倉野立人のブログです。

日々の思いを、訥々と。

「思いやりの心」を持つべきだよね

2022-12-31 | 日記

去る日、実家のオフクロに頼まれ いつもの買い出しに(実家の)近所のスーパーに出向いたときのこと。

電話で聞き取ったメモを見ながら「え~と…塩ザケに豆腐、天ぷら粉にタマゴ…」と ひと亘りの買い物を終えてレジに並びました。

私の前にいるのは 妙齢のご夫婦で、カートから降ろした商品カゴを「ドスン!」とレジ台に置きます。

その勢い?に 私はややビックリしましたが、レジを預かる店員さんは 笑顔で「いらっしゃいませ。」と応じていました。

商品をスキャンする前に 店員さんは「〇〇カード(このスーパーの会員カード)はお持ちですか?」と聞いたのですが、その(笑顔の)問いに 旦那の方が「無い」と ぶっきら棒に一言。

それに対しても店員さんは「失礼いたしました。」と笑顔で応じていました(店員さん側に何の非も無いのに「失礼いたしました」です)。

そうこうしているうち(レジを打つうち)今度は 女房の方が「あ、レジ袋つけて。」と いきなりの一言。

それも、分かりますかね…私流に言うと〝アゴで物を言う感じ〟アゴ上げながら「レジ袋つけて」との一言。

それに対し店員さん「袋にはサイズがございます。Sサイズ・Mサイズ…」と言いかけると、その説明を折るように「L!」と 件(くだん)の女房は イラついたように言葉を吐き出したのでした。

このやり取りを見ていた私…こっちの方が腹が立ってきました。

この夫婦モンは 70才代でしょうか、それに応じるレジの店員さんは どう見ても20才そこそこ、何というか 親子・ひょっとしたら孫にあたるような年齢差のように見受けられるところでした。

そんな 親が子に接するようなシチュエーションの中なのに、この夫婦モンの不躾(ぶしつけ)で不遜(ふそん)な態度は何なのでしょう。

もしかしたら、自分の子供が社会で働く中で(接客などで)辛い思いをしてるんじゃないかなどと思いを及ぼせば、こんな年端の子(店員さん)に こんな態度は取れないハズです。

が、それは人それぞれの社会環境もあることから 私のそれ(ハラ立って思ったこと)は 単なる思い込みに過ぎないところではありますが…。 

その後 この二人は、会計が終わって「ありがとうございました。またお越しください。」の店員さんの呼びかけも〝ガン無視〟し、揃ってサンダルをズルズルいわせながら去っていったのでした。

で…そんな対応をされた店員さんでしたが、私の番になると 何ごとも無かったような笑顔で「いらっしゃいませ!」と 向き合ってくれ、その健気(けなげ)な様子に「メゲずに頑張って!」と心の中でエールを送ったものでした。

 

こんな レジでの(客の)高慢な態度…これは この場だけではないことが言われています。facebookのサイトでは「レジ業務あるある」が紹介されていました。

この投稿者さんは「お客の中では、ヤンキーなお兄さんより 団塊のオッサンの方がよっぽどタチが悪い。」とのこと。これは 私が見た事例に符合しますよね。

 

 

 

また、お客みんなに言いたい苦言も。

「態度悪い客があまりに多い。日本人が礼儀正しいのがウソだって 接客してるとよく分かる。もう義務教育で 人との接し方を学ばせないとヤバいと思う。」とまで吐露していました。

 

 

 

さらには 前掲の「レジ袋」関連で、こんな記事も。

妙齢の客のぶしつけな態度に、やはり妙齢の店員さんが正論で切り返す様子が伝えられていました。

そのとおりだよね。

 

 

 

 

謙譲と謙遜の民族と言われる日本人ですが、現状は決して芳(かんば)しいとは言えないようです。

考えてみれば これまでの日本の歴史の中では「士農工商」なる身分格差や 男尊女卑の意識など、いわゆる差別を助長する思考が定着していました。

そこへきての「お客様は神様」的な〝〇〇絶対論〟が日々エスカレートし「オレはお客様だ。文句あるか。」との傍若無人な振る舞い(今でいう カスタマーハラスメント)は 目に余るものがあります。

で このことは、このレジ対応に限らず、例えば煽(あお)り運転などの 悪しき社会現象でも顕著になっており、年の瀬に際し 由々しき思いを新たにさせられるところです。

 

どうかみんな「思いやりの心」を持ってほしい。

何らかの事象に接したとき、もし 自分が相手の立場だったらどう思うか。それに思いを寄せるだけで、ぶしつけな態度や暴言は鳴りを潜めてくれることでしょう。

何かと世知辛く、暗いニュースが多い今だからこそ、せめて人と人は温かい関係の中で時間を過ごしてほしい…年の瀬を迎えるに際し、心から思うところです。

 


「歳末警戒」に思う

2022-12-30 | 日記

年の瀬に際し、長野市消防団で 28日から30日にかけて、暮れの社会安全を期して 歳末警戒活動を行なっています。

この日(29日)は「本部巡視」として、所轄の消防局長・警察署長・市消防団幹部による 各分団へ激励のための巡回が行なわれ、夜気の中に団員が整列、激励のための訓示を受けました。

 

 

 

もとより消防団は、生業をもちながら ムラの社会安全維持の担い手として 火災・風水害等の「災害防御」や、火災を出させないための「予防消防」を行なうなどして、地域防災上 重要な役割を果たしていただいております。

特に 年末を控えたこの時期は、社会全体が慌ただしい中にあって 不測の事態が起こらないように警戒活動を行なってくださり、その不断の取り組みのおかげさまで 私たちは安心して年の瀬を迎えることができるところです。

 

社会は未だ〝コロナ禍〟の最中(さなか)にあり、消防団活動も さまざまな面でリスクを負うことになってしまっていますが、そんな逆境にも負けず 各団員さんらは「地域の安全は地域の者が守る」との崇高かつ強い意気をもって諸活動に挺身しておられるのです。

 

(火災現場での補助(支援)活動)

 

 

彼らの存在と その活動は、地域住民の社会安全を確実に守ってくれているのです。

各消防団(分団)においては、地勢や人口動態など取り巻く社会環境に差異はあれど「住民生活の安心・安全を守る」という点では共通しているところであり、これからも かかる崇高な意義を胸に活躍してもらいたいと 大きく期待するところです。

 

 

 

・・・・・・。

かかる崇高な使命を帯びた消防団活動ですが 一方で、世の中が どんどん世知辛くなる中、やれ半鐘(はんしょう)や拍子木(ひょうしぎ)の音がうるさいだの、積載車(消防車両)の赤灯が眩しいだのと 心無い声が寄せられ、消防活動も 何というか〝自粛ムード〟となってしまっていることが伝えられています。

このことは 消防団活動に止(とど)まらず、取り分けて市民の生命を守る救急車のサイレンに対しても「うるさい!」との いわば心無い声が投げかけられていることも知る中で、それらの情報に触れる毎(ごと)に 何とも残念な思いにさせられます。

 

 

 

 

で…ここのところ、いわゆる〝騒音トラブル〟が 非常に増えていると感じさせられています。

で 私は、そのトラブルの原因である「音」が、どのような形(根拠)で発せられているのかが いわば〝事(こと)の善し悪しの分岐点〟になっているのではないかと考えます。

①先ずNGなのが「故意に発生される音(=騒音)」でしょう。これは論外。

②それに対比されるのが「やむを得ない音」これは(前掲の)救急車のサイレンや、歳末警戒の半鐘など 「音」自体が 市民の安心安全を守ったり 緊急事態を凌(しの)ぐ手段となっているもの。これは〝音を聞く側〟が それ(音)を受容すべきものと思います。

③あと 微妙なのが、(私流にいうと)「未必の音」これは悪意をもって発するものではありませんが、うるさいと思われても仕方が無いと思いながら発する音…例えば ご近所同士の会話や家事などで出る生活音・(そして 話題となっている)公園や庭での子どもの歓声などが該当するところでありましょう。

そのうえで最近は、②と③の音を受容できる 社会(近隣住民)のボーダーライン(臨界点)が下がってきている(=ちょっとした音に過敏に反応する)のではないかと 併せ感じるところです。

そこに、現下の いわば〝主張する社会傾向〟が手伝い、やや過敏な〝音への苦情〟が増えているのではないでしょうか。

 

いずれにしても 故意では無い音に関しては、どうにか受容してもらえないものかと しみじみ思うところです。が、その(音への)ストレスは当事者にしか分からないものですが、そこ(受容の要件)に「(消防団活動のような)社会的意義」を加味していただき 受容のボーダーラインを上げてもらえれば、昨今のようなトラブルは減るのではないか、もっといえば 聞こえる音を受容する意識と、それ(うるさいと思う気持ち)を心の中で溶解する「寛容の精神」を発揚してほしいと重ねて思うのです。

 

いずれにしても、消防団活動は 地域の社会安全の維持に欠かすことはできない。これだけは 私の立場でも確信をもって言わせてもらうところです。

 


ちょっと違うんじゃないか? 移住する世帯の子に100万円

2022-12-29 | 日記

夜のニュースで、政府(総理官邸)が「東京圏から地方に移住する世帯について、18歳未満の子どもを帯同した場合の「移住支援金」の加算を 現在の子1人当たり最大30万円から100万円に引き上げる」との方針を決めたことが報じられました。

このニュースに触れた私は「ちょっと違うんじゃないか?」と 違和感を禁じ得ませんでした。

 

 

 

 

これは、少子化が進む地方の現状に配慮した「地方創生移住支援事業」の一環とのこと。

移住世帯への 教育費など経済的な負担を軽減し、地方への人の流れを強化したい考え。東京23区に住んでいるか 東京圏(東京・埼玉・千葉・神奈川の4都県)から23区に通勤している人を対象とし、地方や条件不利地域に移住した場合 一定の条件に基づき都道府県と市町村が共同で支援金を給付するもので、国も自治体に補助するものです。

