ゆるゆる素浪人の「気まぐれ日誌」~ 自己満足とボケ防止に、人生の雑記帳~  

そういう意味で老人の書いた「狼の遠吠え」、いや「犬の遠吠え」と思い、軽い気持で読んで頂けば有り難いです。

今年はうるう年

2008-02-28 07:16:00 | 時事・雑感
通常なら2月は今日で終わるのだが、今年は4年に一度の閏年で一日延び、明後日から草木がますます生い茂る弥生に入る。

このところの気候は暖かかったり寒かったり、日本列島は寒暖の差が激しい異常気象だ。

ここサヌキも今年は強風や小雪がちらつき、霧雨や曇天の不安定な天候が多かったが、今日からは少し暖かく成りそうだ。 


我が家には自然石数個と10本位の雑木を集めて、亡父が自己流に作った手作り庭がある。

そんな素人庭の花木にも、次々と蕾が膨らみ、花を咲かして散っていく。

年末頃からは紅白のサザンカの花、1月頃は赤く熟したピラカンサや南天の実、2月頃からは紅梅や赤い椿の花が咲き乱れていた。

しかし先週あたりの強い寒風で薄紅色の梅の花弁はひらひらと散り、赤い椿はポッンポッンと花弁が取れて庭に散乱している。

この寒さで膨らみかけていた薄紅色のボケの蕾は縮み、それに続いて春に咲く薔薇、芍薬、皐月が、次々と開花の準備を進めている。


このように書くと我が家の庭も満更ではなく、四季折々の移ろいを眺めていると青春時代を思い出し、歌声喫茶でよく歌われていた『薔薇が咲いた 薔薇が咲いた真っ赤な薔薇が 淋しかった 僕の庭に 薔薇が咲いた…いつまでも そこに咲いてておくれ…』と、自然に口ずさんでいた。



イージス艦衝突と遅い報告

2008-02-24 07:28:00 | 時事・雑感
自衛隊の不祥事が続いているが、今度は海上自衛隊のイージス艦が漁船の清徳丸と衝突し、その責任を取って防衛大臣を辞任せよと、野党は迫っている。

私なんかは大臣を辞任する前に行方不明者の救助と、今後二度と起こらない組織体系の改編が先だと思うのだが、大臣辞任要求は政争の具にすぎない。


マスコミも衝突の原因に付いていろいろ論評しているが、海上保安庁が詳細を調べているのでそれを待ちたい。

しかも事故が発生した午前4.07分ら1時間40分後に防衛大臣に、2時間後に総理大臣に連絡、その報告が遅いとメデイアは衝突原因とは別に組織の連絡体系を批判している。



次元は違うが私も役人の端くれであったので、この種のような事件にはしばしば巻き込まれた。

初心者の基本は「ほうれんそう」の精神で、まず「ほう」は報告、「れん」は連絡、「そう」は相談をよくする事だよと、先輩達から教えられた。


今回の場合は大事故だから、当然速やかに報告しなければ成らないのだが、若い頃は何を報告して、何を報告しなくて良いかよく分らなかった。

運悪く上司不在の時は最悪で、跳び越してトップに報告して後に上司が知れば、上司の機嫌は一生悪くなる。


ところが日常作業の慣れが生じ、この程度の事は上司に報告しなくても良いと判断したものが、往々にして表面化して大事件に発展する事がある。

それとて詳細に逐一報告すれば、当人の能力が疑われる。

まあ何を報告し、しなくて良いかが判別できるように成れば、一人前の仕事人になったという証でもあろう。


私もいろいろ不手際を起こしながら成長し、何とか無事に定年退職まで過ごしてきた。

しかし現在のサラリーマン社会では多くの内憂外患を抱え、何時何処にどんな落とし穴が潜んでいるかも分からず、特に生命に係わる業務に携わるものは、念には念を入れて素早く対応する必要があろう。



母からの手紙

2008-02-23 07:11:00 | 時事・雑感
先日のNHKホリデーインタビューで、漫才師宮川大助さんが修行時代に母からきた手紙を、全て大切に保管していると語っていた。

その手紙には戒めや励ましの言葉が詰まっており、大助さんは人生の宝物に成っているという。
今では携帯電話やインターネットが発達して、遠方からの通信手段は事欠かないが、当時は手紙か高価な電話ぐらいであった。
しかし修行や勉学中の者にとっては、そんなに頻繁に電話は長時間かけられるものではなかった。

