昨夜の参議院本会議で野田総理の問責決議案が、129対91の賛成多数で可決された。
歴代では福田、麻生総理についで三人目だそうだが、
衆参勢力が与野党逆転してからは、参議院で総理や大臣の問責決議案が、
乱発気味に提出され可決し、近々の内に罷免もしくは改造で辞めている。、
これによりいよいよ政局は混迷し、今国会は何も重要法案は決まらず、
解散に踏み切るか、それとも9月の民主代表、自民総裁選挙に流れ込み、
10月末位に解散と言うシナリオが出来ているのかもしれない。
とにかく待ちに待った年度内の解散は確かなようだ。
『私は東京行の、新幹線の車中にいた。
今日の天候は快晴で、窓から見える富士山の景観は素晴らしい。
東京行も数えたことはないが、もう150回近くになるかも知れない。
目的地は決まって、世田谷の国立衛生試験所である。
薬務行政が厚生省の医薬局であるように、
私の仕事の試験研究は国立衛生試験所が上部機関である。
ここでは我が国の食品、医薬品、家庭用品、化粧品、水道水、温泉といったものの、
試験法や毒性が研究されている。
この国立衛生試験所は薬系の所長を持ち、日本で最も古い国立の研究機関である。
明治7年3月、永松東海を場長に、
明治政府が保健衛生行政の一端を担う機関として、東京司薬場を創設した。
今の試験所は世田谷区用賀の高級住宅地にあるが、
初めは日本橋馬喰町一丁目で発足した。
この世田谷あたりが名医の「赤ひげ先生」が、活躍していた所かもしれない。
明治7年8月、近代国家建設を目指しドイツ人マルチンを教師として、
神田和泉町に総工費1,286円余で東京司薬場を新築し、
昭和23年3月、大空襲で焼失するまで試験所の基礎を築いた。
この司薬場は、初め急を要する輸入薬品の品質検査を行い、
次第に鉱泉、飲料水、食品等へ、業務を拡大して行った。
一方、薬学教育、薬事衛生制度にも先駆的役割を果たし、
第一版日本薬局方編纂にも貢献した。
更に優良医薬品の国産化の指導にも寄与した。
このように薬学と密接な関係の機関である。
さて歴代所長を眺めてみると初代永松東海、2代柴田承桂、5代後藤新平、
6代長井長義、11代衣笠豊といった、そうそうたる人物ばかりである。
私の訪れ始めた昭和40年代からは15代刈米達夫、16代石館守三、17代川城巖、
18代下村孟、19代鈴木郁生、20代谷村顕夫、そして現在の内山充所長と、
日本薬学会の重鎮ばかりである。
私も川城、下村、内山所長時代には2~3度お邪魔する機会があったが、
赤く敷き詰められたジュタン、古くどっしりした机や本棚、そしてソファー、
まさに100年余の歴史を語るにふさわしい、ゆったりした執務室であった。
今までに親交の在った数限りない日本の先端研究者に接する機会が得られたことは、
研究の広い視野と手法を教えられた。
というのも駆け出しの昭和40年代は食品添加物、残留農薬、重金属、PCB汚染と、
次々と『食品公害』と称される事件が発生した。
これらの試験を通じて、私は更に試験所の先生達と親交を深めていった。
よく『良き師を持つことは、人生にとって最大の幸せである』と言われるが、
私にとっては試験所の先生方が心の財産かも知れない。
新幹線が東京駅に近づいてきた。
あの古い歴史と伝統の国立衛生試験所に、今年もやって来た。
これからいつまで、この試験所を訪れることになるであろうか。
そして幾人のすばらしい研究者との出会いが始まるであろうか。
私が東京へ行く、楽しみの一つでもある。』
(○○県○○会誌、1987.4.18)
尚、明治7年8月に設立された国立衛生試験所は、
平成9年4月に国立医薬品食品衛生研究所に改称した。
また昭和24年5月に設置された厚生省は、平成13年1月厚生労働省に改組された。
●思い出の写真から(66) 上高地 (昭和52年)
○焼岳と梓川
○カッパ橋
○大正池
○明神池拝観券