の理由は、この件について報じた信濃毎日新聞記事の後段に触れられていました。

 

 

 

公文書の(改めての)作成について触れた後、記者が 過去に地元住民有志が「遊園地(管理)愛護会」の設立に必要な書類交付を所管課に求めたところ「それは出せない」と断っていた事実を確認したところ、所管課長は「断ったわけではない」と主張したというのです。

このことについては 私も当事者(住民有志)に確認しましたが、市民の申し出に対し「現時点では出せない」と断られたことを正に聞いており、所管課の説明には明らかな食い違いがあります。

 

 

 

これは非常に残念なことでありますが、本件に関する市(所管課)の言い分には 矛盾や事実誤認があまりに多く、信任に耐えうる状況ではなくなっています。

そのうえでの「公文書は無い→作る予定は無い→やっぱり作る→でも その資料は、職員の(口頭での)記憶と 個人的なメモにある雑記に頼って作る」というものでは、そこからできた公文書の信頼度は 限りなく低いと言わざるを得ないでありましょう。

またぞろ 市にとって都合の悪い内容は忘れたことにして記述(記録)せず、市にとって都合のイイようにストーリーを作るんじゃないか。

もうこなれば、議会の議事録同様に「音声録音」を基に詳細を記するしかないのではないかと思わされるほど、信頼度の低くなった「公文書」の存在。

 

それもこれも、これまで18年に亘って行なってきた 関係者の所作の積み上げの結果(結末)であります。

一体 どのような公文書ができ上がってくるのかは知る由もありませんが、いずにしても スッキリとした気持ちで案件に向き合うことができないことは、残念に尽きないところであります。

 

さらに蛇足で申せば、会見の終段に、記者から「(遊園地の)利用が実質困難な状態は続いているか」との問いに「遊びに規則や決まりがあるのはどうなのか」との答え。

市長はいったい何を言いたいのか。

公共の場所を利用するのに 一定のルールを定めるのが悪いとでもいうのか。

もっと言えば、これは完全に議論のすり替え。

ここでも「子どものせい(責任)」に転嫁しているのです。

 

 

 

また、春休みから校庭すら使えないでいる状況に一言「心苦しく思う」と。

 

 

確か本人は、遊園地を廃止する代わりに「オギワラビジョン」を立ち上げ、子どもたちの良好な環境を直ちに整備するのではなかったか。

少なくとも春休みには、子どもの居場所を整えるハズではなかったか。

で、それができないときの対応が「心苦しく思う」の、言葉だけ。

今 求められているのは、軽々な謝罪などの「言葉」ではなく、具体的な対応なのです。

それができないというのであれば、取りあえずでも現状を維持するべきなのです。

 

市長においては、どうにも言葉だけが躍るだけ…空(むな)しさだけがつきまといます。

そのうえで、そのツケを回されているのが 他でもない子どもたち。

そのことが、何より残念でならないのです。

 

 

 

 

 

◇感動のWBC ~そこから学んだこと~

今さら言うまでもなく、開催されたWBC(ワールドベースボールクラシック)は、侍ジャパンの優勝という感動のフィナーレで幕を閉じました。

この間、さまざまなドラマが生まれましたが、私は その中でも、準決勝のメキシコ戦が特に印象に残り さらに大きく学んだものでした。

 

4対5の劣勢で迎えた最終回、先頭打者の大谷翔平選手が右中間に好打を放つと、一塁を回る直前に自らヘルメットを脱ぎ捨て、2塁に激走しました。

 

 

 

その後、2塁ベースに仁王立ちとなった大谷選手は 自軍のベンチに向かって大きく手を挙げ「カモーン!」と鼓舞したのでした。

 

 

 

この大谷選手の姿に 侍ジャパンナインも大きな力を得たのでしょう、それまで不振を極めていた村上選手が左中間にサヨナラ打を放ったのでした。

 

 

 

まさに 起死回生の一発を呼び込んだ、最終回の大谷の全力プレーだったのでした。

 

 

試合後に大谷選手は「最後まであきらめない、その気持ちだけ」と シンプルに心境を吐露し、その純粋な心根のままにピッチを躍動したことが伝えられていました。

 

 

 

 

さまざまな困難な状況に陥っても、最後まであきらめるな。

私たちの社会生活にも通じる「メイク ドラマ」だったのでした。


長野市議会 令和5年3月議会最終日 =「討論」で青木島遊園地廃止問題に鑑み市の姿勢に意見=

2023-03-21 | 日記

3月20日(月)、長野市議会 令和5年3月定例会は最終日を迎え、市提出の令和5年一般会計予算案など48議案が採決に付され可決成立しました。

採決に先立ち、各常任委員会の委員長報告が行なわれ、私は、採決の前に「討論」で登壇しました。

討論の主旨は、社会問題ともなっている「青木島遊園地問題」に鑑(かんが)み、改めて市の姿勢に意見を述べた内容です。

 

 

 

今議会提出の議案第1号・令和5年長野市一般会計予算のうち、福祉環境委員会所管の児童福祉費のうち、放課後子ども総合プラン推進事業に関する報告について討論を行ないました。

委員会においては、新年度における放課後子ども総合プランの予算が計上されましたが、新年度事業の前に、その前提となる 今年度ならびにそれ以前の事業執行の状況を検証すべきであります。

その 検証すべき経年の行政事業(対応)は、言うまでもなく「青木島遊園地」の存廃を巡る一連のプロセスであり、その(プロセス)中で大きな問題があったことが指摘され続けたこと、そして その取り組み経過が、ひいては新年度以降の市政運営全体にも大きな懸念材料となることが明らかになったことから、その点への指摘も含めて討論いたしました。

以下、討論の全文です。

すでにご案内のとおり、青木島児童センターについては、隣接する青木島遊園地を利用する児童が発する「音」などの行為が、周辺に暮らす一部の世帯の苦情の対象になり、それが いつの間にか遊園地そのものを廃止に追い込む要因とされてしまいました。

このことについては、所管課が苦情に対する初期対応を見誤り、あげく それを遊園地の利用自粛という、他でもない児童センターの利用児童へしわ寄せする形となる場当たり対応に終始し、あげく最終的には遊園地の廃止という、最悪かつ市にとって最も安易な方向へ舵を切ることになってしまいました。

しかし実際には、児童センターの児童に向けられた苦情は1回限りでありました。にも関わらず、市の残した公文書には、恒常的に児童が迷惑をかけ問題を大きくしたかのような事実と異なる報告が上げられており、罪も無い児童センターの利用児童が責任を負わされる形になっていることは遺憾の極みであります。

ここには、センター利用の児童不在のまま、当初は住民の側に立ち、市への返還に難色を示していた地権者を説得してまで廃止を推し進め「廃止ありき」で事態の終結を図った市の悪しき姿勢が顕著に表れています。

これまでの市の対応、最終的に、児童センター児童に遊ぶ権利がある遊園地を、廃止ありきで突き進んだプロセスについて大きな問題があったと言わざるを得ません。

ここでさらに問題なのが、苦情者への初期対応が所管課のみで行なわれたことです。

今回の苦情問題は、騒音の問題と言うより いわゆる煩音(はんおん)の問題であり、その対応は、所管の公園緑地課だけが矢面に立つべきではありませんでした。

問題が発生した初期のうちに、所管課はもとよりこども政策課や地元区長会をはじめ地元住民を交えて、先ずは横断的に話し合いの場を持つべきであり、このことを抜きにして公園緑地課だけが対応に臨んだことが、偏った答えを導き出す要因になってしまったことは残念でなりません。

一つの課題が生じた際には、早期に横断的に対応すべきであることを指摘するところです。

さて、さきに述べたとおり、市は当初、遊園地の廃止の経過の中で、児童センター利用児童が恒常的に苦情者に迷惑をかけていることを公文書に記し、その間違いを指摘された際も「事実誤認でした」として、指摘にいわばフタをする格好でやり過ごしており、そのことからも「公文書とは一体なんぞや?」との疑問の声が上がったところですが、しかし、相変わらず公文書は 行政事業の中で大きなウェイトを占めています。現に、今でも遊園地問題の中で児童センター児童が受けたクレームの回数などは訂正されないまま公文書は未だに独り歩きしており、あたかもそれが正しいものであるかのように周知されることとなってしまっています。