現在、1300弱の市町村で事業が実施されており、(現在は)1世帯が移住する場合 約100万円の支援金に加え、帯同する子ども1人当たり最大30万円の支援金が支給されています。

このうち 子ども1人あたりの加算金が100万円に引き上げられることで、1世帯あたりの支援金は200万円以上に引き上げられることになります。

 

 

 

(繰り返しますが)これを聞いた瞬間「ちょっと違うんじゃないの?」と思った私。

これって、私だけが抱いた感想でしょうか。

 

確かに、未だ わが国は〝東京一極集中〟の傾向が止まず、東京へ東京へと人が流出する中、地方に暮らす いわゆる現役世代の人口は減り、それに伴い地方の高齢化が伸張しているところです。この状況への対応・対策は喫緊の課題であることは共通認識とするところです。

ところが、その対処療法として「移住するなら200万」とニンジンをぶら下げる〝施(ほどこ)し策〟、果たして真の地方創生につながるのでしょうか。

 

類(たぐい)はやや異なりますが、今回の支援金事業に 私は、かつて行なわれた「アベノマスク」のバラマキ事業が思い起こされました。

この、いかにも霞ヶ関の官僚が考え出したバラマキ事業は、多くの国民の意識を何ら配慮することなく〝施す側〟の自己満足のままに(使いもしない)マスクがバラ撒(ま)かれ、結果 税金の無駄使いとなったものでした。

コロナ禍が蔓延する中、さまざまな対策が講じられるも その殆(ほとん)どが決め手を欠く中、ある日 行なわれた国会(予算委員会)の答弁で、安倍総理(当時)の口から発せられたのが「国民ひとりひとりに 布製マスクを配布します。」との答弁。

それを聞いた瞬間、その場にいた国会議員のみならず テレビ等で視聴した多くの国民が、驚きと そして落胆に覆われたものでした。

コロナ対策に布マスク…究極の場当たり対処療法じゃないか、と。

 

今回の「移住支援金100万円」も、物事の本質を見極め 抜本的な対策を行なうのではなく、どこか場当たり的・対処療法的な対応である感が否めない。

今も (国による)地方創生政策が行なわれているのは承知していますが、今回の支援金100万円があまりに突出した感…やはり〝バラマキ感〟は否めないところです。

真に地方に人を呼び込む・首都圏に暮らす人(世帯)に地方暮らしを促そうというのなら、先ずは地方の経済活性化・地方の産業力の強化などの経済対策や 地方の公共交通維持促進などの地方社会インフラ整備を行ない いわゆる受け皿を整えること、そのことで 人は自然と地方回帰に動くところですが、その具体的対策が見えないままに「カネをやるから地方に行け」的な考え方には 違和感を禁じ得ません。

さらに言えば、東京→地方移住の支援金は いわば〝片道キップ〟です。

問題は、(地方に)行ってからの日常生活です。田舎に行った後にも豊かな社会生活を送れる環境こそが整備される本質であり、それを無しに「とにかく田舎へ」と促すことは ある意味リスキーな面が多いのではないか。

そして 何いう、その資金元は国民から広く徴収した税金であり、それを この手のバラマキ事業に支弁することには、人によっては反発を招くことにもなるでしょう。

 

今回の支援事業に際し、ネットのコメント欄には やはり違和感を感じるとのコメントが寄せられています。

「政府の金の使い方は、昔の親分の仕切りのようで どこか「施(ほどこ)してやる」という匂いがする。地方経済の活性化など根本的なことをせず、手っ取り早く金で歓心を買おうとしているように見える。 税金はあなたの物ではないのだから もっと丁寧に検討して使わなくてはならない。」

地方支援と言ってお金を渡すのは簡単だけど、一番大事なのはいかに地方で暮らし続けられるかだと思う。そのためには、地方での雇用の確保や いかに地方で仕事が見つけられるかということだと思う。人も金も首都圏にばかり集めるのではなく、地方にも流れるような仕組みを国民皆で考える環境をつくることこそが国の責務だと思う。」

「地方の人口減少対策は長年学術的な研究に基づかない安易な政策を繰り返して、結果として幾多の失敗を重ねてきた経緯があります。 子供1人あたり100万円を配ったら問題は解決できるのか?転居した家庭の子供は、転居後に転居前と同じ程度の将来の可能性への機会を享受することができるのか?支援金を受け取っている間だけの移住で終わる可能性はないのか?多くの課題が未解決です。」

「政治ができることの一つは富の分配であるといわれますが、支援金や補助金で解決できる問題かどうかをまず判断しなければなりません。岸田首相の政策の特徴は、何も考えないで すぐに金を配って解決しようとするところにあります。 地方の生活環境や就労環境の問題解決は別のアプローチが必要です。」

 

 

我が国の焦眉の課題でもある 人口の一極集中傾向。

それを抜本的に解決するのは「支援金の増額」だけでは無いハズです。

 

 


第34回 女子全国高等学校駅伝競走大会で長野東高校が初優勝 !!

2022-12-26 | 日記

25日(日)、京都は都大路で開催された「第34回 女子全国高等学校駅伝競走大会」で、長野県代表の 長野県長野東高等学校陸上部女子駅伝班が、全員がベストの走りで それぞれが役割を果たし、みごと初優勝を飾りました。

 

 

 

 

未だ収束をみないコロナ禍など、なかなか明るい話題に恵まれていない地域にとって 一筋の光明ともなるビッグニュースとなりました。

これまでも触れていますが、長野東高校は 私の出身校でもあり、そういう点でも二重三重の喜びとなったところです。

 

長野東高陸上部の女子駅伝班は、前任の玉城監督(現 日体大監督)が就任以来 16年連続で長野県代表として都大路を駆け抜けています。

この間 何度か入賞を果たし、特に第29回・30回大会では連続して準優勝に食い込むなど健闘を重ねており いわば「都大路常連校」として定着していますが、大会ごとに その順位は上がったり下がったりで、いわば駅伝の難しさを実感しながら推移してきたものでした。

 

 

 

その後、玉城監督が日体大監督になられた後を任された横打(よこうち)監督は、いわゆる〝玉城イズム〟を継承しつつ、長野東ならではのトレーニングを重ねてこられたのでした。

 

そして臨んだ今大会。

横打監督は、エースで3年生の村岡選手をアンカー(第5区)に配置する作戦を策し、いわば勝負を賭け、結果として それが見事に当たった形で初優勝をつかむこととなりました。

今大会では、優勝候補に挙げられていたチームが 軒並みエースを最長区の1区に起用、序盤から主導権を握ろうとする作戦で臨んでいました。

これに対して長野東の横打監督は、エースの村岡選手を敢えてアンカー(5区)に配置する作戦を執りました。

その背景には、選手の個性を十分に把握した監督の洞察力と 監督⇔選手との信頼関係が欠かせません。

横打監督は、村岡選手は一斉スタートで集団に揉まれる展開よりも 終盤に1対1となる展開でこそ実力を発揮するという(選手の)特性を見極め、敢えての形で(村岡選手を)アンカーに配置したそうです。

そのうえで横打監督は、そんな思い切った作戦でチャレンジすることを(メンバー配置により)他の選手に伝え、チーム全体として奮起を促すよう計(はか)ったとのことです。

 

そして、そんな監督の「思い」に 選手は見事に応えたのでした。

「エース村岡を5区に」この起用はチーム全体に刺激を与え、村岡選手に代わって1区を任された2年生の名和選手は「自分が結果を残すことが必要だと考えていた」と 各チームのエースに食らいつき、トップと6秒差の4位と好走しました。

その後も選手全員が区間上位の安定した走りを見せ、アンカーにつなぐ4区では 3年生の佐藤選手が区間賞の走りでトップと13秒差と逆転を狙える位置でアンカーの村岡選手に襷(たすき)をつなぎました。

 

 

 

ゴール後のインタビューで村岡選手は「トップとの差が思ったより近くて想像以上だった」と驚くほど。そして、期待どおり 得意とする1対1のレースで力を発揮したのです。

トップと13秒差で襷(たすき)を受けたアンカー村岡選手は、残り2km余りで先頭を走る仙台育英を捉え 一気に抜き去ります。

 

 

 

その後はリードを広げ、トラックに戻った彼女は笑顔でゴールテープを切ります。

 

 

 

1時間7分37秒の好タイム、チーム一丸となった走りで初優勝を果たしたのでした。

 

 

 

 

初優勝を演出した横打監督は「本当にすごい子どもたちです。思い描いていたレース展開となり成果が表れて良かったです。」とレースを振り返りました。

その上で監督の次の言葉は「長野の地域の方々に支えられて活動することができているので、恩返しすることができてよかった。」と語り、地域との結びつきを強調されていました。

アンカーとして逆転の立役者となった エースで3年の村岡選手も「自分でもびっくりしています。たくさんの方の支えがあったからこそ優勝をつかみとることができました。」と話し、監督・選手が共に〝地域とのつながり〟を吐露しておられました。

 

これまでも触れていますが、全国に数多の強豪校がいる中 長野東高ほど地域とのふれあいを深め、地域住民に愛されているチームは無いのではないかと強く思います。

長野東高は、決して恵まれた環境で練習を重ねているのではありません。

遡(さかのぼ)ること平成17年、地元住民の強い要望を受け私が仲立ちとなって 犀川の河川敷の「アカシアの杜」なるマレットゴルフ場を地域の方々の手造り・手弁当で造成した際、その隣りに やはり手造りのサーキットコースを設(しつら)えたのです。

 

 

 

その際には 所管の国交省千曲川河川事務所と交渉役を担い、非常に厳しい制約をかいくぐって みんなの力でマレットゴルフ場&サーキットトレーニングコースの併設を実現したのでした。

そんな造成を巡る苦労を知る(前任の)玉城監督は「地域への感謝」を前面に掲げ、ただ単に速さを求めるのではなく「地域への貢献と共生」を指導の基本に据えて歩んでこられました。