私も半世紀前に、ここ田舎のサヌキから古都京都へ勉学の為に上京したのだが、落ちぶれたりとは言え昔は小地主であったので、周囲からはチヤホヤして育てられ、社会常識に欠けた若者であった。

子供を思う母の心は誰も同じで、母から多くの忠告と激励の手紙をもらったものだ。
その手紙によってホームシックには成らず、今の文章力も返信による訓練で得られたのかもしれない。
しかし宮川大助さんが今も大切に保管していると言う母からの手紙は、私は残念ながら一通も残っていない。

当時の我が村では未だ電話の普及は少なく、商売をしていた家庭ぐらいであった。
しかも我が家は広大な田んぼの中の一軒家で、陸の孤島と言われていた。
母屋の裏側は電車の高架電線が走り、表側は広く水田地帯が広がり集落はなく、どの方向から電線を引き込むにせよ、多数の長い高額な電柱が必要で、その費用は当時はすべて自己負担であった。

そのためか我が家に文明のエレキがきたのは遅く、村で最終の小学4年生の頃だった。
日本では明治11年に国産一号電話機ができ、昭和25年以降から黒電話が普及したそうだが、我が家に電話が引かれたのは昭和30年代後半であった。


漫才師宮川大助さんの「母からの手紙」を聞いて、若き時代の「母からの手紙」を思い出したが、現在はテレビのデジタル化、インターネットの高速通信回線が叫ばれている時代、これらの恩恵を受けられない地域が、まだ多く存在すると聞く。
この高速情報サービスの格差は直ちに文化格差に繋がるので、未整備の地域が早急に是正される事を祈ろう。




環境汚染を眺めて半世紀

2008-02-21 07:18:00 | 時事・雑感
今や世界的規模で地球温暖化対策が国を挙げての政治的課題に成っているが、私が学校を卒業して田舎県に就職した1965年頃は、日本各地で公害問題が散発的に起っていた。

思えば日本の昭和30~40年代の環境問題は公害という言葉が汎用され、水俣病、イタイイタイ病、PCBや農薬汚染、四日市喘息・・・と、各地で表面化しつつあった。

そんな初期から、環境汚染等の試験検査に携わる事ができ、環境汚染問題を技術者の立場で冷静に眺めてきた。


しかし当時の公害行政を所管する官庁は、厚生省の一部局にすぎなかったが、やがて環境庁に独立、そして環境省に昇格し、官庁組織も増大の一途を辿った。

地方でも環境行政の役所は、長く厚生部や保健部に付随的に置かれる程度であったが、やがて地方も肥大化していった。


今や環境問題は地球温暖化の要因である、二酸化炭素の削減という人類共通大命題に、全世界が傾注している。

私が始めて公害試験に携わった半世紀前の頃には、これだけ環境問題が地球規模でクローズアップされように成るうとは、思いも拠らなかったし、まさに晴天の霹靂であると言わざるを得ない。


マンホール蓋のデザイン

2008-02-19 07:11:00 | 時事・雑感
NHK BS-2では趣味の域を通り越した、その道のオタクに成った人を紹介する「熱中時間」と言う番組がある。

先日偶然にもチャンネルを廻していると、全国の変わったマンホールの蓋を写真に撮っている、高校教師の熱中人を紹介していた。

ちなみにマンホールの蓋のデザインは、その地方の都市の特徴をもち、年代的にも異なっているという内容だった。


このテレビを見たかどうかは知らないが、このウエブ仲間のブログにも横浜市のベーブリッジ橋のマンホールのふたの写真が挿入されているのを見た。

そのときのコメントに小生の市のデザインを見たいとの要望があり、今年初めにやっと我が新興住宅地にも下水道が完成したので、遅くなったがマンホールの写真を取り、今日のブロクに挿入した。
  
★屋島を背景に源平合戦 (http://www5.ocn.ne.jp/~eikene/internet13-8.html)

なお我が高松市のデザインは、屋島をバックに源平合戦の那須与一と扇のマトが描かれている。

皆さんの市にもそれぞれ特徴あるデザインが描かれている筈であり、これからは下水の蓋を注意して見るのもまた楽しからずやであろう。


ちなみに我が田舎県のサヌキの下水道処理人口普及率は43位で36.6%(全国平均69.31%、東京1位:98.4%)、四国四県はすべて下から10位内にランクされ、我が県は下から5位と社会基盤整備が遅れている。