そんな中、先日の報道で、児童センター児童が遊ぶ遊園地を巡り、地権者との交渉を記(しる)した記録を公文書として残していないことが明らかになり、驚きを隠せませんでした。そして、その一方で、一連の経過を記した 職員のメモは有るとのこと回答がされ、そこに本市の作為が垣間みられたところです。

私の周辺の識者の推察によると、おそらく土地交渉など際どいやり取りを公文書に残せば 後で情報公開請求された際に開示しなければならなくなるので、公文書としては残さないことにした。しかし、重要な案件だから口頭でのやり取りはできない。だったら あくまで個人のメモとして記録すれば「紙の資料」は残せるけれど、それは情報公開請求が出されても 出す義務は生じない。という論法ではないか。というものです。

公の者が、行政ルールを逆手に取って、その抜け道を使って情報公開の義務を逃れる行為。これは いわば禁じ手と言わざるを得ません。

これをヨシとして職員が合意の上で手を染めているとすれば、本市の将来は非常に危険なものになると言わざるを得ないでしょう。

おそらく、昨年の時点で、情報公開請求によって痛くもないハラを探られることになったことから、このことを学習し、その後の機微に触れる案件については、敢えて公文書として残らない手法を編み出したと思われるところですが、これでは向いている方向が違うと思います。

市民のあらぬ誤解を招いたことを真摯に受け止め、その後は正しい手順を踏んで情報公開に努めるどころか、ルールに則ったうえで 結果隠ぺいを図る行為。こんなことが今後もまかり通れば、市民に開かれた市政はほど遠いものになってしまいます・。

この報道が事実とするならば、市民の心には、市に対する新たな疑念の雲が湧き上がったところでありましょう。

この場を借りて、このことについて市に猛省を求めるところです。

また「熟考の末」として、市長ご自身が、裏で地権者との交渉の事実を知りながら「フラットな気持ちで」として開いた住民説明会で「廃止のままでいくのはどうか」と、実質廃止見直しを匂わせたあげく「遊園地廃止」を明言したことには、地元住民はもとより多くの市民が落胆したところですが、そのことに付随して突然持ち出された「青木島児童センターの校内移転案」は、児童センター利用児童はもとより、保護者やセンター職員、さらに学校関係者にまで驚きをもって伝えられ、その早期の実行性について疑問符が投げかけられることになりました。

さきの本会議や福祉環境委員会においても、多くの住民の反対を押し切ってまで進めることになった遊園地廃止と児童センター移転案は、市長の述べた「オギワラビジョン」のアドバルーンの大きさに比して現場は「全くこれから」の感、今の子どもたちに直ちに快適な環境を提供するにはほど遠いものであることが明らかになっています。

本来であれば、青木島遊園地を当面の間は存続し、その間に、児童数の変遷に応じて校内移転に向けた長期計画を立てるべきところ、市は、青木島児童センターや小学校の現状を度外視した形でビジョンを強行しようとしています。

繰り返せば、その間、他でもなく不自由を強いられるのは児童センターを利用する子どもたちなのです。この、目の前にある子どもの快適な居場所確保対応については、今のところ何の具体策も示されていません。

さきの福祉環境委員会の審査においても「すぐには児童センターの移転は難しい」との答弁でありました。それなのに、市長はじめ市は拙速に移転計画を進めようとしている。このことについて一日も早い説明責任を果たす責務があると申せます。

また、側聞するところによると、新たな児童センターの計画などについて、先んじて区長会に説明を始めているようですが、またも、そこには関係者や住民が不在のまま。いわば結果ありきの説明プロセスが進められているようです。

さきに述べたとおり、過去における児童センターや遊園地を巡る諸問題において、市は、住民や関係者不在のまま事(こと)を進めて失敗を招いた経験値があったハズです。

なのになぜ、また同じことを繰り返すのでしょう。

新たな児童センター等の事業計画も、区長会のみと話しを進め、いずれ「既に区長会でご理解をいただいています」として、結果のみを住民周知し、否応なしに住民を納得、いや諦めさせるのでしょうか。

昨年来、このような手法は決して好ましいものではないと強烈な体験を経ながら なお同じ轍を踏もうとしている状況は、とても理解できるものではありません。

 

 

 

一連の本市の市民対応は、ひいては今後の荻原市政そのものの評価につながると申せます。

手続きだけはルールに則っている形式は保ちながら、実質的には結果ありき・事後報告のスタイルを続けていれば、やがて荻原市政に対する不信感は風船のように膨らみ、やがて破裂することも無いとは言えません。

市行政を進めるうええでの有るべき姿勢・住民自治協議会と、その先におられる市民との関係・合意形成の取り方・問題が発生したときの初期対応の在り方や庁内連携の在り方等々、実に多くの課題を投げかけることになりました。

今回の件を踏まえ、総論・各論に至るまでつぶさに検証し、内省を進めること、もとより本議案においては放課後児童の快適な居場所づくりについて、これ以上子どもたちに我慢を強いることの無いよう強く意見し、討論といたします。

 

今回の「青木島遊園地廃止問題」は、このことだけに止(とど)まらず 長野市の体質そのものを炙(あぶ)り出すこととなりました。

ある事業を「仕上げる」ために、市(市長はじめ職員)が どのような価値観で(事業に)臨み、最終的に何を守ろうとして行動するのか(したのか)。

いわんや、この度の長野市(市長はじめ職員)の行動(取り組み)は、先ず保身・その次には 予め設定した結論にむけての辻褄(つじつま)合わせ(=〇〇ありき)・その後は 事(こと)の責任の矢を自らに向けないよう〝責任の所在づくり〟・後に証拠(公文書)の開示を求められても逃げられる〝個人のメモ対応〟等々、市行政の全般に亘る問題や、今後の市政運営への懸念が増幅されることとなったことを実感させられます。

この 悪しき様態を変える(そうさせない)ためには、相当のチェック体制(態勢)が求められてくる→いわんや 議会(議員)の役割が益々大きくなってくことが実感されたところです。

心の拳(こぶし)に力が入ります。

 

自らの職責を果たすべく頑張ってゆこう。

改めて心にいたしたところであります。

 


青木島遊園地廃止問題 これまでの行政手続きが「おかしくない」と思う意識こそが「おかしい」のでは

2023-03-20 | 日記

今や大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、この日 青木島に暮らし遊園地を存続してほしいと強く思っている人(Aさん)と話す機会がありました。

で…その人が言った言葉(所感)に、今の長野市の体質そのものを言い当てていることを実感させられたところです。

その人は言いました。

「今の長野市の事(こと)の進め方はおかしいと思う。で、それをおかしいと思わずに躊躇(ちゅうちょ)なく進められる感覚の方が もっとおかしいんじゃないか。」と。

 

青木島遊園地が廃止の方向に進められていることに 早いうちに疑問を抱いていたAさんは、これまでの新聞記事をスクラップするなどして経過をまとめられる一方、2月11日に行なわれた住民説明会にも参加し 会場の空気を肌で感じてこられたそうです。

また 今期の3月長野市議会(本会議)にも足を運ばれ、何人かの議員の発言や それに対する市長はじめ理事者(職員/部局長)の答弁を傍聴してこられたとのことでした。

そのうえでAさん、一連の行政サイドの所作に大きな疑問を呈しておられたのでした。

曰く「これまで多くのみんなが感じているように、長野市の行なってきた対応は 辻褄(つじつま)が合っているようで全く合っていないように見える。それはナゼか。長野市の合わせた辻褄(つじつま)は、行政上だけで成立しているハナシで、市民の常識に合っていない…もっと言えば、市民の心に寄り添っていないからじゃないか。」