その(監督の)意(い)を正しく理解した歴代の部員たちは、ただ速いだけではない 礼節にも秀で、地域貢献の気持ちを深めながら 手造りコースで走り込みを重ねてきたのです。

 

 

 

「ただ速いだけではない」彼女らは、隣接するマレットゴルフ場で清掃・整備作業が行なわれる際には 自発的・積極的に作業に参加してくれます。

 

2019年12月のブログ記事一覧-倉野立人のブログです。

 

 

そのうえ、彼女らが下宿する地区(若葉町区)の住民運動会の折には〝補助員〟をかって出てくれ、地域の行事のサポート役も担ってくれているのです。

 

2019年12月のブログ記事一覧-倉野立人のブログです。

 

 

これは、前任の玉城監督の「地元の方々に感謝の念を」との教えが身についていることの証左であり、そんな親しみやすい側面を有した彼女らは まさに地域の愛娘として、家族の如くの親愛をもって挙げて応援されているのです。

 

 

初の全国制覇を果たし 一躍を成した長野東高女子駅伝班でしたが、大会が終わり帰長 学校への報告を終えた後に、まっ先に向かったのは 地元住民の方々が待ち受ける犀川河川敷の練習コースでした。

愛娘たちが成し遂げた快挙を心から喜んだ〝地元のおとうさん・おかあさん〟たちは、選手の凱旋を祝わんと 寒さの進む河川敷コースに集まり、心から歓待しておられました。

お祝いの言葉を贈る 地元後援会長のSさんも感極まった様子で、それはまさに子を思う親御さんの心境そのものと拝察されたところです。

 

 

 

選手らも まるで実家に帰ったような笑顔を浮かべ〝育ての親〟の方々を前に、感謝の思いが結果につながった感慨を胸に優勝報告を行なっていました。

 

 

 

その後は、地元のおとうさん・おかあさんと優勝の喜びを分かち合うひとときが。

普段から選手の面倒をみているじいちゃんが、柄に合わない(失礼)花束を贈ると、愛娘らは驚くやら喜ぶやら。

 

 

 

そこここで、テレビで手に汗握って応援した様子を話す人、それを笑顔で聞く選手らと話しの花が咲いていました。

みんな一様に、笑顔・笑顔です。

 

 

 

愛娘らからは 祝意の御礼にと、心ばかりのプレゼントのお菓子が贈られます。

「口に入れるのがもったいない。」と、うやうやしく?受け取っておられました。

 

 

 

地元に根ざし、地元のみなさんと歩み(この場合は〝走り〟ですか)続けてきた長野東高陸上部女子駅伝班は、十数年の歴史を経て全国の頂点に立ちました。

しかし彼女らは、何ら奢(おご)ることなく 謙虚な姿勢をそのままに、これからも走り続ける決意を新たにしています。

訊けば、新年早々には「都道府県対抗駅伝」への出場が内定(高校生ランナーの部)しており その次なるレースに備えて直ちに練習が再開されるとのこと。

「勝って兜の緒を締めよ」を地でいく好姿勢でありましょう。

 

大会翌日のこの日、地元に帰った選手らは、つかの間 地元の方々と優勝の喜びに浸ることができました。

そして、彼女らは 再び走り始めるのです。

都大路の優勝は単なる通過点、彼女らには もっと大きな可能性と未来が待っているのです。

しかし それとて一朝一夕に得られたものではありません。

一歩一歩のラン・その通底にある感謝の心…その地道な積み重ねこそが、真の成果となって 彼女らの人生の糧(かて)となってくれることを確信いたすところです。

私たち周囲の者は、彼女らの不断の努力に元気をもらい 一層のエールを送る。そのことで「よーし、オレたちもガンバろう!」との意気を覚えるところです。

 

 

 

これからも更なる飛躍を!彼女らの可能性に大きく期待するところです。

 

 

 

ところで、今や「名物」ともなっている 犀川河川敷の練習コースに掲げられている横断幕。

 

 

 

これは、地元(若葉町)で看板業を営むKさんの〝即興横断幕〟なのです。

東高の活躍に合わせて タイムリー(=即座)に掲げてくださり、今回の全国制覇の際にも その日の午後には大きく掲示されていたのでした。

 

 

 

何というか、それは 一筆書きのよう。一発勝負でダイナミックに描かれており、その筆さばきに地元住民の(応援の)熱意のようなものが力強く体現されているのです。

大会翌日の〝ミニ祝賀会〟でも、会場を唯一飾るバックグラウンドとなっていました。

 

 

 

さまざまな立場での応援団の存在。

それらが見事に織(お)り合っての大成果だったと 改めて実感したところでした。

 

 

 

 


口(くち)は〇〇の元

2022-12-25 | 日記

こないだの夜、数日前から何ともいえない違和感があった 口腔内の右下の奥歯付近が急に痛み出し、我慢ならない状態になってしまいました。

何だか その部分の頬もむくんでおり、プチ瘤(こぶ)取りじいさん状態に。

ただ時間も時間だけに いかんともし難く、取りあえず市販の鎮痛剤を飲み そのまま一夜を凌(しの)ぎ、翌日はたまたま歯科医の予約日だったことから 事情を話してそこも診てもらうこととなりました。

歯科医「あ~腫(は)れた後がありますね。」

ワタシ「痛かったんですよ。ここんとこ寝不足だったんで、それが影響したのかなぁ…」

歯科医「でもクラノさん、痛かったのは歯じゃなくて「歯ぐき」ですよ。」

ワタシ「え?」

歯科医「今回 腫れたのは、奥歯のそのまた奥にある「歯ぐき」。こりゃ歯周病の前兆ですナ。」

 

歯科医によると、私の右奥歯の最奥部は(私は忘れてますが)かなり以前に抜歯してあるとのこと。で、その抜歯後が凹(くぼ)みになっていて そこが「歯周ポケット」と化しており、そこに雑菌などが溜まり易くなっていたこと等から初期の歯周病が発生し、そこに寝不足などの生活不安定が乗じて「痛み」となって出たようなのです。

今回の私の場合は ややレアケースではあったようですが、いずれにしても 痛みの元は「歯ぐき」でした。

 

歯周病が身体のさまざまな部位に悪影響を及ぼすことは既に知られているところであり、私も意識してはいましたが、このような形で〝具体例〟が自分の身体(口腔)に現れるとは…自分の不摂生を戒(いまし)めると同時に、改めて 歯周病の怖さを再認識しました。

 

診察台で口を開ける私に歯科医さんは「クラノさん、これを契機に「口腔衛生」を見直してください。あなたは仕事柄、忙しさにかまけて歯磨きはチャッチャで済ませているでしょうけど それが先ずいけない。キチンと丁寧に歯磨きを励行することで口腔衛生を保つことができるのです。」

さらに「たかが歯磨きと侮(あなど)っていけません。歯周病は〝万病の元〟でもあるのですから。」と真顔で指南してくださいました。

 

歯磨きをはじめとする口腔ケアは これまではムシ歯予防の手段とされていましたが、最近では ムシ歯予防に加えて「歯周病」の予防手段としても奨励されています。で。その「歯周病」は 歯ぐきの炎症やムシ歯の原因になるだけではなく、全身的な慢性疾患の原因となることも知られてきています。

「歯周病」は それを一言で表すと「細菌の感染が引き起こす 歯の周りの炎症性疾患」だそうです。

例えば 歯磨きを忘れて寝てしまったとき、朝起きた時に口の中に残るネバネバした感触…これが 口腔内に居る「細菌」の集団だそうです。

口腔内には 約300~500種類もの細菌が「住んでいる」そうで、その細菌群は 口腔内に残る食物残渣(しょくもつざんさ)や糖分をエサに増殖し、やがてそれは歯根にこびり付く「歯垢(プラーク)」となります。

この歯垢には 1㎎中に10億個もの細菌が住んでいるといわれており、これが歯周病やむし歯の原因となるそうです。

歯垢は固くなると「歯石」となり、それが歯と歯ぐきの境目に割り込んで「歯周ポケット」を生じさせ、それが歯の土台でもある歯ぐきを退行させ やがて歯を支えている骨(歯槽骨)を溶かし、最終的には歯そのものを奪うことになってしまいます。

 

 

で さらに恐ろしいのが「歯周病」が、人の全身の健康(全身疾患)・もっといえば生命にまで悪影響を及ぼす原因にもなっていることでしょう。

歯周病の元となっている「歯周病菌」は、さまざまなキッカケにより 血管から全身へと入りこんだり、口腔から気管を通って肺に炎症を起こすことがあるそうです。

糖尿病

 重度の歯周病により生じた物質やサイトカイン(細胞から分泌される悪性のタンパク質)が血管から全身を巡り、糖の代謝(インスリンの作用)を妨げ 糖尿病の誘発や悪化を招く

気管支炎・肺炎

 食物残渣や唾液に混じった歯周病菌やサイトカインが、気管支や肺の粘膜で炎症を起こす

▼心臓疾患

 歯周病菌が血管を通じて心臓へ入り込み、心臓の弁や内膜などで炎症を起こしたり 心臓に酸素や栄養を送る血管にこびりついてアテローム(脂肪状の塊)を作り 血管を狭くする

▼脳卒中・狭心症・心筋梗塞

 歯周病菌が血管に入り込んで全身を巡り 血管の内壁に固着し、アテロームを作って血管を狭くしたり 血管そのものを傷つけて動脈硬化を進行させる

 

さらに最近では、歯周病は 認知症の要因にもなっていることが判ってきているそうなのです。

 

 

 

 

ヒトは、生きるために 口からさまざまな飲食物を摂取し、それを糧(かて)に生命を維持しているところですが、反面、口腔衛生を怠(おこた)ることで かえって寿命を縮めることになるとは…それ(疾病)を未然に防ぐためにも「たかが歯磨き されど歯磨き」の意識で 歯磨き作業にシッカリと臨まなければなりません。

