中東のアルジェリア人質事件で日本人10名の犠牲者がでたが、
日本政府専用機で犠牲者と救出者7名をむかえに、昨日アルジェリアに到着した。
日本人は中東紛争を他山の石のように傍観していたが、
とうとう日本企業戦士がイスラムテロ集団のターゲットにされたのか。
今回のテロ対応を見ていると「人命第一」と言いながらも、ここでも理想と現実は程遠く、
平和ボケした日本の感覚は、なかなかアルジェリア政府には通じなかったようだ。
さて此れからの「インターネット随想」は、若い頃に遣り甲斐のある仕事を求めて、
企業戦士成らぬ役所で働いた回想録を、
25年前に自己満足で書いた「精緻なるロマンを求めて」を5回に分けて連載する。
昭和40年に学校を卒業して、初めて配属になった職場は、
衛生研究所という研究機関であった。
そこでの仕事は行政や一般からの依頼検査が仕事で、
研究所とは名ばかりの試験検査機関であった。
この傾向は本県が取り立てて特異な存在ではなく、地方のどの研究機関も大同小異であった。
このようにマンネリ化した試験検査に飽きたらず、
地方の乏しい設備とスタッフで、華々しい研究をしていた技術者がいた。
それは高知県の上田雅彦研究員(後に衛生研究所長)であった。
当時の上田氏は食品担当の主任であり、研究所としての使命感と、
技術者としての飽くなき探究心で、精力的に研究していた。
氏の研究には田舎の研究所に居ながら、世界に通ずる独創的研究が見られる。
自然科学の世界的権威誌、英国の『自然(Nature)』にも投稿するという、
優れた多くの業績を残していった。
氏の業績の中でも昭和45年に発表した、牛乳や母乳中のβ(ベェター)-BHC汚染の発見は、
地方研究所という同じ立場にいる私にとっては、衝撃的な研究であり行動であった。
後日、岩波書店発行『科学』の中で、
「残留農薬を追って」と題して詳しく回想している。
この中で日本中を騒然とさせた牛乳中のβ-BHC汚染の発見の出会いは、
氏の日常業務である食中毒検索の中から、見い出したと述べている。
ガスクロマトグラフ上に描かれた未知ピークの追求から、
日本独特の高濃度β(ベェター)-BHC汚染との出会いが始まったとも語っている。
ともすれば見過ごされがちな日常業務の不意の現象の追求に、
新しい知見が隠されていることを、私は教えられた。 (つづく)
(精緻なるロマンを求めて、1987・10・1)
●追記―「ベェター-BHC汚染問題とは」
昭和45年頃から牛乳や母乳、牛肉等のBHCやDDTの有機塩素系農薬の高濃度汚染、
特に日本独特のβ-BHC蓄積問題が心配であった。
これらの蓄積したBHCは欧米に比べて10倍近く高濃度で、
その大部分は残留性の高いβ-BHCである事を、田舎の研究所の上田氏により、
世界で初めて見出した素晴らしい研究である。
その原因は稲作にウンカの殺虫剤として使用されたBHCが環境汚染し、
そこで育った水稲や野菜を飼料として家畜が食べ、それらを食品として人間が食べ、
いわゆる生物濃縮が起こり血液や体内にBHCが蓄積した。
何故、欧米に比べて日本のBHC汚染が高濃度であったかと言うと、
BHCには8種の兄弟分がおり、そのうち殺虫効果が強いのはガンマーBHC(リンデン)で、
欧米では農薬として純度の高いBHCのリンデンを使用していた。
ところが日本では農薬だから粗雑な異性体の混じった工業薬品を使っており、
残留性の高いβ-BHCが多量に蓄積した。
まあ欧米と日本の化学薬品の認識の違いが、日本独特の高濃度BHC汚染に発展させた。
もしβ-BHC汚染の発見が遅れていれば、日本人の多くが慢性農薬中毒に成っていたかも知れず、
この研究によりどれだけ多くの人が救われた事だろう。
●思い出のレトロ写真から(116) 京都・等持院(昭和37年頃)
○拝観券
○等持院
○足利尊氏の墓
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日本政府専用機で犠牲者と救出者7名をむかえに、昨日アルジェリアに到着した。
日本人は中東紛争を他山の石のように傍観していたが、
とうとう日本企業戦士がイスラムテロ集団のターゲットにされたのか。
今回のテロ対応を見ていると「人命第一」と言いながらも、ここでも理想と現実は程遠く、