「〝一部の苦情者のクレームのせいで廃止〟とされた件も、現場に照会すれば 遊園地(児童)に対するクレームは1度だけで それが遊園地廃止の主要因ではなかった、実際には。でも 市(所管課)は、いかにもそれ(児童へのクレーム)が恒常的に続いていたかのように報告(公文書)を いわば改ざんして上に上(あ)げ、それを上(市長)も丸呑みする形で次の段階に進んでしまった。」

「これを聞いてオレは、あの「森友問題」を思い浮かべたね。」

「あれも、事件に首相夫人(当時)が大きく関与していたものを無かったことにするなどの公文書の改ざんが行なわれたとされ、その良心の呵責に悩んだ心ある職員が自死することとなってしまった。いわゆる官を挙げての忖度(そんたく)が問われた事件だった。」

「あのことで「公文書とは一体なんぞや?」との疑問の声が上がったけれど、相変わらず公文書は 行政事業の中で大きなウェイトを占めている。そんな中、今回の青木島遊園地問題でも その公文書が独り歩きし、やがてそれが正しいものであるかのように周知されることとなってしまった。」

「このこと(実質的な改ざん)について、長野市は公文書を訂正したか?してないだろ「事実誤認でした」とか言ってはみたものの、口頭での言い訳に過ぎない。」

「その事実誤認を、正式に改め 公文書を直そうとしない姿勢「これでイイんだ」と思い続けている姿勢こそが おかしいとオレは思う。」

「それから、長野市が示した〝遊園地廃止の6つの理由〟についても、その多くは既に破綻しているんじゃない?愛護会の件とか 遊園地が使われていないとか、ほとんどの廃止理由が 今や廃止理由になっていないのに、市は相変わらず 出しっ放しの洗濯物みたいにブラ下げ続けている。これもおかしい。多くの市民から「もはや廃止の理由になっていない」と言われ、もし そうでないとするならば、その整合性について説明すべきなのに それもしない。この「このままでイイんだ」とし続けていること自体が、オレはおかしいと思う。」

「また、荻原市長が わざわざ開いた住民説明会で、廃止見直しに言及し オレも含め多くの参加者や市民は「ヨカッタ!」と思ったもんだ。ところが、その後 市長は「熟考の結果」として、結局 廃止を明言。で、そのまた後に知らされた「市が地権者等と用地交渉を続けていたことを市長は知っていた」の事実。裏切られたとはこのことだ。」

「だったら 集会の前に「フラットな気持ちで」なんて思わせぶりなことは言うな。純粋な市民を騙(だま)したとも言える一言だった、あれは。」

「でも、市や あろうことか多くの議員は「仕方ない」と思っている。違うだろ、向いてる方が。」

「このことも、おかしいと思わないでいる感覚こそが おかしいと思う。」

「で、トドメは 先日の報道だ。遊園地(土地)の交渉を記(しる)した公文書は「無い」とのこと。その一方で、一連の経過を記した 職員のメモは「有る」とのこと。これっておかしくないか?」

「おそらく その裏事情は、土地交渉など際どいやり取りを公文書に残せば、後で情報公開請求された際に出さなきゃいけなくなるから、公文書としては残すな。でも、大事な件だから口頭はダメ。だったら あくまで個人のメモとして記録すれば「紙の資料」は残せるけれど、それは情報公開請求が出されても 出す義務は生じない。」

「この手があったじゃねーか!という論法…でも これって、おかしくねーか?」

「役人が 行政ルールを逆手に取って、その抜け道を通っての 体(てい)のいい証拠隠滅と同じこと。これをヨシと思っているとすれば、長野市の世も末と言わざるを得ないね。」と。

 

最後にAさんは こうおっしゃいました。

「今回の青木島遊園地廃止問題は、長野市という行政体で行なわれている行為(事業)の氷山の一角に過ぎないんじゃないか。」

「市民の目で 明らかにおかしいことが、市行政や市議会が「おかしくない」と思っているとすれば、それは非常に危険なことだゼ。」

「こんなことは思いたくもないが、連中は 今回の〝経験値〟を踏まえて「この手があった」として、これから起きるさまざまな事案においても 市行政に都合のイイように、実質ミスリードを重ねてゆくんじゃないか。」

 

そのうえでAさん、私を真っ直ぐに見据え。

「だからこそ「心ある者」は、有象無象(うぞうむぞう)と一緒になって脱線しないよう、しっかりチェック機能を果たしてくれや。」と、強く背中を叩かれたのでした。

 

 

 


青木島遊園地廃止問題/長野市が「借地契約交渉に関する公文書作成せず」との報道に驚きと憤りが

2023-03-18 | 日記

今や大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」について、17日に〝新たな事実〟が報道されました。

そして その内容は、長野市にとって非常に残念に他ならないものであり、私たち市民にとっては 何というか「またも裏切られた」と思わざるを得ない、やはり残念な内容でありました。

 

情報の出処(でどころ)は、NHK長野放送局・同局の独自取材によるものでした。

それによると、長野市が廃止を決めた青木島遊園地について (市は)存続に向けて行った地権者との借地契約に関する交渉経過を記録した公文書を作成していないことが(取材により)分ったとのことです。

 

 

 

この報道を耳にした瞬間 その事実を俄(にわか)に信じられない思いがすると同時に、何というか 砂を噛む思い…やり切れなさと 身内に裏切られたような残念な思いが湧き上がったものでありました。

 

報道の内容は以下のとおりです。

長野市が廃止を決めた「青木島遊園地」を巡っては 地元の住民から存続を求める声が上がったため、1月下旬から先月下旬まで 市が地権者と借地契約の延長交渉を行ないましたが、跡地利用の計画が進んでいたため交渉は成立しなかったということです。

交渉の経過を確認するため NHKが長野市と地権者とのやり取りが分かるメモなどを含むすべての公文書を対象に情報公開請求したところ、市は該当する文書は存在しないと回答しました。

交渉にあたった長野市公園緑地課は、NHKの取材に対し 職員の個人的なメモは残していることを明らかにしました。

一方で、情報公開の対象となる公文書を作成しなかった理由は特に無いが 今のところ作成の予定も無いとしています。

長野市は 去年行った地権者との公園廃止に向けた交渉については公文書を残したことから、現在開会中の市議会でこれまでの経緯が検証されていました。

このことについて 行政の情報公開に詳しいNPO法人情報公開クリアリングハウスの三木由希子理事長は「職員が共有するはずの情報を公文書として作成しないのは問題だ。交渉が適切に行なわれたのかや妥当な判断だったのか、検証できなくなってしまう。」と話していました。

 

 

一方、信濃毎日新聞もこの件に触れ 記事を寄せています。

 

 

 

記事の内容は以下のとおりです。

「青木島遊園地」の廃止問題を巡り、市が存続を模索して土地所有者と交渉した経過の記録を公文書として残していないことが17日 分かった。

荻原健司市長は開会中の市議会3月定例会で土地の後利用計画があるとして廃止を表明。一方、市議会では具体的な交渉過程を明らかにしていない。専門家は政策決定の根拠を欠き、行政運営への信頼が揺らぐと指摘している。

市公園緑地課によると、市職員が組織的に用いるため職務として作成 取得した文書で情報公開請求の対象となる「行政情報」としては保存していないが、経過を記録した職員の個人的なメモは存在するという。同課のH課長は公文書として残していない理由について「交渉の都度、市長に口頭で報告しているため」としている。

情報公開に詳しいNPO法人情報公開クリアリングハウス(東京)の三木由希子理事長は「組織的に共有する文書もなしに交渉を進めることは、職員の記憶頼みで交渉を進めていると言っているのに等しい。行政運営が適正に進められているか疑念が生じる」と批判している。

 

この記事の中で 私が強い疑義を抱いたのが、取材に対して回答した所管課長の言葉です。

同課のH課長は公文書として残していない理由について「交渉の都度、市長に口頭で報告しているため」としている。

とのことですが…

 

 

 

ここまで拗(こじ)れた遊園地(土地)問題について、それも地権者との機微(きび)に触(さわ)るような微妙な交渉の経過を〝その都度 市長に口頭で報告〟で済む話しでありましょうか?