そんな厳しい状況を改めて聞くと 歯ブラシを持つ手にもつい力が入ってしまうところですが、件(くだん)の歯科医さん「かといって、力いっぱいガシガシ(歯を)磨くのは逆効果です。」とたしなめてくださいます。

「歯ブラシに力を入れ過ぎると 肝心の歯ブラシの穂先が歯と歯ぐきの間に入り込めず、歯垢の除去=周病予防につながらないのです。あくまで優しく バイブレーターのように小刻みに歯ブラシを動かすことをお勧めします。」とのことでありました。

 

歯科医さんのおっしゃるとおり、忙しさを言い訳に歯磨き行為を疎(おろそ)かにすることは〝天に唾する〟が如く、いずれ自分が重大疾患に陥る要因を自らつくりあげることにもつながることから、これからは できる限り丁寧に歯磨きしなければ と自戒したところです。

 

 

ところで、診察を終えた後 件の歯科医さん「〝口は万病の元〟であることを分かってくださったと思います。もっとも クラノさんの場合、職業柄「口は災いの元」であることもお忘れなく。」と、笑って私を送り出してくださったのでした。

 

 


公立の小中学生8.8%に発達障害の可能性…かつての「障害」が障害でなくなりつつある

2022-12-23 | 日記

さきの新聞(12/14付 信濃毎日新聞)で『公立の小中学生8.8%に「発達障害」の可能性』の記事が載り、現代社会の実態を見た感がしました。

 

 

 

 

記事によると、文部科学省の調査で 通常学級に通う公立小中学校の児童生徒の8,8%に何らかの発達障害の可能性があることが明らかになったとのこと。これは 10年前の前回調査から2,3ポイント上昇、35人学級なら1クラスに約3人が読み書き計算や対人関係などに困難があるとみられるそうです。

このうち 約7割が、各学校で特別な教育的支援が必要と判断されていませんでした。

この調査結果に際し 所管の文科省は「特別支援教育の知識がある教員が少なく、適切な支援ができていない可能性がある」としているとのことです。

 

この調査は、今年の年初に 全国の公立小中高校の通常学級に在籍する子ども約9万人を抽出し、学級担任らが 子どもの発達障害を診断するチェックシートに回答したものです(回収率84,6%)。

皆と同じように学校生活を送るものの 学習面や行動面に著しい困難を示す子どもへの支援を検討するため▽学習障害(LD)▽注意欠陥多動性障害(ADHD)▽高機能自閉症 の3つについて評価したとのことです(医師の診断や 専門家チームの判断によるものではないとのこと)。

で、この3つのうち いずれかに該当する小中学生が8,8%に上(のぼ)りました。

質問項目などが異なるため単純比較はできないものの、初調査の2002年(6,3%)と 前回調査の12年(6,5%)より比率が上がっていることが判ります。

一方で文科省は「保護者や教員の間で発達障害そのものへの理解が深まり、以前は『落ち着きがない子』と見過ごしてきたようなケースを発達障害として認知するようになったことも一因」と分析しています。

調査に関わった有識者会議座長の東洋大 宮崎名誉教授(全国特別支援教育推進連盟理事長)は「学校全体で支援の取り組みを進める必要があるが、校内委員会等の(校内での)検討機関の設置がなされていなかったり(委員会が)形骸化している学校が多い現状がある。また 外部に教員が(支援を)相談しやすい体制づくりも必要だ」としています。

 

この、発達障がい児童増加傾向には 特別支援教育に精通した教員が不足している実態があること、また、学校長の7割以上が 特別支援教育に携わった経験がないまま学校運営を担っていることから、学校長自体が発達障がい支援に疎(うと)く そのために支援体制が進まないままでいる学校も少なからずあることが、支援の遅れにつながっているとも申せます。

このため文科省は、今年3月に 都道府県教委などへ、新規採用教員が10年以内に特別支援学級の担任などを複数年経験し 管理職登用の際にも経験を考慮するよう求めたとされていました。

今回の調査結果から、全国に発達障害の可能性がある小中学生は約80万人と推定され、その数字は今後も増え続けるだろうといわれています。

この 発達障害について、国や自治体をはじめ関係機関が抜本的な取り組みを強めることが求められている と記事は結んでいました。

 

 

この記事に触れ 私は、小中高校における発達障がいの増加を憂える一方、いずれ社会において 障がい者は、決して特別な存在では無いと認識を改める(≒広げる)時期が来るのではないかと思いました。

ハッキリ言って 今は、障がい者は「特別な存在」であり その支援のためには特別な施設や部屋(学校で言えば特別支援学級)を設けて、いわば〝別枠〟で支援(という名の管理)を行なっています。

しかしそれは いわば支援する側の都合によって設(しつら)えられた制度やシステムであり、決して当事者さんらのためになるものとは限らないものでありましょう。

ただ現有、障がい者さんを いわゆる通常社会に放り込むことには無理があることから、ある程度の特別な社会環境を整備することは必要ではありますが、せめて、せめて関係者の心情に、障がい者さんらを〝別の者〟と思わず 等しく人として向き合い、同じ社会を構成する一員として共生してゆこうとの意識を醸成させるべきと思うところです。

 

折しも 国連においては『障害者の権利に関する条約』が施行され、わが国における障がい者支援(教育)について〝ダメ出し〟された経過もあることから、それらも踏まえ、かかる発達障がい支援についても再考すべき時期にきているのかもしれません。

 

学校などの教育現場においては、クラス内の いわゆる統制の面で(発達障がい児との)共生が難しい面があるのかもしれませんが、この際は いわば垣根を取り除いた中で教育環境の向上を図る…そんな新たな意識が現場には求められていると思います。

また やや課題の類(たぐい)は異なるものの、社会における障がい者さんらに向ける眼差(まなざ)しについても、何も特別な存在と思わず 対等公平に向き合うべきと改めて思いをいたしたところでありました。

 

 


体育館を活用したまちづくりプロジェクト 第6回ミーティング

2022-12-22 | 日記

この日(21日)、「体育館を活用したまちづくりプロジェクト(以下/グループ)」の第6回ミーティングが行なわれ 参加させていただきました。

 

この活動については従前からも触れているところですが、長野市が 市内にある勤労者福祉施設「中部勤労青少年ホーム」にある体育館の廃止を(唐突な形で)打ち出したことに反対する利用者グループの施設存続活動に端を発し、やがて それは単なる(施設存続の)狭義な活動から、市内にある既存の体育館を柔軟かつ多様に活用することで さまざまな面で市民生活をより豊かにできるのではないか、との「提案型」の市民活動に〝成長〟を遂げ、現在も不定期にミーティングを重ねて意見交換を継続しているものです。

 

去る11月21日には、市長に対し 中部勤労者青少年ホーム体育館の存続と「体育館を活用したまちづくり」についての要望書を提出し、グループの いわばポジティブな意見を述べる機会となりました。

それまで長野市は「10年以内に公共施設の2割を削減すべき」との総務省のご託宣に盲従する形で「公共施設マネジメント(施設管理(≒廃止)計画)」をブチ上げ、いわば一方的に(施設廃止を)進めようとしており「中部勤労青少年ホーム体育館」も その〝廃止ターゲット〟の一つでありました。

この(市の)動きに対し 利用者の方は戸惑いと反発を覚え、直ちに同体育館の存続を求めるための行動を興(おこ)したのでしたが、こちらのグループは 単なる陳情団では無く、実にクレバー(賢者)でありました。活動のスタートこそ 施設存続の活動でしたが、そのための議論を進めるうちに 長野市に設置されている体育館の全体(像)について考えることとなりました。

すなわち、これまで長野市が一律に また縦割り行政のままに所管ごとに進めようとしていた〝廃止ありき〟の議論に疑問を唱え、そのうえで 各施設については、(廃止ありきではなく)それぞれの利用頻度や市民ニーズを踏まえ、活用できるもの(施設)は活用し そのこと(活用)により、市民の健康寿命延伸やコミュニティの醸成に資するべきと〝前向き議論〟を行なうようになってきたのです。

すなわち「市内の体育館は 単に(維持費等で)市民負担を強いる〝お荷物施設〟では無く、逆に それを活用することで、市民生活をより向上させるための財産となり得る」というものです。

この〝ポジティブ思考〟に共鳴した 私たち支援議員は、現下の「一方的議論」の温床ともなっている〝行政の縦割りの壁〟を(イイ意味で)除去すべく、その施設を所管する部署のみならず「公共施設マネジメント」全体を所管する総務部をはじめ 横断的に理事者(職員)に声をかけ、市民⇔所管を超えた職員⇔議員 とが 同じテーブルに就いて意見交換を行なう機会を創出し、その場では さまざまな視点から意見交換を行なうことができました。

 

そして これらの経過を経て「情報共有」が為(な)され、それまで一方的かつ頑(かたく)なであった市も柔軟発想に転換、さき(11/21)の市長要望の場で市長の口(くち)からも 先ずは中部勤労者福祉センター体育館の存続が表明され、そのうえで市内の体育館を活用してのまちづくりについて建設的な意見交換が交わされることとなったところです。

 

この「体育館を活用したまちづくりプロジェクト」の活動は、何も体育館に止(とど)まらず 全ての公共施設の活用に当てはまることと思います。

そもそも 行政が施設等の管理運営計画をもって建造(設置)した公共施設(公共物)は、十分に活用され いわば実効ある減価償却を終えたうえで存廃を議論すべきものであり、それが 単に年月が過ぎて古くなったから廃止という論理は、公金を支弁して造ったものの始末としては あまりにも安易で短絡的ではないか。

今回の このグループの活動は、かかる 安易ともいえる行政姿勢を正(ただ)す〝一矢〟ともなり、もしかしたら なし崩し的に進められることになったかもしれない「長野市公共施設マネジメント」に イイ意味でエンジンブレーキをかける大きな成果を生み出すこととなりました。