平和ボケした日本の感覚は、なかなかアルジェリア政府には通じなかったようだ。
さて此れからの「インターネット随想」は、若い頃に遣り甲斐のある仕事を求めて、
企業戦士成らぬ役所で働いた回想録を、
25年前に自己満足で書いた「精緻なるロマンを求めて」を5回に分けて連載する。
昭和40年に学校を卒業して、初めて配属になった職場は、
衛生研究所という研究機関であった。
そこでの仕事は行政や一般からの依頼検査が仕事で、
研究所とは名ばかりの試験検査機関であった。
この傾向は本県が取り立てて特異な存在ではなく、地方のどの研究機関も大同小異であった。
このようにマンネリ化した試験検査に飽きたらず、
地方の乏しい設備とスタッフで、華々しい研究をしていた技術者がいた。
それは高知県の上田雅彦研究員(後に衛生研究所長)であった。
当時の上田氏は食品担当の主任であり、研究所としての使命感と、
技術者としての飽くなき探究心で、精力的に研究していた。
氏の研究には田舎の研究所に居ながら、世界に通ずる独創的研究が見られる。
自然科学の世界的権威誌、英国の『自然(Nature)』にも投稿するという、
優れた多くの業績を残していった。
氏の業績の中でも昭和45年に発表した、牛乳や母乳中のβ(ベェター)-BHC汚染の発見は、
地方研究所という同じ立場にいる私にとっては、衝撃的な研究であり行動であった。
後日、岩波書店発行『科学』の中で、
「残留農薬を追って」と題して詳しく回想している。
この中で日本中を騒然とさせた牛乳中のβ-BHC汚染の発見の出会いは、
氏の日常業務である食中毒検索の中から、見い出したと述べている。
ガスクロマトグラフ上に描かれた未知ピークの追求から、
日本独特の高濃度β(ベェター)-BHC汚染との出会いが始まったとも語っている。
ともすれば見過ごされがちな日常業務の不意の現象の追求に、
新しい知見が隠されていることを、私は教えられた。 (つづく)
(精緻なるロマンを求めて、1987・10・1)
●追記―「ベェター-BHC汚染問題とは」
昭和45年頃から牛乳や母乳、牛肉等のBHCやDDTの有機塩素系農薬の高濃度汚染、
特に日本独特のβ-BHC蓄積問題が心配であった。
これらの蓄積したBHCは欧米に比べて10倍近く高濃度で、
その大部分は残留性の高いβ-BHCである事を、田舎の研究所の上田氏により、
世界で初めて見出した素晴らしい研究である。
その原因は稲作にウンカの殺虫剤として使用されたBHCが環境汚染し、
そこで育った水稲や野菜を飼料として家畜が食べ、それらを食品として人間が食べ、
いわゆる生物濃縮が起こり血液や体内にBHCが蓄積した。
何故、欧米に比べて日本のBHC汚染が高濃度であったかと言うと、
BHCには8種の兄弟分がおり、そのうち殺虫効果が強いのはガンマーBHC(リンデン)で、
欧米では農薬として純度の高いBHCのリンデンを使用していた。
ところが日本では農薬だから粗雑な異性体の混じった工業薬品を使っており、
残留性の高いβ-BHCが多量に蓄積した。
まあ欧米と日本の化学薬品の認識の違いが、日本独特の高濃度BHC汚染に発展させた。
もしβ-BHC汚染の発見が遅れていれば、日本人の多くが慢性農薬中毒に成っていたかも知れず、
この研究によりどれだけ多くの人が救われた事だろう。
●思い出のレトロ写真から(116) 京都・等持院(昭和37年頃)
○拝観券
○等持院
○足利尊氏の墓
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除草剤に耐性のある遺伝子組み換えの
植物も交雑して日本に入って来ているとか。
まあ50年前とは雲泥の差ですし、野菜などもデポジット制の厳しい農薬基準が決められていますから安心でしょう。
ような気持ちになりました。
どの国も通過してきて、或いは通過している、或いは
通過しなければならない時代の一コマですね。
グローバルの時代で物が世界を移動する
現実では日本は大丈夫とは言えないかもしれませんね。
日本の農薬規制は完璧でも、発展途上国からの輸入食品の農薬は?
わかるようになってくる。
最初からわかっていたわけではないので仕方ない部分もあるけど、わかってやっている中国の今みたいなのは、大問題ですね。