ゆるゆる素浪人の「気まぐれ日誌」~ 自己満足とボケ防止に、人生の雑記帳~  

そういう意味で老人の書いた「狼の遠吠え」、いや「犬の遠吠え」と思い、軽い気持で読んで頂けば有り難いです。

「インターネット随想」(35) 国立衛生試験所(現国立医薬品食品衛生研究所)

2012-08-30 00:00:00 | エッセー

昨夜の参議院本会議で野田総理の問責決議案が、129対91の賛成多数で可決された。

歴代では福田、麻生総理についで三人目だそうだが、

衆参勢力が与野党逆転してからは、参議院で総理や大臣の問責決議案が、

乱発気味に提出され可決し、近々の内に罷免もしくは改造で辞めている。、

これによりいよいよ政局は混迷し、今国会は何も重要法案は決まらず、

解散に踏み切るか、それとも9月の民主代表、自民総裁選挙に流れ込み、

10月末位に解散と言うシナリオが出来ているのかもしれない。

とにかく待ちに待った年度内の解散は確かなようだ。

 

『私は東京行の、新幹線の車中にいた。

今日の天候は快晴で、窓から見える富士山の景観は素晴らしい。

東京行も数えたことはないが、もう150回近くになるかも知れない。

 

目的地は決まって、世田谷の国立衛生試験所である。

薬務行政が厚生省の医薬局であるように、

私の仕事の試験研究は国立衛生試験所が上部機関である。

ここでは我が国の食品、医薬品、家庭用品、化粧品、水道水、温泉といったものの、

試験法や毒性が研究されている。

 

この国立衛生試験所は薬系の所長を持ち、日本で最も古い国立の研究機関である。

明治7年3月、永松東海を場長に、

明治政府が保健衛生行政の一端を担う機関として、東京司薬場を創設した。

今の試験所は世田谷区用賀の高級住宅地にあるが、

初めは日本橋馬喰町一丁目で発足した。

この世田谷あたりが名医の「赤ひげ先生」が、活躍していた所かもしれない。

 

明治7年8月、近代国家建設を目指しドイツ人マルチンを教師として、

神田和泉町に総工費1,286円余で東京司薬場を新築し、

昭和23年3月、大空襲で焼失するまで試験所の基礎を築いた。

この司薬場は、初め急を要する輸入薬品の品質検査を行い、

次第に鉱泉、飲料水、食品等へ、業務を拡大して行った。

 

一方、薬学教育、薬事衛生制度にも先駆的役割を果たし、

第一版日本薬局方編纂にも貢献した。

更に優良医薬品の国産化の指導にも寄与した。

このように薬学と密接な関係の機関である。

 

さて歴代所長を眺めてみると初代永松東海、2代柴田承桂、5代後藤新平、

6代長井長義、11代衣笠豊といった、そうそうたる人物ばかりである。

私の訪れ始めた昭和40年代からは15代刈米達夫、16代石館守三、17代川城巖、

18代下村孟、19代鈴木郁生、20代谷村顕夫、そして現在の内山充所長と、

日本薬学会の重鎮ばかりである。

私も川城、下村、内山所長時代には2~3度お邪魔する機会があったが、

赤く敷き詰められたジュタン、古くどっしりした机や本棚、そしてソファー、

まさに100年余の歴史を語るにふさわしい、ゆったりした執務室であった。

 

今までに親交の在った数限りない日本の先端研究者に接する機会が得られたことは、

研究の広い視野と手法を教えられた。

というのも駆け出しの昭和40年代は食品添加物、残留農薬、重金属、PCB汚染と、

次々と『食品公害』と称される事件が発生した。

これらの試験を通じて、私は更に試験所の先生達と親交を深めていった。

よく『良き師を持つことは、人生にとって最大の幸せである』と言われるが、

私にとっては試験所の先生方が心の財産かも知れない。

 

新幹線が東京駅に近づいてきた。

あの古い歴史と伝統の国立衛生試験所に、今年もやって来た。

これからいつまで、この試験所を訪れることになるであろうか。

そして幾人のすばらしい研究者との出会いが始まるであろうか。

私が東京へ行く、楽しみの一つでもある。』

    (○○県○○会誌、1987.4.18) 

 尚、明治7年8月に設立された国立衛生試験所は、

平成9年4月に国立医薬品食品衛生研究所に改称した。

また昭和24年5月に設置された厚生省は、平成13年1月厚生労働省に改組された。

        
●思い出の写真から(66)  上高地 (昭和52年)