 

グループは今後も、市の動向を注視し 場面・局面に応じて意見交換し「提案」を行なってゆくことで一致しました。

 

市民の純粋な活動が「山を動かす」こととなりました。

今後の行政との向き合い方のお手本ともなった〝まちづくりプロジェクト〟私の立場でも これからも「伴走型」として支援してまいります。

 

 

 


長野市議会 令和4年12月定例会が閉会

2022-12-17 | 日記

12月1日に招集された、長野市議会 令和4年12月定例会は、この日(19日)最終日(採決日)を迎え、総額21億8,500万円の 今年度一般会計補正予算案・条例・人事案など45議案を可決・同意して議了となりました。

 

 

 

 

この間 11月専決補正として、住民税非課税世帯への支援(1世帯5万円)・住民税所得割非課税世帯への支援(1世帯3万円)、さらに12月補正では 原油価格高騰に伴う値上げ傾向にある光熱費や電気代への支援として、行政連絡区に対する「防犯灯維持管理軽減事業」・社会福祉施設に対する「社会福祉施設価格高騰対策支援事業」・福祉移送サービスに対する支援「地域たすけあい事業燃料費支援事業」・私立保育所に対する支援「保育施設価格高騰対策支援事業」・建設/製造/運送業に対する「建設・製造・運送業対象原油価格高騰対策特別支援事業」など、コロナ禍に追い打ちをかけるようにやってきた 燃料費等への対応(支援)が予算計上されました。

 

 

で…これとは別に この議会(期間中)には、長野市内にある「青木島遊園地」について、近隣住民から公園を利用する児童等への苦情に対する対応等を巡り 積年に亘り課題が積み上がったことが謂(い)わば臨界点を迎え、同公園の廃止が打ち出されたことが大きく問題視され 全国版の報道機関にまで取り上げられる事態となってしまいました。

 

 

 

 

また、所属する「福祉環境委員会」において 私の方から、市民からの情報を基に 知的障がい者支援施設に(国や市の補助金を得て)設置された装置が未稼働であること、それは即ち かかる施設を有する知的障がい者支援団体の体質自体が大きな問題であることを強く指摘したところです。

 

 

 

 

・・・・・・。

かくいう私は、一連の社会問題に触れ そこに関わる者たちの〝共通点〟を見た思いがし、その(決してよろしくない)共通点こそが、事態の悪化を招いていると思わざるを得ませんでした。

 

それは、関係者による〝保身〟の動きです。

事/こと(問題)が生じたときに、その解決に向けては 先ずは全体のことを慮(おもんばか)り、ときに自己犠牲の精神をもち 誠意をもって(解決に)臨めば、周辺の理解や合意が得られて事態が進むのではなかったか。

しかし 概して現下の(問題ある)状況については、関係者が 自分の身を守る行動(保身)に走った(優先した)がゆえに それぞれの認識の違い(ボタンのかけ違い)が生じ、それが時間が経(た)てば経つほど のっぴきならない膠着状況に陥る要因をなってしまったのではないかと(遺憾に)思ったところです。

 

この〝保身〟をもって為(な)される(特に組織内での)関係者の行動による事態の悪化は、この議会で話題となったこと(公園問題や施設の装置問題)に止(とど)まらず 社会のいたるところで散見(遍在)していることが感じ取られます。

それら関係者が、多少なりとも「利他(他者優先)」の意識をもってくれてさえいれば、たとえ問題が発生したとしても せめて最悪の事態は避けた中で解決に向け(事態が)進むのに、とつくづく思います。

特に昨今は 少子高齢化・多様化社会といわれ、今までのように「自分さえ良ければ」という感性で事(こと)に臨んでも、決して望ましい結果につながらないことが往々にして言えると思います。

そのような中であるからこそ (私も含めて)利他の精神で事(こと)に臨んでゆきたい。

議会を経るごとに さまざまなことを学ぶところですが、この議会は特に 社会におけるそれぞれの持つべき矜持のようなものを学んだ感しきりでありました。

 


いつのまに?「敵基地攻撃能力」や「防衛増税」の怪

2022-12-17 | 日記

12月中盤を過ぎての新聞紙面に踊る記事に面食らっています。戸惑いを覚えるほどです。

そして その感覚は、おそらく私だけではないでしょう。

政府(内閣)が「安保3文書(国家安全保障戦略・国家防衛戦略・防衛力整備計画)を実質見直し、その中に「敵基地攻撃能力(反撃能力)」を加え、そのための防衛費について 来年度から5年間で総額43兆円規模に拡大すること、そして その財源について、年間4兆円規模の安定した財源を確保するために うち1兆円強を「増税(法人税・たばこ税・所得税)でまかなうことを閣議決定→与党の了承を済ませてしまったというのです。

この いわばアッという間の事(こと)の運びは、新聞やメディアを通じて連日に亘り報道されていますが、いわば なし崩し的に方向づけられてゆく防衛を巡る転換には、異常さすら感じさせられるところです。

 

 

 

 

岸田首相は 与党の役員会で「防衛力の抜本強化は安全保障政策の大転換で、時代を画するものだ。責任ある財源を考えるべきで、今を生きる国民が自らの責任としてその重みを背負って対応すべきものだ」さらに、防衛費増額を巡る増税について「現下の経済状況などを踏まえて2027年度に向けて複数年かけて実施する。安定した財源が不可欠だが「国債で」というのは未来の世代に対する責任として取り得ない。(増税は)未来の世代に対する私たち世代の責任でもある。」と理解を求たとのことです。

この発言を読み解くと「防衛力の強化は安全保障政策の大転換だから国民が負担しなければならない。」との主旨に受け取れますが、この理屈は〝順番が違う〟と言わざるを得ません。

財源の議論をする前に、大転換しようとする「防衛力の強化」もっと言えば国家の安全保障について時間をかけてキチンと議論した上で財源論に入るべきではないでしょうか。

この理屈は「オレ(ら)が中身を決めたんだから、カネはみんなの割り勘で工面しろ。」との一方通行の理論に他ならない。しかも その内容は、さきの大戦で多くの国民的犠牲を払ったうえで構築された平和国家ニッポンの歴史を いとも簡単に曲げる政策であり、こんな僅かな期間で決められる話しでは決してないハズであります。

 

そもそも、ついこないだまで通常国会が開かれていたハズですが 確かその場(国会)ではこの手の議論は行なわれていなかったのではないか…何だか国会の閉幕を待って出してきた感、後出しジャンケンの典型ではないかとも思わされるところです。

このことについて首相は「プロセス(手続き)に問題は無い」と言い切っているようですが、首相のプロセスとは 双方向の議論ではなく「申し上げてきた」との一方通行の論理であり、片やの国民からすれば とても納得できるプロセスではありません。

 

 

 

 

そのうえで国は、国産ミサイル増産などの 防衛力の中身にまで議論を進めており、これほどの〝獲(と)らぬ狸の皮算用〟的な話しはあったものかと 巷(ちまた)で声が挙げられています。

 

 

 

さらに国は、AI等を駆使した「世論工作研究」に着手したことも報じられており、このことは さきの大戦で マスコミ等が悪しき役割を果たした「戦意高揚」にもつながるのではないかと憂慮されるところでもあります。

 

 

 

 

このことについては 従前にも触れましたが、あたかもウクライナ問題に絡めての どざくさ紛れの議論推進とも取れるほどの拙速さであり、この異常なペースを看過すべきではないと思うのは 私だけではないと思います。

この件について、ネット上では「国民の責任」「防衛費増額巡り」「防衛増税」のワードがトレンド入りし、視聴者からは「勝手に(増税を)言い出して、すり替えて、責任を国民に投げ込んできた」とか「安全保障政策の大転換というなら、選挙で真を問うべきだ」と衆院解散・総選挙を求める声も出たとのこと。

著名人からも批判の声が。漫画家の倉田真由美さんは「あらゆるものが値上がりする今、庶民にさらに血を流せと(いうのか)」と記し、さらに「少々の値上げなんか痛くもかゆくもない専門家や有名人のコメントの多くにリアリティーがない」と指摘しています。

また 元大阪府知事の橋下徹さんは「旧文通費・立法事務費の廃止を含めた抜本的見直しや、政党交付金の政党内部留保の毎年全額返金・企業団体献金の廃止などをやってから国民の責任や!」として、増税より先にやるべき改革があると強調したことが報じられています。

さらに タリーズコーヒージャパン創業者で元参院議員の松田公太さんは「ここ十年だけでも何兆円もの金をドブに捨て、プラスその一部を懐(ふところ)に入れてきた与党の政治家に言われるとイラッとしますが、その政治家を選んできたのも我々国民なので、今は振り上げた拳で自分を殴るしかない。いずれにせよ安易な増税に大反対です」とつづっていました。

 

いずれにしても、こんな重要な案件を ロクな議論もしないで進めるべきではない。

また 与党は、増税については先送りし 1年間の(議論の)余地(時)があると言っていますが、とき既に〝軍拡・増税フレーム〟は「決まったこと」の感、これに対抗するためにも〝腰を据えた国民的議論〟が欠かせないと思うところです。

 


結果としての〝不正受給〟

2022-12-16 | 日記

13日(火)に行なわれた「長野市議会12月定例会 福祉環境委員会」の所管事項調査で私が指摘した、知的障がい者支援団体「長野市社会事業協会(以下/社事協)」傘下の就労支援施設(B型)の『空風』における問題(=施設を整備(2012年)した際に 国や市の補助金を得て設置した「調理用殺菌装置(レトルト食品加工機械)以下/装置」について、装置を設置した直後に僅かな試作作業を行なったものの その後は稼働させることなく放置していた件)が、翌日(14日)の信濃毎日新聞「北信版」に掲載されました。

 

 

 