社会通念で捉えてみても、そのような重要な案件を 口頭で伝え、それを市長が口頭で了解して話しが進むなどということは まかり通るハズもなく、もしそうだとすれば 長野市は極めて杜撰(ずさん)でいい加減な業務を認めていると言わざるを得ないでありましょう。

 

で…この取材への回答には「伏線」があり、それが 長野市の実に〝あざとい手口〟を物語っていることを強く実感させられました。

取材に対し 市(所管課長)は「市職員が組織的に用いるため職務として作成 取得した文書で情報公開請求の対象となる「行政情報」としては保存していないが、経過を記録した職員の個人的なメモは存在する」と答えています。

ということは、経過を記録した「紙」は存在しているのです。

しかし、それはあくまで 職員の個人的なメモ であり、市職員が組織的に用いるため職務として作成 取得した文書で情報公開請求の対象となる「行政情報」ではない。

つまり 経過を記録した「紙」は、たとえ市民が ルールに基づいて情報公開請求しても(個人的なメモだから)公開する義務は生じない、という論法なのです。

だから、上司に対し 実際には「紙」で報告していたとしても、行政ルール上においては公文書は存在しないので「市長には口頭で報告している」で片付けられるのです。

 

まさに これは、行政事務(業務)において「公文書」を整備しなければならないルールを逆手に取ったあざとい手口と言わざるを得ません。

だから、マスコミが所管課に情報公開を求めても おそらく担当職員は「個人的なメモはあっても それはあくまで個人のもの。公文書は作成してないので、公開したくてもできないのです。」と 涼しいカオで答えたのでしょう。

 

こんな理不尽があったものでしょうか。

 

ブログで今までもご報告しており、また 各位ごと報道などを見聞しておられるとおり「青木島遊園地廃止問題」については、これまでの経過の中で 実にさまざまな疑問点や不明な点が挙げられており、私たちは非常に煮え切らない思いを強いられてきております。

一軒の世帯が「音がうるさい」と苦情を寄せたことに端を発した遊園地廃止問題は、実際には利用者(子ども)の音への苦情がたった1回だったにも関わらず 経年に亘って苦情が言われ続けたと歪曲され、遊園地の愛護会活動が(コロナ禍などで)休止しただけなのに(愛護会の)廃止が誘導され、それら事実と違う経過を口実に 区長会から遊園地廃止要望書が出させられ、また 長野市が掲げる「廃止に至った6つの理由」も ほぼ破綻しているにも関わらず、その説明も無いままに(廃止理由は)現存しています。

 

何より市(市長)は、実際には地権者と交渉を重ねている事実がありながら そのことを尾首(おくび)にも出さずに「フラットな気持ちで」と詭弁を弄して住民説明会を開催し、集会の後に市長は「廃止のままでいくのはどうかな」と いかにも廃止を見直すような言葉を発し住民を(存続との)その気にさせるなど、さんざん市民の心を弄(もてあそ)んだあげく「廃止」を言明し (市民の)期待を失墜させてしまったのです。

この間も、苦情に対する自分たちの初期対応のマズさが主原因であったにも関わらず その結末を「遊園地廃止」という安易な方向に導き、その(廃止の)口実も「区長会からの廃止要望」と責任転嫁したうえで 手続き上は瑕疵(かし)無く事(こと)を進める手法を取り、当初は(廃止に)否定的であった地権者さえも説得してまで廃止に舵を切ったことは それだけでも容認し難い所作でありました。

 

そして、廃止のレールが引かれていたにも関わらず〝熟考する〟とした市長は 多くの住民の期待を裏切って廃止を言明、そのうえ その理由について、これまで挙げてきた6つの理由では無い「地権者の都合」を挙げ、周囲を大いに驚かせ 落胆させたのでした。

そのうえ (前掲のとおり)市(市長)は「フラットな気持ちで臨む」とした住民説明会の際に いわば裏取引を知っていたことが明らかになり、あの清廉な荻原市長のやることか…と 不信の念が大いに高まったところです。

 

そこへきての 今回の「公文書は存在しない」の報道です。

おかしい、おかし過ぎる。

 

野球でいえば「隠し球」で相手をアウトにするような、サッカーでいえば 審判の見えないところで相手を突き転ばすようなやり口でゲームを支配するようなことは、観客は決して許さないと思います。

 

いったい、誰がこんなあざとい手口の糸を引いているのでしょう。

私が何より釈然としないのは、これだけ市民に背信していながら、行政のルール上では何の瑕疵(かし)も無い というところです。

「行政ルールに則(のっと)っているのだから文句は言えないハズです。」と大見得を切れる行政サイド。

逆に言えば、保身を担保するためのルールを定め それを熟知したうえでルールを武器に前へと突き進む傲慢さがあるのではないか。

おそらく、このことを 例えば本会議の場で追及しても「あくまで行政ルールに則(のっと)って業務に臨んでおります。」と堂々と答弁し、万事休すとなってしまうでしょう。

 

果たして、それでイイのでしょうか。

強い疑念が増すばかりの、この日の報道でありました。


青木島遊園地廃止問題 存続を願う会が記者会見→改めて要望書を提出

2023-03-16 | 日記

今や大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」について、遊園地の存続を願う地元住民有志の会の方々が会見を開き、長野市の一方的ともいえる廃止に向けた進め方や(市の)対応にについて改めて疑問を呈すると共に、それを記したうえで 改めて存続を求める要望書を市(公園緑地課)に提出しました。

私は 同僚議員と共に一連のお手伝いをさせていただきました(以下 WED報道記事と併載)

 

 

 

会見会場には多くのマスコミが集結、未だ社会関心の高さを伺わせます。

 

 

 

冒頭で 存続を願う会のK会長は、静かな口調の中に しかりながら強い憤りを込めて会見の趣旨を話しておられました。

発言の源泉は「長野市の不誠実さと理不尽さが許せない」でありました。

 

 

 

その「不誠実さ」とは、市民の心情を翻弄したとも言える市の対応です。

これまで長野市は、苦情者たる一部住民の対応を見誤ったうえに その解決を〝遊園地廃止〟という最も安易な手法に傾斜し、そのうえ それ(廃止)を正当化せんと(廃止に向けた)手続きだけを半ば一方的に進めてきました。

そんな中、昨年就任した荻原市長は「あくまで廃止」を前提としながらも、地元住民をはじめ多くの市民から存続を願う世論が喚起されたことを受け「ニュートラルな視点で考えたい」として住民説明会を開催、その後には「廃止のままでゆくのはどうかな」と、廃止見直しの考えを匂わせたものでした。

これを聞いた人たちは誰もが「市(市長)は遊園地を見直しの方向に考えを改めた」と信じたものでした。

しかし実際に市長が出した結論は「廃止」それも、その理由が これまで遡上にも上ってない「地主の都合」だったのです。

この思いもよらない結論には 聞く者すべてが大きく落胆させられたのでした。

 

そして、むしろ問題は その後だったのかもしれません。

市(市長)は「あくまで6つの理由」としている廃止理由は ほぼ破綻しているにも関わらず、その根拠を示さないばかりか、突如として「オギワラビジョン」なる根拠の乏しい私案を発表、さらなる困惑を招くことになりました。

このことについてK会長は「今いる子どもたちの明日を置き去りにした、耳障りのイイ透明なビジョンだけが独り歩きし、時間だけが無駄に過ぎているのではないか。」と断罪しておられます。

そのうえで「こうした長野市の対応には、子どもや保護者や地域住民の思いに真摯に向き合う姿勢に乏しく、不誠実・怠慢がもたらした理不尽さと、ことの因果と結果を逆さまにした理屈を強引に押し通そうとする放漫さしか感じられません。」と、静かに しかしながら強い思いを込めて述べておられました。

そして これら理不尽で放漫といえる市の対応について、市がそれらの疑問に何ら応えていないこと・一連の経過について何ら検証が行なわれていないことを厳しく指摘しておられました。