○焼岳と梓川

○カッパ橋

○大正池

 

○明神池拝観券


「インターネット随想」(34) 失敗の経験の大切さと「認知症と糖尿病」

2012-08-25 00:00:00 | エッセー

厚労省の発表によると認知症患者が300万人を超え、予想以上に早く増加している。

65歳以上の高齢者は人口の約23%で約3千万人、その10人に1人が認知症患者である。

更に8年後に400万人、13年後に470万人と急速な増加一途の推計が出ている。

是非とも若いうちから「知り取り川柳」でもして「脳トレ」対策が必要のようだ。

 

次に日本人に増加しているのが糖尿病で、この28年間に患者数は4.8倍にも成っている。

現在予備軍も入れると2210万人、そのうち病院通いをしている人は僅か4割に過ぎない。

人口は1億2780万人だから予備軍も入れると、4~5人に1人が糖尿病患者に成る。

 

さてこれからの「インターネット随想」は少し堅い話が続きますが、

今日の「失敗の経験の大切さ」は、医療技術短大生に上から目線で書いたもので、

教訓じみた化学用語の多い内容で読み辛いも知れません。



創造への原点は、しばしば日常業務の中に存在することは、すでに述べた通りである。

ここでは失敗の経験の大切さについて、考えてみたいと思う。

一般的に言って新しい研究や仕事は、華々しい一面だけがとらえられ、

影の部分が見過ごされがちである。

何事によらず、どんなりっぱな仕事でも、そこに至る失敗の経験が隠されている。

私も研究者の端くれとして、食品衛生研究に取り組んでいた若き20代半ばの話である。

 

当時、日本で開発された合成殺菌料、AF-2の発癌性が問題化されつつあった。

食品衛生研究者の誰もが、この微量分析法の開発に凌ぎを削っていた。

というのも、このAFー2は豆腐や魚肉ねり製品に広く使用されており、

化学構造も複雑で正確に分析する方法が存在しなかった。


若き私も、この研究に精力的に取り組んでいた。

化学構造から考えてフラン骨格に付いたニトロ基に着目していた。

このニトロ基をアンモニアに還元してAFー2を定量する方法を想定して、

基礎実験を繰り返していた。

この研究は大変うまくいき、私は『しめた!』と思い、食品への応用実験に取りかかった。

ところがこの方法では、直ちにはかなくも成功の夢は打ち砕かれた。

それは当然で食品中には多量の蛋白質のアミノ酸が含まれており、

還元すればアンモニアが出来るわけである。

 

現在の私であれば、この方法では駄目なことはすぐ気づくが、

全くの駆け出しであったので、そこまで頭が回らず見事に失敗した。

しかし半年後、菅野三郎博士(元神奈川県○○研究センター所長)らによって、

脱離したニトロ基をジアゾカップリングして、比色する方法が開発された。

そしてこの方法が、しばらく公定法として採用されるに至った。

 

考えた還元法は失敗したが、複雑な化学構造のニトロ基に着目した点は同じだった。

指導者とキャリヤー不足を嘆きつつ、新しい創造へのアイディアには自信を持った。

しかも自由気ままな発想を自分で展開できたので、

足踏みの時代は在ったものの貴重な経験にもなった。

 

この失敗の経験が後に還元法による新サッカリン定量法に発展していく。

そしてユニークな原理の研究が、田舎者の私を全国的に知らしめる結果となった。

また我国における著名な研究者とも、親しく接する機会が得られ、

有意義な研究生活を過ごさせてもらっている。

ともかく新しい知見や成果の裏側には多くの失敗の経験があり、

その経験が新しい創造への導火線とも成っていくのである。

(註)合成殺菌料(AF-2)は、強い変異原性を持つ発ガン物質として認められ、

現在は禁止されている。             
             (○○県臨床検査専門学校会誌「インヴィトロ」、1980.1.18)  

              

●思い出の写真から(65)  高山植物 (友人の土岐隆信氏撮影)

○シモツケソウ

○タカネマツムシソウ

○八方池から(唐松岳)


先週の「脳トレ」尻取り川柳(216)と「梅ちゃん先生」好調

2012-08-22 00:00:00 | 雑感・川柳


NHKの連続テレビ小説「梅ちゃん先生」が、近年になく好評だ。

先週のテレビリサーチ社の視聴率調査によれば、

ドラマ部門で朝は1位の25%、昼の再放送で7位の10.5%と、ベストテン入りしている。

昼の再放送でベストテン入りするなんて、今までなかった事ではなかろうか。

それに反してNHKの大河ドラマ「平清盛」は、ベストテンにも入れず散々たる視聴率だ。

この要因の一つは史実に基いているとはいえ登場人物が多く、

複雑な構図にある事は間違いなかろう。

 