このこと(紙面掲載)により、長野市社会事業協会の 見込みの甘い事業計画と、公金(税金)による補助を受けながら装置を有効活用してこなかった いわば責任感の希薄さが表(おもて)に出ることとなりました。

これまでは、私の方から現場(空風)に足を運んでの調査に止(とど)まっていましたが、いずれにしても私の立場においては「議事録」の残る場(議会・委員会)で発言したうえで改善を求めることが職責であることから、かかる未稼働状態について質(ただ)したところです。

側聞するところによると、14日に別件議題で社事協の臨時評議員会が開かれ、会議の終時(しゅうじ)に この件(装置の未稼働)について陳謝と再稼働に向け調整中の旨の報告がされたとのことですが、それとて 真(具体的)に改善(再稼働)を示したものとはほど遠い、いわば儀礼的なものであったらしいことから、今後 当該団体がどのような姿勢で問題解決(改善)に当たるのかが注目されるところです。

 

この問題の通底には、行政からの補助金という〝甘い汁〟を得た者(障がい者支援団体等)が それが さしたる汗もかかず申請手続きだけで得た金(補助金=税金)ゆえに、具体的成果も見込めないままに設備投資だけを行なった〝脇の甘さ〟があると申せます。

自分の腹を痛めない資金であるから、ウマくゆかなくても「仕方ないね」で済ませてしまう安易な意識が遍在しており、このことは即ち 補助金(公金)の無駄使いと断罪せざるを得ないところです。

 

一連の動きを踏まえ、かかる案件(長野市の福祉行政・事業への問題提起)に取り組むグループ『Gota』のMくんは、過去に報道された件を回顧し「体質は同じ」と断罪しています。

それは、2年前に報道された「障がい福祉事業者の〝不正給付〟が19年度だけで延べ6億円に上(のぼ)り、過去6年間で30億円を超えた」というものです。

 

 

 

当時の記事によると、障がい者の生活や就労を支援する障害福祉サービスで 運営事業者による国の給付費の不正受給が2019年度に全国で6億円近くに上ることが分かったとのこと。

事業者の指定権限がある都道府県・政令指定都市・中核市計125自治体を対象に実施したもので、回答の中には「行政処分したケース以外にも隠れた不正がある」というものが55%を占めたそうです。

記事は最後に「障がい福祉サービスを巡っては、近年 利益優先でモラルの低い事業者が参入し、不正受給が各地で問題化。職員数や利用者数をごまかすなどの手口で、14年度以降の6年間に30億円を超える。チェックが追い付かず、参入規制や監査強化が求められそうだ。」と結んでいました。

 

このように、記事で露見した「不正受給」は いわば悪意をもって公金をせしめようとした行為であり、これは許されることではありません。

ところが、そのような悪意は無いものの 結果として給付金(公金)を無駄に支弁したとすれば、それは(結果として)不正受給に等しいもの…罰則などの対象にこそならないものの、公金を無駄にしたという愚行という面では〝同罪〟と言えるのではないか。

 

なお、今回の件は (ネタ元=Gota によると)いわば〝氷山の一角〟とのこと。

長野市の福祉行政・事業においては、まだまだ根深い問題が内在しているようです。

かかる状況を踏まえ、私の立場においても 実態の追求と解明・そのうえで、長野市の「福祉」が 真に対象者の社会生活向上に資するものになるよう計らってゆきたいと 思いいたすところです。

 


長野市議会「福祉環境委員会」行政姿勢に課題提起

2022-12-15 | 日記

過日(13日)、開会中の長野市議会12月定例会「福祉環境委員会」が行なわれ、委員の立場で出席しました。

そこ(委員会)での「所管事項調査」において、保健福祉部(所管)における課題や問題について指摘し 今後の取り組みについて意見し、それぞれの課題(問題)における〝共通点〟を再認識しました。

長野市では、現下〝青木島遊園地問題〟が突出している状況ではありますが、他にも看過することができない課題が存現することから この議会(委員会)の場で改めて指摘したところです。

 

◇障がい者福祉施設における問題について

長野市の知的障がい者支援団体「長野市社会事業協会」が有する 知的障がい者のB型就労支援施設『空風』において、装置本体だけで840万円もの補助金を得て設置した食品加工(レトルト食品製造)のための機械(以下/装置)を、施設設置(10年前)以来ほとんど稼働させないままに実質放置していた事実があること、また、市(職員)を初め福祉事業関係者の市民や施設利用者への言動に問題があることについて指摘し 施設・事業協会・長野市の姿勢を厳しく質しました。

 

これらの問題については、かねてより長野市の福祉行政(事業)について問題意識をもつ有識者グループ「Gota」の指摘に基づくものです。

先ず『空風』の〝装置の未稼働問題〟については、多額の公金(税金)を補助金として交付を受けながら それ(補助金)によって設置された装置を活用(稼働)させないままに〝棚ざらし〟にしていたこと、そして、装置の未稼働を いわゆる現場判断で決めたこと・そのこと(未稼働)を理事会や評議員会に報告せず、また 施設の上部機関においても然(さ)したるチェックをせずに状況を放置していたことなど、いわば〝組織ぐるみの怠慢運営〟があったことが指摘されています。

この通底には、いわゆる「補助金事業」に対する関係者の認識の甘さ・たとえ事業が軌道に乗らなくても「仕方が無い」として安易に諦(あきら)めてしまう責任感の欠如があり、さらに そのこと(今回の場合は装置の未稼働)を内部外部問わずチェックせずに放置する組織全体の緩(ゆる)い体制などの根本的な問題(状態)が常態化していることを指摘せざるを得ません。

いわば、放置されていたのは装置だけではなく 組織体制そのものだったのです。

今後は、未稼働である装置の稼働を具体的に計画・実施すること・一連の経過について 改めて理事会や評議員会等の〝公の場〟で議論の俎上に載せ、全体の問題として認識・改善に向けて取り組むことを強く指摘し、その推移を見守ることといたしました。

 

また、長野市の障がい福祉担当の職員対応についても問題があることを指摘しました。

かかる『空風』への長野市の関与について問うたところ「長野市は『空風』に補助金を出していないので口(くち)を出す立場にない。」との回答があったのですが、実際には『空風』の設置に際し5,000万円もの補助金が支弁されており(当該職員の)事実誤認に他なりません。

また 別件で、知的障がい者の人が就労支援について担当課(障害福祉課)に相談したところ それ以前の経過が滞(とどこお)っていたことなどから「自助努力で(就労先を)探すように」と突き放したような対応をされたとのこと、これは障がい者支援の基本を逸脱する言動(げんどう)であり やはり看過できないところです。

このことを指摘したうえで、市(全体)の障がい福祉対応が、公僕としての自覚に欠けていること・全体として情報共有すべきことを現場判断で決め、それを上部機関も看過していること・そのことにより大きな問題がありながら それが表(おもて)に出ることなく〝実質隠蔽〟されていることを意見し、この悪しき認識を正さない限り 長野市の福祉行政・事業の明日は無い旨を併せて指摘しました。

また 昨今、障がい者や児童福祉施設での(職員の)不適切発言や ときに虐待となる事案が多発していますが、長野市においても類似事案が確認されているとのことで、このことについても指摘したうえで 今後(空風等の事案も含め)検証してゆくことを通告しました。

 

 

 

◇「青木島遊園地問題」について、市がハブとなり関係者が同じテーブルに就くことを提案

社会問題にまで発展した「青木島遊園地問題」について、喧々諤々の議論が展開されていますが、さまざまな検証が為(な)される中、どうやら「現場判断=関係者の連携不足」が いわゆる〝ボタンの掛け違え〟の要因になっているのではないかと(私の立場で)分析するところでです。

遊園地は地元自治会の要望で設置された=周辺住民や関係者の同意(総意)無く設置

苦情に対し対応=児童センター・保育園・小学校・担当課(公園緑地課)等、苦情を受けた者が個別に対応し連携が取れていなかった

遊園地の管理運営の齟齬=地元区(青木島区)の判断で推移しており、上部の更北区(住民自治協議会)と情報共有されていないまま推移    

等々

 

 

・・・・・・。

この案件を検証する中 私は「これって、(さきに述べた)長野市の障がい者福祉での問題に重なるのではないか。」と思わされたものでした。

問題が発生した際に、全体(上部機関)に諮(はか)ることなく 現場判断で〝場当たり対応〟を行なう

関係者が連携し「問題」と「責任」を共有することなく、それぞれがそれぞれの範疇(はんちゅう)の中だけで対応

問題が大きく(具体的に)なると、その責任は認識するとしながらも 肝心の〝具体的解決〟については結果を出すこと無く終結してしまう(装置の場合は未稼働のまま・遊園地の場合は廃止)

 

そのうえで、この遊園地廃止問題を受け 荻原長野市長が「現場に出向いて市民の声を聞きたい」とされていることに触れ「市長が現場に行くならば、一部の立場の人の声を聞くのではなく、関係する全ての人たちに同じテーブルに就いてもらい それら〝全ての声〟を聞くようにしなければ行く意味が無い。」と意見しました。

今回の案件は 現場任せ・現場判断・情報の未共有が招いた最悪のケースとなっています。

これをリセットするには、一部の人の考えでなく「みんなの意見」を聞き・まとめ、情報共有化を図らないことには 事(こと)は進展しないと思うところです。

 

 


休日部活の地域移行 〜不透明な道筋〜

2022-12-12 | 日記

過日(10日)、長野県ソフトテニス連盟北信協議会(長野市・須坂市・中野市・飯山市)が行なわれ、私は 長野市ソフトテニス協会々長の立場で出席しました。

その議事の中に「部活の地域移行」が上程され、将来展望などにおける課題認識が共有されたところです。

「部活の地域移行」は、生徒指導における教職員の負担軽減と、少子化に伴い(団体競技においては)チーム編成を学校単位から(複数校をまたぐ)地域単位に再編する必要性(必然性)が生じてきたことから見直されるもので、スポーツ庁を中心に令和7年度を実施最終年に定め それに向けて段階的に実施され始めています。