 

 

 

その後 出席者から、これまでの経過の中で 市の説明にさまざまな事実誤認と改ざん・隠ぺいとも取れる不透明・不誠実な対応が重ねられていることが改めて指摘され、異口同音に 市の対応の不備ぶりが改めて示されました。

 

 

 

その後 一行は市の公園緑地課を訪れ、かかる 未だ納得できない理由を記述したうえで存続を求める要望書を提出しました。

 

 

 

この場でも、出席者から強い口調で(市に)不信感が述べられましたが、市(所管課長)は 何というか〝暖簾(のれん)に袖押し〟的な対応に終始し、明確な言明を避けたうえで要望書を受理するに止(とど)まっていたのでした。

 

 

 

 

世論の中には「もう廃止が市長から示されたのだから仕方ないじゃないか。」との厭戦(えんせん)ムードを言う人がいます。

しかし、それで済ませたのでは 行政責任を果たしたとは言えないのです。

むしろ逆。市は結論を先に示すことで議論を封じ込め 責任を回避しているとしか言えないのです。

もしも それが正しいというのなら、(前掲のとおり)6つの廃止理由が時間経過しても成り立っていること、さらに事(こと)ここに及んで なぜ「地主都合で廃止」に結論がスリ変わったのかを丁寧に説明し それもあまねく市民に納得してもらった上で次に進むべきでありましょう。

その 肝心な部分を置き去りにして「廃止というから廃止」という結論づけには納得できないというのは無理からぬ住民感情というところです。

しかも 今回の顛末で最も看過できないのは、主役であるハズの子どものこと(環境)を抜きにして いわば大人の都合で遊園地廃止が一方的に進められているところあります。

 

そこに心を置かずして「子育て日本一」など とても語る資格は無い。

そう断ぜざるを得ない長野市の対応。それに強く抗議する「願う会」の正義なのであります。

 

 

「不誠実さと理不尽さが許せない」苦情きっかけに荻原健司市長が廃止決断の公園 地元有志の会が改めて存続求める要望書 長野市 | SBC NEWS | 長野のニュース | SBC信越放送 (1ページ)

 

 

 


長野市議会3月議会「福祉環境委員会」で障がい者支援について発言

2023-03-15 | 日記

開会中の長野市議会は 常任委員会審査が行なわれており、私は「福祉環境委員会」に出席しています。

この日(14日)は「保健福祉部」について、現年度補正予算案・新年度予算案を含む議案ならびに所管事項について審査しました。

その中で とりわけ知的障がい者支援事業について、私も属する障がい者支援グループ「Gota」のMリーダーから課題(問題)が指摘されていることから、その見解に基づいて市の姿勢を質しました。

 

 

 

 

社会福祉法人等指導監査事務について 長野市における(監査の)状況について訊いたところ「国等の監査基準に則(のっと)り(監査を)行なっている」とのことでした。

しかし実際には、監査にかかる市内の社福法人が 例えば(従前も触れましたが)せっかく施設に設置した機械が未使用のまま放置されていて、監査の際に見過ごされてきた実態があった。

このことについて問うと「市は国等の監査基準に合っていればそれ以上踏み込むことは難しい。」との答弁。

私は、その認識こそが そもそも監査の目的に則していないのではないかと発言しました。

国等の補助金を得るなどして運営される社福法人は、いわば公的な機関(団体)とも申せます。

それらの団体が 万が一でも不適切な施設運営を行なっていれば、それはいずれ監査の網(あみ)に掛かり 早い段階で指導・改善が為(な)されるべきでありますが、実際はそうではなく(不適切な状況が)看過されてしまっている。

にも関わらず、それ(不適切な状況)を「国等の監査基準に則しているから問題なし」で済ますことは(監査の)職責を果たしているとは言えません。

さらに私は述べましたが、そもそも 監査という業務に対する認識そのものが当を得ていないのではないか。

当該の事業が、真にその目的に叶っているか。例えば障がい者福祉団体においては、事業内容が当事者(障がい者)の利益に叶って(=工賃がアップして)こそ役割を果たしているハズなのに、現実には時給わずか100円前後で推移している。

関係者は このことにこそ監査の目を向け、当該施設が工賃アップに向け 何をしてきたのか、翻(ひるがえ)って工賃アップが実現していないとすれば いったいどこに問題があったのかを検証してこそ、初めて「監査」と 言えるのではないでしょうか。

それを、ただ定められた様式に数字等を合わせて帳尻を合わせただけで一件落着としているのは「違う」と言わざるを得ない と強く指摘しました。

 

また、障がい者自立支援において 長野市は2026年までに工賃月額2万円をめざすとしているが、どうやって実現するか質したところ、庁内の物品について優先調達に努める・市の関連施設の清掃などの役務を担うなどして達成をめざす とのことでありました。

しかし、説明を聞く限りには いわゆる「官」だけでは目標達成はおぼつかないことが伝わってきたことから、この際は 民間の立場で障がい者支援に取り組む団体や企業と積極的に連携し、工賃月額2万円を何(なに)がなんでも達成するよう提言しました。

 

そのこと(工賃アップ)に関連して、障害者支援施設(B型就労支援施設/以下「施設」)が受注する〝仕事〟について それが真に障がい者の工賃アップに結びつかず、受発注をクリアすることで目的を完結してしまっている実態があることを指摘しました。

ケースによっては、施設は仕事を受注するだけ受注し それ(仕事)を利用者さんの手に関わらせること無く外部の業者に〝丸投げ〟し 納品の体裁だけを整えている実態もあるのです。

基本的に施設は「障害者優先調達支援法」の名の下に、優先的に受注できることになっており、特にその取引は 県⇔市などの「官⇔官」で行なわれていることが多いのですが、そんな中で〝外部への丸投げ受発注〟が行われている実態があることは由々しきことと申せます。

しかしながら このことについて検証すると、本来は「障害者優先調達支援法」を遵守し、施設への受注により障がい者の工賃を上げることを実行すべき立場にある発注元たる長野県が「発注した先がどんな様態で作業をしていようが ウチ(県)は関知しません。」との いわば無責任な態度でおり、その姿勢には大きな疑問を抱かずにおれませんでした(この体質は、前掲の〝ザル監査〟にも共通します)。

この〝丸投げ状態〟を漫然と許せば、障がい者の工賃アップどころか ルール(障害者優先調達支援法)を隠れ蓑(みの)にして受注を掠(かす)め取る〝福祉ビジネス〟の横行をも許すことになってしまうことから、そういう意味でも関係者は (受注した作業に)現に障がい者が関わり ひいては工賃アップにつながるよう取り組んでゆかなければなりません。

それらを踏まえ、適正な取り組みを強く求めたところです。

 

さらに、施設によっては 非常に高額といえる機械(印刷機)を設置しながら、それを本来為すべき障がい者の就労支援に活用せず また、その機械の機能を充分に活かし切らないままに留め置いている実態があることも指摘しました。

そもそも 施設に機械を設置する以上は、その操作にも障がい者を関わらせ それを就労移行の手段として活用すべきところ、その取り組みも無いまま 単に機械ばかりを動かしている(または動かさない)とすれば、いったい何のために高額機械を設置したのかと言わざるを得ないことから、そこは検証の必要があるでしょう。

 

他にも、施設に内在するイジメや不適切指導・漫然とした施設運営など、障がい者支援の名の下に 多くの課題が積み残されたままでいることを指摘し、今後も検証・改善を進めるよう意見したところです。

 

知的障がい者支援ひとつを取ってもこれだけの課題が内在している。

それだけに、市行政へのチェックの必要性・重要性が再認識されるところです。


青木島遊園地廃止問題/令和5年3月長野市議会「福祉環境委員会」で議論

2023-03-14 | 日記

今や大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」について、開会中の長野市議会令和5年3月定例会「福祉環境委員会」で議論の俎上に上り、議論(質疑)が交わされました。

私も委員の一人として「青木島遊園地は存続させるべき」の立場で発言しました。

 