「梅ちゃん先生」が好評なのは、主演の堀北真希ちゃんやキヤストの好演は勿論だが、

時代が戦後の焼け跡の蒲田から始まり、若者には古い社会生活が珍しく、

我々高齢者は封建的な貧困生活と重ね合わせ、ノスタルジアを感じて見ている。

それにどのドラマでも同じだが脚本が重要で、

「梅ちゃん先生」には、朝ドラ特有の一週間単位のストリー展開が絶妙で、

毎日チャンネルを合わせ様とする心理を上手くかきたてる。

 

さて先週の「しりとり川柳」ですが毎朝の貴重な1時間弱を使い、

朝ドラ「梅ちゃん先生」をバックに約15句詠み、お遊びの「頭の体操」に励んでいる。

 

今週は日常生活やオリンピックを詠んだ句が多く成りましたが、

マンネリ化して粗雑になり、川柳と言うより下句を使った直感の短文に成りました。

努めてユーモアとウイットに富んだ句を心がけていますが、

技術者だったので理屈ぽく、諸に心情が表れた気恥ずかしい句もあります。

その日に詠んだ好きな愚作に○印を付けてみた。笑読ください。

 

●流行とか 中韓露の 日本いじめ ○

●聞こえるよ 党首会談 密約が

●庶民です 悔しかったら 政治家に

●何よりね 円高傾向 落ち着いて

●寿を 犠牲にしての 金メダル ○

●稽古付け メダルを目指す 親子鷹

●輪になって 世界は一つ オリンピック

●舞い上がる 破れ馬券が 空高く

●新カメラ 買ってみたいが 女房が

●恥ずかしい 乙女心は 今はなし

●親不孝 それを承知で 金借りる

●搾るほど 知恵も出てくる 若者は ○

●ネオン街 オネダリ上手な ママばかり

●攻撃は 最大級の 防御とか

●今回は 褒めてやりたい 愚息でも

●音がする 深夜にそっと 冷蔵庫 

●悲鳴上げ 乗った瞬間 体重計 ○

●ゴミの山 マナー守れよ 行楽地

●私なの 噂の震源 悪いけど

●剛速球 プロの目光る 甲子園 ○

 

●思い出の写真から(64)   高山植物 (友人の土岐隆信氏撮影)

○コマクサ 

○ キヌガサソウ

○クガイソウ

 


「インターネット随想」(33) 「チクロ旋風」物語(Ⅱ)と県警鑑定のねつ造

2012-08-18 00:00:00 | エッセー

大阪地検特捜部・検事の調書ねつ造で逮捕・処分されたが、

今度は証拠品の鑑定をする和歌山県警・科学捜査研究所の研究員のねつ造が発覚した。

この種のねつ造は、今に始まったことではないが、

今回の和歌山の科捜研の場合は、化学部門の専門職員の1人で、

麻薬事件で押収した薬物等や、ひき逃げ事故の車の塗装片等の鑑定を担当していた。

 

まあ何処の組織にも問題職員は居るにはいるが、

ねつ造原因が鑑定書の「見栄えが良くないから」とは、お粗末千万である。

こと裁判での調書や鑑定書は判決を左右する重要な証拠で、

こんな意味不明の原因でねつ造されているとしたら、我々の正権など有った物ではない。

 

さて今日の「インターネット随想」は「チクロ旋風」の続編で、

若き時代に元NHK副会長今井義典氏との出会いの物語である。

 

『私にはもう一つ、この「チクロ騒動」の中で忘れ得ぬ人との出会いがあった。

それは12月もおしせまった、寒風の吹く或る日のことである。

新調で香水の漂ったスリーピースをダンディーに着こなし、

少し小柄で眉毛の濃いドングリ目玉の青年が、研究室にやってきた。

差し出された名刺には、NHK記者『今井義典』と書かれていた。

 

彼の要件は聞かずとも、チクロの取材に来たことはすぐ理解できた。

 その時は上司不在のため、若輩の私が対応することになり、

今もはっきりと彼の名前を覚えている。

彼はNHKに入社したばかりで慶応出身の新進気鋭の記者で、

鋭い質問を浴びせられた記憶が鮮明によみがえってくる。

「何故、今まで使用していたのを禁止するのか?」「チクロの発癌性は、本当なのか?」

「アメリカが禁止したから、日本も禁止するのでないか?」

「日本では毒性実験はやっていないのか?」「食品加工業者の損害は誰が見るのか?」

「地場産業である小豆島の佃煮業界はどう成るのか?」・・・・・・

 