 

 

 

この移行作業は これまで「部活=学校生活の範囲」とされ、当たり前のように学校施設で行なわれ 当たり前のように教職員が部活顧問を担ってきた〝常識〟から脱却し、全く新たな認識で指導体制などを見直すことから 一朝一夕には成し得ないものであり、限られた時限の中で 関係者がどのように対応できるかが、事(こと)の成否を分けることとなっています。

 

そして このこと(部活の地域移行)は、単に学校(教員)における課題に止(とど)まらず 各競技団体についても、いわば〝生き残り〟を賭けた難しい課題にもなっています。

部活が地域移行されることは すなわち指導者についても地域に委ねられることになり、その(イイ意味での)矛先は 各競技団体が抱える人材に向けられることになります。

その際 この〝指導者ニーズ〟に対し、十分に応えられる競技団体は先んじて体制が整えられ、そこには自ずと生徒も集まり もって競技人口の底辺拡大と(競技の)存続が担保されることになります。

逆に移行に消極的な競技団体は 時代の流れに取り残されることにもなり、それは次代を担う選手の枯渇 すなわち競技そのものの衰退につながることになってしまいます。

そのため、各競技団体においても この時流に遅れることなく積極的に地域移行に参画し、ひいては子どもの健全育成に資すること・その結果として自競技(じきょうぎ)の存続発展に資することができると捉えるべきときを迎えているに至っていると申せます。

このことは ソフトテニス界においても然(しか)り、各地区(市)の協会関係者は 新たな体制づくりの難しさに戸惑いながらも、指導者の確保・育成などについて積極的に取り組むべきことを異口同音に唱えておられました。

 

 

 

ただ現実は厳しいものがあります。現有指導者の高齢化や競技人口そのものの減少・地域全体でのスポーツ(部活)支援体制の構築の重要性と 一方での競技が異なることでの連携の難しさなどが報告(吐露)され、これからもマメに情報交換を重ね 何らか成果(円滑な地域移行)を導いてゆかなければならないことが課題共有されました。

 

ただ私は、この「部活の地域移行」が 教職員の負担軽減など〝大人の事情〟がメインで推移することが本質になるのは違うのではないかと思います。

あくまでも「チルドレンファースト」であるべき。結果として教職員の負担軽減にはつながるものの、その通底は 少子化の中でもスポーツに熱心に取り組む子どもの夢を叶える環境を維持することを主眼に取り組まなければならない。

あくまで「主役は子どもである」ことを忘れずに、具体的な課題に臨むべきと思う者の一人であります。

 

 

 


青木島遊園地問題 ~面的なコミュニケーション不足…自ら思う自責の念~

2022-12-11 | 日記

長野市における「青木島遊園地の廃止問題」が、数日のうちに あれよあれよという間に全国規模のニュースとなってしまいました。

去る日の地方紙の投稿欄に端を発し その数日後には朝のワイドショー・週末にはNHKの午後7時からのニュース→8:45からの県内ニュース→午後9時からの「ニュース9」と〝NHK3連発〟の放送となっており、この 地域での一見ささやかに見えた案件が、列島を大きな反響と共に駆け抜けたことを実感させられました。

 

 

 

ネット記事などでは しばしば「炎上」という言葉(表現)が用いられるものですが、それに類する(今回の案件の)評価をするとすれば まさに火事の様相に似たりと言えるところです。

長い時間をかけて燻(くすぶ)ってきた火種が、一陣の風によって燃え上がり それ(火=話題)は次々に延焼し、あれよあれよという間に大火となってしまった…目の前で燃え広がる火禍(かか)を前に 忸怩たる思いをいたすばかりでありました。

 

特に 今回のケースは、少子化傾向が伸張する中「子どもの居場所」である遊園地での子どもの行動が 高齢者の苦情によって大きく制約され、ひいては遊園地そのものが廃止に追い込まれるようになった〝出来事の構図〟が 長野市民はもとより多くの人たちの琴線(きんせん)に触れ、「世の宝でもある子どもの居場所を高齢者が奪うのは何ごとか」との当事者(特に苦情者)への反発、さらに「たった一人のクレームによって公共の施設(遊園地)が廃止に追い込まれるのはおかしい」との長野市行政への不信・不満が一気に集中したものと思われ、まさに〝世論の爆発〟ともいえる事態となってしまいました。

 

 

 

 

今回の案件からくるマスコミ報道を中心とした 事(こと)の伝わり方は「子ども関係者vs高齢の抗議者」の間の〝対立の構図〟に重心が置かれていますが、むしろ私は ことここに至るまでの「プロセス(経過)」にこそ問題があるのでは と思います。

18年前に地元住民の要望で整備された青木島遊園地に関し、ほどなく近隣住民(Aさん とします)から「子どもの声や起こす音がうるさい」と 関係機関への抗議がぶつけられることになります。

この「抗議」に対し 抗議を受けた側は、その度 それぞれに対策を講じることとなるのですが、それ(対策)は、いわゆる「対処療法」的な いわば傷にその都度 絆創膏(ばんそうこう)を貼るような対応に終始していたようなのです。

それも、Aさん⇔児童センター・Aさん⇔小学校・Aさん⇔保育園・Aさん⇔市(公園緑地課)との、Aさんと相手方が個別に向き合う形での折衝 いわば「線」でしかつながっていない状態のまま それぞれがそれぞれの対応を行なっていたようなのです。

 

 

 

そのうえ、Aさんから苦情を受けた側の機関(団体)は、幾度となく話し合いを行なったのですが、それは あくまでAさんを別にした中で、いわば受け手側だけが連携するものであったようです。

 

 

 

今回の問題に際し、児童に関する問題に詳しい識者は 問題提起として「地域の人たちのいろんな苦情を受け止めながら、どう調整していくか(関係者を)仲介する人の不在」を挙げておられました。

 

 

 

すなわち 今回の案件に際しては、苦情を抱くAさんと相対する関係者が 何らかの仲介者(コーディネーター・ファシリテーター)を挟んで〝同じ土俵〟で向き合い、忌憚の無い意見を交わしながら妥協点を探ってゆく作業を それもできるだけ早い時期(タイミング)に行なってさえいれば、こんな〝痼(しこ)り〟となるような事態には至らなかったのではないかと思わされます。

 

 

 

 

今回のような〝近隣トラブル〟に関し、アメリカでは「NCJ」なる〝紛争解決サービス機関〟があるそうです。

 

 

 

 

NJCは、近隣での紛争・消費者トラブル・ルームメート同士や学生と教師間などの個人間の争いの仲介役を担います。内容は 損害賠償問・騒音問題・ハラスメント・ペット苦情など多岐に亘っており、これらの紛争を訴訟以外で効率的かつ効果的に解決しようというものです。

そして その〝トラブル解決の肝(きも)〟は「徹底した相互の話し合い」だそうです。

紛争の当事者は同じテーブルに座し、NCJ関係者の仲介の下(もと)で 互いの口(くち)から、不平や不満・要求などを いわば洗いざらい述べてもらい、そのうえで解決の道を皆で相談・模索…譲れるところは譲り 取り決めるべきものは決め、最終的に全員が納得できる結論を導き出すそうなのです。

いわば 当事者が同じテーブルに就いたうえでの〝面的なコミュニケーション〟が徹底的に行なわれ 然るべき成果を導き出しているのでした。

 

 

・・・・・・。

今回の「青木島遊園地問題」においては、この〝面的なコミュニケーション〟が欠けていたのではないかと思います。

その点において、私自身 関係者の一人として自責の念にかられるところであります。

今回の案件において欠けていたこと…すなわち 前掲の識者の述べる「仲介役」また アメリカにおける「NCJ」的な役割を果たすべき者は、他でもない「市議会議員」ではなかったか と。

地域で活動を重ねる いずれかの市議会議員が、問題が続いていた18年間のどこかのタイミングでこの問題を察知し 適切に仲介役を担っていれば、もしかしたら今回のような究極的な結論を招かなくても済んだのかもしれない。

かくいう私も その末席に座する者の一人であります。しかも 活動の中心は、かかる青木島地区と同じ犀川南エリアであることから この事案に触れることも、タイミングによっては可能であったことでしょう。

今回の、まさに時事に触れ 存外に大きな話題となってしまった案件に内在してきた〝抜本的な課題〟を再認識するとき、私たちのような存在の意義・その職責を再認識し、これからは このような轍を踏まないよう職責を果たしてゆかなければならないと 改めて思いをいたしたところでありました。

 


どさくさ紛れの国民(市民)負担ではないか? =防衛費増額(国)と施設利用料(市)=

2022-12-08 | 日記

長野市内にある遊園地が廃止に ~表面的な事象だけで片付けられない その深層にある関係者の葛藤~

2022-12-05 | 日記

サッカーW杯カタール大会は 決勝トーナメントが始まり、みごと16強に名乗りを上げた わがジャパンイレブンは、前回準Vのクロアチアと対戦し 全く互角の戦いを演じ、延長を経ても1-1の同点で終わり 最後はPK戦にまでもつれ込むこととなりました。

その結果、惜しくもジャパンイレブンは苦杯を飲むこととなり〝違う景色〟と言われたベスト8への進出は叶いませんでした。

しかしながら この試合でもジャパンイレブンは実力をいかんなく発揮、かつて松本山雅に在籍した前田選手が先取点を蹴り込むなど大いに沸かせてくれたのでした。

四度(よたび)の決勝トーナメント1回戦敗退は悔しいところではありますが〝人は敗(ま)けからこそ学ぶものあり〟の言葉のとおり、この経験を次への糧(かて)にしてほしいと願うばかりです。

取りも敢えず、熱い戦いをありがとう!と感謝とねぎらいの言葉を チーム・スタッフ全員に贈るところです。

 

 

 

 

 

 