この日(13日)は、福祉環境委員会のうち「こども未来部」に係(かか)る案件について審査が行なわれました。

こども未来部については、かかる青木島遊園地問題に関しては 遊園地を利用する青木島児童センターに通う放課後児童の居場所について、さらに遊園地に近接する青木島保育園を所管していることから、それら所管事項について(予算審査の中で)質疑に臨みました。

 

これまでも触れているとおり、放課後児童の欠かせぬ居場所であるハズの青木島遊園地は、半ば市の一方的な都合によって廃止に追い込まれようとしており、未だ市民の納得は得られていない状況にあります。

長野市は、青木島遊園地を廃止したうえで 児童センターそのものを隣接の青木島小学校の校地内に移設し、放課後児童は校庭で遊ばせるよう目論(もくろ)んでいるようですが、そのことについての直近の本会議等での市(市長)の答弁(説明)も矛盾と課題に満ちており、それ(説明)を聞くほどに疑問の雲が湧き上がる状態となっています。

この日の説明(答弁)においても、市の対応には課題が多く 何より子どもたちにとってメリットが無いことが改めて明らかになったのでした。

 

 

 

 

私は先ず、長野市が拙速に進めようとしている「青木島児童センター」の小学校校地内への移転案について疑問を呈しました。

側聞すると さきに市(市長)が区長会を訪れ、小学校の駐車場を潰して そこに新たな児童センターを設置する案を持ち出したことに触れ、その説明の際の〝実現性の乏しさ〟について質(ただ)しました。

ただでさえ狭い校地内の それも駐車場に無理矢理(児童センターを)造るのは あまりに無理があると言わざるを得ません。

そのうえ、もしそうする(駐車場を潰す)のなら、そのまた代替えの駐車場をどうするのか?との疑問には「それ(代替えの駐車場)は、これから探す」と説明したとのこと。

こんな〝場当たり案〟があったものでしょうか。

 

 

 

この〝場当たり案〟について所管課職員は「イヤ、それは あくまで一般論を述べただけで…」と応じましたが、私は その姿勢そのものが問題であることを強く指摘しました。

「今 青木島住民の多くは、青木島遊園地がどうなるのか 子どもたちの居場所はどうなるのかなどについて(正しい)情報を求めており、そのうえで非常にナーバス(神経質)になっている。そこに 話す方が(一般論としても)何らかの案を示せば、それを聞いた瞬間に地元の人は それを〝本当のこと〟と受け止め、それが独り歩きするようになり、また新たな混乱を招くことになってしまう。そんな罪作りのようなこと(軽々な発言)は厳に慎み、もし言うなら 裏付けの伴う現実味のある話し(案)を示すべきだ。」旨を述べたところです。

 

これまでも市(市長)は、さまざまな場面で さまざまな見解を述べてきたが、その多くは根拠の乏しい〝思い〟に過ぎませんでした。

しかし それを聞かされた市民は、それが公人の口から出た発言として それを信じ、期待に胸を膨らませたものです。

が ゆえに、それが〝絵空事〟であったことを知らされたときの落胆は、まるで地に突き落とされたような心境になってしまうのです。

ことに 今回の青木島遊園地廃止問題においては、事実と異なる説明や裏付けのない理想論ばかりが飛び交うこととなっており、その度に市民は翻弄されているのが実際のところです。

そんな〝たられば話し〟は止(や)めてもらいたいと強く述べたところです。

 

そのうえで、肝心の(児童センター校地移転の)受け皿となる青木島小学校について 空き教室の状況を質したところ「現時点では空き教室は無いが、余裕教室を使って 放課後だけでも児童センターとして使えるよう(教育委員会と)調整してゆきたい」との答弁。

ここでも、現下の移転計画が現状に合っていない(空き教室が無いのに移転計画を進める)ことが明らかに。

また、兼ねてより不安視されている 校庭で全ての児童を遊ばせることについても、狭隘(きょうあい)な校庭に低学年児童を押し込むことは 不測の事故の要因になりかねないことを改めて指摘し、やはり児童センターを利用する低学年児童は 今までどおり遊園地で遊ばせることが最も安全かつ合理的であることを指摘したところです。

 

これら諸課題により、あらゆる面で 無理に無理を重ねて児童センターを移転しようとしている実態が明らかになりました。

 

 

 

そのうえで「青木島遊園地を廃止したうえは、子どもの日常生活に影響なく児童センター機能を移転できるのか?」との問いには「すぐに移転は難しい」との答弁でした。

このことから 青木島遊園地の廃止は、とどのつまり 子どもたちに不自由を強いることになることを市が認めたものでありました。

 

 

 

これらを踏まえ、私は改めて「青木島遊園地を存続させることが最も合理的な結論であり、市はそれを前提に再考すべき。」との認識を改めて示したうえで、市(市長・所管職員)は 改めて現場(青木島児童センター)に足を運び、館長だけでなく 現場を預かる支援員さんらスタッフの声を直接聴取するよう強く求めました。

 

このまま計画を強行することは非常に無理があり、児童センターはじめ多くの関係者に新たな負担を強いると同時に、不測の事故をはじめ 子どもたちに大きなデメリットを強いることになりかねません。

事態は佳境に至っていますが、私の立場においても 最後まで手立てを尽くしてゆきたいと強く思うところです。

 


東日本大震災~WBC~青木島遊園地廃止問題の共通項「誰かのために頑張る人は強い」

2023-03-12 | 日記

野球のWBC(ワールドベースボールクラシック)が大いに盛り上がっており、私も いち野球ファンとして心底楽しませてもらっています。

国内プロ野球界から選(え)りすぐりの選手が招集され、そこに加えて 大谷翔平をはじめ大リーグで活躍する日本人選手・さらに日本人を母に持つ現役大リーガーもメンバー入りするなど、歴代の侍ジャパンの三指に入るチーム力をもって戦いに臨んでいます。

 

 

 

今回の侍ジャパンの特徴は「チームの和」ではないか と。

打線は 全員4番バッター揃い、そこにメジャーリーガーなども加われば 概してベンチは〝プライドの坩堝(るつぼ)〟となり、ややもすればギスギスした雰囲気になりがちなものですが、特に今回の侍ジャパンにおいては 非常に良いまとまりをもって試合に臨んでいる様子が垣間見られ、それだけでも応援したくなるところでですよね。

 

 

 

特に今回 異例ともいえる抜擢を受けて参加したヌートバー選手(カージナルス)は、母親が日本人ゆえに、名前(ミドルネーム)に祖父の名前(達治)を入れている(ラーズ・テイラー・タツジ・ヌートバー)ことから 日本チームスタッフは敢えて「たっちゃん」と彼を呼称して親しみを演出、それに応えるように八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍を見せてくれています。

 

 

 

そして その実力を兼ね備えたうえでの明るい性格は、初めて加わったとは思えないほどチームに溶け込む「ヌートバー効果」をもたらしています。

 

 

 

さて そんな中、11日に行なわれたゲーム前の円陣で、この日 声出しを指名されたキャッチャーの甲斐選手(ソフトバンク)が、12年前の東日本大震災のときに 仙台をホームに持つ楽天イーグルスの嶋主将(当時)が挨拶で話した言葉を引き合いに出し ナインを鼓舞しました。

「東日本大震災から12年たった今日、たくさんの方が僕たちの野球を見てくれています。当時 嶋基宏さんがこのようなことを言っていました。「誰かのために頑張る人間は強い」と。今日 全力でプレーする中で失敗も起こるかもしれませんが、全員でカバーし合って助け合って戦い抜きましょう。今日も勝ちましょう!」と。

このニュースに触れ、感動せずにはおれませんでした。

 

以下は、当時の嶋選手のあいさつ全文です。

「本日は、このような状況の中、Kスタ宮城に足を運んでいただき、またテレビ、ラジオを通じてご覧いただき、誠にありがとうございます。この球場に来ることが簡単ではなかった方、ここに来たくても来られなかった方も大勢いらっしゃったかと思います・・・。