◆「子どもの声がうるさいから公園が廃止…それでいいの?揺れる長野市の現地で徹底取材」

  信濃毎日新聞 記事〈声のチカラ〉に大きな反響が

  →〝徹底取材〟では掘り下げ切れなかった 永年に亘る関係者の葛藤

 

2日の信濃毎日新聞の記事〈声のチカラ〉欄に「子どもの声がうるさいから公園が廃止…それでいいの?揺れる長野市の現地で徹底取材」との特集記事が掲載されました。

 

 

 

この記事の概略は、かつて住民要望によって造成された遊園地が その後に近隣住民からの苦情によって廃止されることになったことに疑問を抱く市民からの投書を取り上げたものです。

記事は「子どもの声がうるさいからって公園を廃止してしまって良いのでしょうか? との市民からの疑問の声が寄せられた。都会では子どもの声を嫌って保育園などの用地が確保できない事例があると聞く。いったい何があったのか?現地を訪ね、関係者に話を聞いた」との枕文で始まり、公園が廃止された経過などについてレポートが記されていました。

※なお、今回の記事タイトルには「公園」とありますが、実際には「遊園地」です。

 

今回 問題となった遊園地は、長野市の青木島地区の住宅街の一角にあります。

広さは 150坪といったところでしょうか、青木島小学校・青木島保育園・青木島児童センターに隣接しています。

 

(マピオン地図)

(青木島児童センターに隣接)

 

 

記事の内容は概ね下記のとおりです。

〝公園〟とされているのは、長野市青木島町大塚にある「青木島遊園地」です。小学校の体育館一つ半ぐらいの広さで閑静な住宅街にある。

フェンスの張り紙には「青木島遊園地は、令和5年3月31日をもって廃止いたします」と市役所の張り紙があり「原状復旧工事のため今月ごろから閉鎖する」とし「長い間ご利用いただき、ありがとうございました」と結んでいた。

管理する市公園緑地課によると「多数の子どもが訪れ かなりの音が出ていたことが廃止の一因であることは事実」と説明。隣には児童センターや保育園があり 子どもたちの格好の遊び場でもあり、市(公園緑地課長)は「断腸の思い」と話した。

同課によると、青木島遊園地は2004年4月に地元から要望を受けて開設され 放課後には児童センターで過ごす大勢の子どもたちが遊びに来たとのこと。夕方の遅い時間帯には保護者たちのお迎えの車が相次いで出入りした。

が、まもなく一部の近隣住民から「うるさい」「子どもたちが走り回ってほこりが舞い、車が汚れる」などと苦情が出るようになったことから、市は数年をかけ 苦情を寄せた住民の家に子どもがなるべく近づかないよう園内に最大8メートル幅の帯状にツツジを植えたり、出入り口の位置も変更し、(児童センターでは)子どもを迎えにきた保護者にエンジンを止めるよう呼びかけたが、苦情は収まらなかった。

遊園地廃止は昨年3月、苦情を寄せる住民が児童センターを直接訪れ 遊園地で子どもが静かに遊ぶ方法を考えるよう求めたことが直接の決め手になったとのこと。

これに対し児童センターは「子どもが静かに遊ぶ方法などない。だが、これ以上 迷惑はかけられない」として、子どもたちに遊園地を使わせない方針を決めた。

児童センターは定員100人に対し利用登録は144人。夏休みや冬休みは終日、施設内で過ごさなければならなくなる子どもも少なくないことから、職員は「何とか外で遊ばせてあげたいのだが…」と言う。

遊園地の草刈りなどは(愛護会として)児童センターの職員や保護者が担っていたが、遊園地を使えないのに維持管理だけを担えないことから作業を止(や)めた。市は地元区長会などと協議し 新たな担い手を探したが見つからなかった。やがて公園の利用者もまばらになり 地元区長会は今年1月「廃止もやむを得ない」と、市に伝えた。

市(公園緑地課)は「開設から18年もの間、一部住民に負担を強いてきたことを重く受け止めた」と話し、地元区長会の会長も「廃止はやむを得ないと考える」と話す。

一方、昨年3月 近くに自宅を新築した3人の子を持つ女性は「遊園地の存在が(新築の)決め手の一つだったのに(公園廃止は)残念でならない」と明かし、また、遊園地の隣で暮らす男性(85才)も「子ども好きなので声は気にならない。子どもたちのためにも存続してほしい」とし、近くのパート女性(66才)は「子どもの声が気になることもある」としつつ、県外で暮らす孫が来た際に利用することもあり「残してほしい気持ちは強い」と話した。  とされていました

 

 

今回の新聞記事をキッカケにしてか、ネットを中心にさまざまな(大きな)反響があり またメディアで活動するインフルエンサーも反応していることから、反響が反響を呼ぶことになっています。

 

 

 

その(反響の)大勢は「一部の〝クレーマー〟のために子どもの遊び場を無くすのはおかしい」とか「〝クレーマー(高齢者)〟の声を優先して 未来ある子どもの居場所を奪うのは間違っている」などとの反対意見で占められています。

その一方で「公園廃止の説明文を読んだら(メディアの)印象と違うんだが」とか「これ自分の家だったら耐えられるか自信ない…」また「〝クレーマーを追い出せ〟みたいなこと言ってる人は、落ち着いて思いとどまってほしい」などの声も寄せられています。

 

今回の事案の背景には、永年に亘る非常に難儀な課題が内在していると申せます。

この青木島遊園地(以下/遊園地)は、2004年に地元住民(区)の要望によって設置されました(前掲のとおり、この施設は「都市公園法」に基づく「公園」ではなく、地元要望で造られた(造ることのできる)「遊園地」です)。

設置当初は 周辺の居住環境も閑静なものであったでしょうが、やがて当該エリアに いわゆる現役世代(共働き世代)の居住人口が急増したことに伴い、児童数(≒児童センター利用者数)も増加、遊園地に隣接する児童センターも 定員(100名)を大きく越える利用者数(140名越え)で賑わうようになりました。

そのこと(子どもの増加)自体は喜ばしいところでありましたが、それは同時に 遊園地の利用者数の激増にもつながり、いわば想定を越える大勢の子どもが この遊園地で遊ぶこととなりました。

後の関係紙の掲載によると、この遊園地で遊ぶ児童数は(ピーク時で)約50名とのことですが、現場を見ると、ここで50名の子どもが遊ぶには 決して広いとはいえない面積とも受け止められます。

この限りあるスペースのなかで 世論を揺るがす案件が発生してしまったことは、まさに慚愧に堪えないと言わざるを得ないところであります。

 

 

 

今回の案件は いわば〝価値観の相違〟が、この 皆が不幸とも言える顛末を招いたと言えるのではないか、と。

そして その〝相違〟は、遊園地を使う側の関係者⇄苦情を寄せた住民のみならず これを論評する人たちの中にも生じていることが感じられます。

 

遊園地を造成したときには、(造成の)主体となった区も これほどまでに遊園地の利用者が増えて、結果 大きな音を発したり埃(ほこり)などの二次的被害が生じたりするようになるとは想像し得なかったのではないか。

そして、たとえ大きな音が生じても 子どもの出す音だから、誰もが許容(受容)してくれると思ったのではないでしょうか。

しかし現実には、それ(大きな音や埃など)は 件(くだん)の住民が受容し得るものではなかったようです。

 

そして このニュースに触れた人たちは、苦情を寄せた住民を「クレーマー」として断罪し、声を上げたこと(者)を〝悪〟との価値観に立って、事(こと)の良し悪しを判断することとなっています。

しかし、この住民にも ここに居住する権利があり、そのうえで 遊園地から発せられる大きな音などが日常生活を阻害するものであるならば、改善を申し入れることについても権利として認められるところでしょう。

このあたりの いわば不毛の論争ともなっている状況からも、如何(いかん)ともし難い〝価値観の相違〟を実感させられます。

(そもそも〝クレーマー〟とは、悪意ををもって相手を責め立てることを指(さ)しますが、今回のケースは いわば主張であり〝クレーマー行為〟とは主旨がやや違うのではないかとも思わされます)

 

この遊園地が設置されて18年。この間 市は(苦情に対し)でき得る限りの対応に努めてきました。

しかし、この住民の心に染(しみ)ついてしまったトラウマのような被害意識は 薄まることなく現在に至っているようです。

 

また、やや論点はズレますが、今の論争の大勢が「子どもが最優先。年寄りは黙っとけ」との いわばポピュリズム(大衆迎合)的な風潮にも懸念させられます。

未来を担う子どもの福祉を優先することは 私も同じく思うところですが、それを突き詰める余り 他を排除するようなことは、民主社会においてどうなのか。

例えば目の前に階段があったとき、健常者は登れても 障がい者は「アンタは障害があるから登れないね」と排除するような風潮は許されるものでは無い。

事(こと)ほど左様(さよう)に、大勢がこうだから少数意見は認めないという判断は、特に地方行政においては むしろ為(な)すべきではないことは、(地方行政の)責務ともいえるところではないか、とも。

 

 

・・・・・・。

今回の一連の顛末を経て、関係者の一人は「ある意味、皆が被害者。こんな事態は早く終わらせる必要がある」と述べていたとのこと…やるせない心中(しんちゅう)を吐露したものと受け止められるものでした。

 

いずれにしても、子どもたちに罪はありません。

このようになったことを受け、先ずは 児童センターを利用する放課後児童の(特に屋外での)居場所の確保に向け、所管を超えて取り組むことが求められます(現実的には 小学校の校庭の利用が想定されると思います)。

 

今回の事案は、市民の多様性や それぞれの価値観の機微(きび)について思い致されることとなりました。

また、市や地区の行なう事業等における対応の大切さと難しさ、時(とき)に応じて早期対応が求められることなど、私としても学ぶこと多い案件でありました。

せめても、早期のうちに 私たちのような立場の者が関(かか)わっていれば また違った展開があったかも…返すがえすも 忸怩たる思いがいたすところであります。