地震が起こった時、僕たちは兵庫県にいました。
遠方の地から家族ともなかなか連絡が取れず、不安な気持ちを抱きながら全国各地を転戦していました。報道を通じて被害状況が明らかになっていくにつれて、僕たちもどんどん暗くなっていきました。その時の事を考えると、今日、ここKスタ宮城で試合を開催できたことが信じられません・・・。
震災後、選手みんなで「自分達に何が出来るか?」「自分達は何をすべきか?」を議論して、考え抜き、東北の地に戻れる日を待ち続けました。
そして開幕 5 日前、選手みんなで初めて仙台に戻ってきました。
変わり果てたこの東北の地を「目」と「心」にしっかりと刻み、「遅れて申し訳ない」と言う気持ちで避難所を訪問したところ、皆さんから「おかえりなさい」「私たちも負けないから頑張ってね」と声をかけていただき、涙を流しました。


その時に何のために僕たちは闘うのか、ハッキリしました。
この 1 ヶ月半でわかった事があります。

 

それは「誰かのために闘う人間は強い」と言うことです。


東北の皆さん、絶対に乗り越えましょう。今、この時を。絶対に勝ち抜きましょう、この時を。
今、この時を乗り越えた向こう側には、強くなった自分と明るい未来が待っているはずです。
絶対に見せましょう、東北の底力を! 本日はありがとうございました。」

 

当時の楽天ナインは、東日本大震災に見舞われた地域の本拠地球団として 自分たちのためだけではなく、被災者を励ましたい一心で白球を追い みごとリーグ優勝→日本一になりました。

その優勝の原動力となったのは、選手のスキルだけではない「誰か(被災者)のために闘うんだ」との強いマインドであり、それをもって闘う人は強い ということを証明してくれたのでした。

無私利他の考え方です。

 

この日 甲斐選手が声出しに引用した嶋選手の言葉は、ひときわ われわれ日本人の心に響くものであり、改めて「他者のために力を尽くすこと」の大切さと強さを思い起こさせられるところでした。

 

で…現下の課題に取り組む者の一人として 私は、この「利他」のマインドを 引き続き「青木島遊園地廃止問題」に入れ込み、他者=子どもたち のために力を尽くしてゆこうとの思いを新たにしたものです。

誰がどう見ても〝大人の都合〟で廃止に追い込まれようとしている青木島遊園地。

そこで自由に遊べる(遊ぶ権利のある)子どもたちの意思は無視されたまま 更地となってしまうのか。

そんな不条理は許されるハズもありません。

「既に決まったこと」として戦敗されかかっている状況ですが、そこで今一度 自らを鼓舞しよう。

「誰かのために頑張る(闘う)人間は強い」この言葉を胸に。

 

現在、長野市議会3月定例会は「常任委員会審査」が行なわれています。

私は 13日から「福祉環境委員会」に出席し、児童センター問題を端緒に議論(所管事項調査)に臨みます。

 


東日本大震災から12年の歳月が =青木島遊園地廃止問題に重なる公共事業の如何=

2023-03-11 | 日記

3月11日は、あの「東日本大震災」が発生した日です。

2011年3月11日午後2時46分に発生した 三陸沖を震源にした国内観測史上最大のマグニチュード9.0の巨大地震は、地殻の大変動に伴い 大きな揺れと巨大津波を発生させ「想定」というものを根底から打ち崩す大被害を沿岸部に及ぼし、人々の生命財産を根こそぎ奪っていったのでした。

この大震災に伴う 関連死を含めた死者・行方不明者2万2,212人と戦後最悪となり、あれから12年もの歳月が流れた今も 私たちの脳裏にトラウマとなって刻み込まれたところです。

ここに改めて犠牲者を悼み、被災された方々にお見舞いを申し上げるところです。

 

 

 

あれから12年。長い年月が経過するも、例えば 東京電力福島第1原発事故による(福島県の)帰還困難区域は、東京都の約半分の面積に相当する322㎢に上及び、福島原発の影響等で 未だに故郷を離れた避難者は 未だに全国に約3万人もおられるとのこと。

私たちは これらのニュース(情報)を耳目にするとき「震災はまだ終わっていない」ことを実感させられるところであります。

 

 

そして…この大震災における「復旧のための公共工事」について、図らずも 現下に社会問題ともなっている「青木島遊園地廃止問題」が重ね合わさってしまうところなのです。

東日本大震災からの復旧のための予算は 2021年度までに約31兆5,000億円が支弁され、津波に襲われた沿岸部の土木やインフラ復旧などが 今も継続的に行なわれています。

 

[参考]復興の現状と取り組み =復興庁=

     ↓

https://www.reconstruction.go.jp/topics/main-cat1/sub-cat1-1/202302_genjoutorikumi.pdf

 

 

 

この間 津波に遭った沿岸部においては、被災エリアの更地化と共に 居住地の高台移転等が進められ、また同程度の災害が発生したとしても被害に遭わないことを旨としての復旧工事が行なわれています。

 

 

 

想定をはるかに超える津波を記録した沿岸部においては 高さ7mにも及ぶ防潮堤が建造され、堅牢な沿岸部が整備されることとなっています。

 

 

 

 

これら ハード整備が進められる一方で「住民の心に寄り添った〝真の復興〟」という面で、12年間の〝時間経過の中身〟について考えさせられることも提唱されています。

確かに、未曾有の大震災を受け 国を筆頭にする行政体は、全力を挙げて復旧に取り組んでいます。

多岐に亘る復旧工事は、被災地を震災前の状態に戻し そのうえで「強靱化」の名の下に「災害に強いまちづくり」を期してインフラ等の再整備を行なっています。

一方で、その〝全力の取り組み〟が、果たして住民(この場合は被災者)の心に真に寄り添ったものであるか…この いわば究極の問いかけが、発災から時間が経過した今だからこそ出されて(問われて)いるのではないでしょうか。

言い方には不遜な面がありますが、行政というものは とかく「形」にこだわり 被災地であれば現状復旧・他の公共工事(事業)においても 従来の形に副(そ)ったものを基本として事業を遂行し、住民ニーズや 人々が実際には何を求めているかは後回しにして〝形づくり〟に傾注する傾向にあるものです。

 

そういう視点において、現下の長野市で起きた「青木島遊園地廃止問題」を この3・11に(やや類(たぐい)は異なるものの)つなぎあわせるとすれば、行政体が良かれと思って進める公共事業が 市民ニーズに則していないままに進められようとしていることに、違和感と危機感を覚えざるを得ないところです。

青木島遊園地については、災害ではないものの 不測の事態によって施設利用に支障が生じることとなり、その初期対応において齟齬があったために事態が膠着し ひいては行政判断により「廃止」が決定づけられています。

このこと自体にも大きな問題があったうえに、その事後の対応についても 側聞するところ、住民や利用者の願いとは大きくかけ離れた形で(公共事業が)進められようとしているとのこと…これに対し、果たしてそれでイイのか?との疑念の声がそこかしこで挙げられているのです。

 

長野市も「形」にこだわり事業を進めようとしており、そこには 主役であるハズの小さな市民(=子どもたち)の声は反映されていません。

「東日本大震災から12年」のニュースに触れ、地域の身近な問題についても 後になって悔恨することのないようにすべきと 改めて心にいたしたところでありました。

 

 

 

 


青木島遊園地廃止問題に象徴される 公的組織の体質

2023-03-09 | 日記

今や大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、一連の経過の中で そこに「ここだけじゃない」と感じられる総体的な課題(問題)…いわば〝体質〟のようなものがあるのではないか との指摘があります。

障がい者(知的障がい者)支援に取り組んでいる ブレーンのMくんは、現下の遊園地問題を側聞する中で、とりわけ公的資金を預かる組織にありがちな〝体質〟を、ここ(遊園地問題)からも感じ取ることができると指摘していました。

「例えば市役所は 公務員試験を受かって市役所に入庁した職員がいて、また例えば市の外郭である障がい者支援団体には それなりの試験を通って勤務する職員がいるよね。彼らは 組織に入った時点で〝身分〟が保証されている。で、双方に共通するのが 組織の運営資金(予算)のほとんどが「公金」で占められているということだ。」

「自己資金を支弁して組織を運営する民間企業であれば、社員は創意工夫を重ねて 売り上げアップや自社の向上に最善を尽くすところだけど、残念ながら 市役所職員などの職種の者は(民間とは)明らかに違う。」

「彼らは 試験に受かって入庁した(できた)時点で達成感に浸り、その(入庁した時点)で目的を達成しちゃってるんじゃないか と思わざるを得ない。」

「〝(入庁の)後は恙(つつが)なく〟とか〝無事これ名馬〟というような感覚だナ。」

「で、そこで芽生え 長年に亘る勤務で培(つちか)われるのが、何いう〝保身〟じゃないか。」

「民間企業(社員)であれば、ときに自己犠牲を惜しまずクリエイト(創造)に汗をかき 自社の向上発展に全力を尽くす。その行為は、社内においては 評価されることはあっても非難されることは無い。逆に 努力を惜しんで漫然としている社員は叱咤されるほどだよね。」

「ところが…それが全てとは言わないけれど、公務員などの組織人においては 新たな挑戦は言わば御法度。前例を踏襲し いかに何事も無く過ごすかが美徳とされ、枠を少しでもハミ出そうものなら「余計なことをするな!」と叱責の声が飛ぶ。全く逆の世界。」

「そのうえ 多くの組織人は「責任」を負う(負わされる)ことを忌み嫌い 何か事(こと)が起きる(起こす)ときには、その事業の成否以前に いかに自分の立場が悪くならないようにするかに汲々とし、その結果 事業が本来進むべき方向に向かわなくても「マ いいか」と妥協する傾向にあるんじゃないか。」

「民間企業は、エンドユーザーのために自己犠牲を惜しまないけれど、組織人は まず自分。自分の身をシッカリ守ってから 相手に向き合う。もし自分の身が危ういとなれば 動かない。」

「そのうえで。」とMくん。

「今回の青木島遊園地廃止問題は、もっと その先を行っちゃったんじゃないか。」

「担当の職員は、一連のゴタゴタを経たうえで 自分たちの身を守るために、遊園地廃止という手段…いわば 遊園地を犠牲にして保身を図ったんじゃないか。いわば組織人の悪しき所作の究極型。」

「そのイチバンの残念は「手続きに瑕疵(かし)が無い」こと。彼らは 見事に自分たちの立場を守りながら、いわば巧みに遊園地を廃止に追い込んでいる。行政マンの手練(てれん)の際立つ行為だね。」

「でも、その陰(かげ)で泣かされているは誰か。民間でいうエンドユーザーにあたる「子どもたち」だよね。民間でいえば 最大限の努力を図って守るべきエンドユーザーを、行政職員は あろうことか犠牲にしてまで〝保身の方程式〟を成立させてしまった。」

「さらに言えば、行政職員はじめ公的組織の者の運転資金は 元をただせば我々が収めた税金だよね。でも、それは 残念ながら、彼らの意識の中では〝他人の金〟なんじゃないか。」

「だから、その支弁(使途)についても甘さが出たり、どう考えても合理的じゃないのに そこへ振り向けるようなことができる。」

「今回の遊園地だって、存続させるのがイチバン経費がかからないハズさ。民間なら そのため(経費の最小限化)のために必死になるけど、彼らはそうじゃない。そこも併せて、残念にならないところだよね。」と。

 

この「組織の体質」を直す(改める)のは容易ではない。この点でもMくんと一致しました。

でも、そここそを改めてゆかないことには、社会状況そのものを変えることはできない。

その点でも 一致したところでありました。

 

 

 


青木島遊園地廃止問題 =一連の経過後、改めて「説明の場」を の声=

2023-03-08 | 日記

今や大きな社会問題となっている「青木島遊園地廃止問題」ですが、こと ここに至って、この問題に対する見方が 二手(ふたて)に分かれていることを実感します。「もう終わりにしよう」という見方と「まだ終わっていない」との見方です。

前者を主張する人には「どう訊(き)いても、市長は「廃止」の一点張りなんだから もうどうしようもない」とか「本会議などで 市長が頭を下げて(謝って)いるんだからイイじゃないか」と言う向きがあります。

他方、後者の人は「遊園地の廃止プロセスは非常に不透明で、また 現在(これまで)の説明には矛盾点や事実誤認の面があり、とても納得できるものではない。市(市長)は引き続き説明責任を果たすべきだ」と言うものです。

私は と聞かれれば、無論「後者」の方。このまま幕引きすべきではないと強く思う者の一人です。

これまでも このブログで触れていますが、今回の青木島遊園地廃止問題については その経緯を調べたり、それぞれの関係者に照会するなどしたとき、その結果が「了(りょう)」とされるには程遠いものになっており、おかしいと思うと同時に そのような不詳な経過を辿っていることを非常に残念に思うところです。

そして さらに残念なことには、一連の結果を招くことになってしまったことに際し、市行政サイドは 市民(住民)にハッキリと分かる(納得できる)説明を履行せず、ときにこじつけ ときに理解できない理由をもって「説明した」とし、非常に釈然としなままに事(こと)を進めようとしており、多くの市民が何ともいえないストレスを抱えながら留め置かれているのです。

 

そのうえで、これまで この案件について熱心に取り組んでこられた人からは「市(市長)は、こと ことに及んだ中、改めて住民説明会を開くべきではないか。」との声が上げられています。

振り返れば、市(市長)は 遊園地の存廃が決まらない段階(実は もう決まっていたのかしれませんが)においては 住民説明会を開きました。

で、その場では結論を出さず「ご意見を承(うけたまわり)りました。それを踏まえて熟考します。」と言って会を閉じたのです。

実際のハラの中は別にしても。

その後、市長は 多くの市民の期待に背(そむ)く形で「遊園地廃止」を表明しました。

が、そこは本会議場。さきに集会に足を運んでくれた市民を初め、市民に面と向かって意思表示していないのです。

それについては、もしかしたら「市民の代表である議員のみなさんに説明した。」で済まそうとするかもしれませんが、それは話しのスリ変え。あまねく市民に対する説明責任を果たしたとは到底言えないでしょう。

で、このことについて 大手地方紙の記者が取材で、市長に「改めて説明会を開くつもりがあるか」旨の質問をぶつけたところ、氏は「(説明会を開くかどうか)地元区長会と相談する。」と答えていることが掲載されていました。

 

 

 

市(市長)は、ここでもまた「他人(ひと)のせい」にするのでしょうか。

青木島遊園地を 多くの市民の期待に反し、半ば一方的に廃止に追い込んだ市行政。

そのうえ そこに至る経過や理由については 判然としないままに自ら終止符を打ち (前掲のとおり)市民にストレスだけを残して次に進もうとしている姿勢。

ここはやはり、改めて市民に説明責任を果たすべきでありましょう。自らの意思で。

ところが、です。

説明会の開催については「地元区長に相談する。」とは。

もし「市長が廃止を決めたんなら、結論の出たハナシだから説明会はやらんでもヨシ。」と言われたら、それを大義として説明会を開かないつもりでしょうか。

 

さき(2/11)の住民説明会の後、市長は確かに言いました「区長に地域のことを任せ過ぎた」と。

それは、案件について より市が主体的に取り組むべきだったとの〝反省の弁〟と解釈できるところですが、その舌の根も乾かぬうちに「改めての住民説明会は地元区長と相談」とは。

その主体性を欠いた発言は「言ってることとやってることが違う」と言わざるを得ないところです。

 

市(市長)は、どうしてこうも言業不一致・矛盾に満ちた言動を行なうのでしょうか。

ここまでズレると、わざと市民感情を逆撫でするよう振る舞っているんじゃないかと思いたくなってしまうところです。

 

これら 未だボタンの掛け違え状態が続くままでは、この問題は終わったとは到底思えないのであります。