当時は、どの報道機関もチクロの安全性の疑いに終始していたのに対し、

彼の作った地方版のテレビは食品加工業者の立場に立って、

日本の食品添加物行政の貧弱さを、婉曲的に批判していた。

その中で『係員が仕事納めの休日を返上して、チクロ検査に追われている』と結んでおり、

少し心は和やいだ気持ちにさせられた。

 

ともかく、それから時々研究室に取材に来ては、四方山話しをして帰るように成っていた。

それから何時の間にかプッツリと連絡は途絶えたが、7~8年後に、

彼とはNHKニュースのアメリカ特派員として、ブラウン管の中で再会することに成った。

そして華々しい国際政治の中心地ワシントンで、

広い視野に立った政治記者として活躍していた。

 

彼は駆け出しの時から、早い頭の回転と独創的な視野で物事を捉えていた。

国においてもチクロ事件を契機に、外国追随の食品添加物行政から、

次第に日本の自立性を摸索する行政に変わっていった。

また彼から政治経済の「いろは」を学んだ。

もし公衆衛生に身を置く私に、その概念が少しでもあるとするなら、彼の影響によるのかも知れない。


その彼も、今では40歳半ばの熟年となり、

朝の全国放送「NHKニュースワイド」のキャスター『今井義典』として活躍している。

私にとって朝のブラウン管で再会するたびに、あのチクロ旋風が懐かしく思い出される。』  

            (○○県○○会誌、1987.1.1)

尚、その後の今井義典氏はNHK解説委員、理事、副会長と栄進し、昨年副会長を辞任した。

現在もNHKの解説委員長(67歳)として活躍している。

 

●思い出の写真から(63)  東北一周卒業旅行 (昭和39年)

○周遊券

○松島

○厳美渓

○五色沼

○釜石製鉄所(今は廃炉)





「インターネット随想」(32) 「チクロ旋風」物語(Ⅰ)と雑感

2012-08-15 00:00:00 | エッセー

毎日寝不足になったロンドンオリンピックは、

金7、銀14、銅17、計38個と歴代1位のメダル獲得数で、世界の11番目だった。

この数は多かったとか、金が少ないとか色々言うけれど、

勝負事は勝利の女神も影響するので、相対的に良く遣ったのではなかろうか。

 

そんなオリンピックに隠れてと言ったら不謹慎だが、

消費増税法案が難産のすえ民主、自民、公明3党の賛成多数で成立した。

その為か読売新聞の全国世論調査で野田内閣の支持率は27%に下降、

次の選挙で比例区に投票する政党は、自民党21%大阪維新の会16%民主党11%だった。

さぞかし民主党幹部は頭を抱えていることだろう。

 

さて今回の「インターネット随想」は古い話で恐縮だが、

我々と密接な人工甘味剤のサイクロミン酸ソーダ(チクロ)の物語である。

この「チクロ旋風」が日本の食品添加物行政の転機となった重要な事件で、

長文なので2回に分け掲載する。

 

『昭和44年の、早春のある朝である。

朝刊を広げてみると、社会面のトップに、

『人工甘味料チクロに発癌性の疑い有り。アメリカ食品医薬品局発表!』

どの新聞も大々的に報じていた。

この報道が後の食品添加物行政に大きな変化を与えようとは誰も予想しなかった。

それまで食品添加物は358種(1968.2.1)と、現在までに最も多く許可されて おり、

なかでもチクロ(サイクラミン酸ナトリウム)は、あらゆる食品に広く使用されていた。

私も学生時代の講義の中で、チクロが最も安全性が高く、

砂糖によく似た緩和な甘味剤であると教えられていたから、まさかと思っていた。

ところがアメリカはそれから2~3カ月後に、即刻食品への全面使用を禁止した。
 

当時の日本も食品添加物の安全性の論議が活発化されつつあり、

いわゆる「食品公害」と称される事件が各地で起こり始めていた。

そんな時のニュースであるから、日本の報道機関も積極的に食品添加物のチクロを、

安全性の見地から連日取り上げていた。

 

そして日本においても、その年の10月、食品衛生調査会は『食品へのチクロの禁止』を、

厚生大臣に答申し、翌年の1月より全面的に使用の禁止を決定した。

それまであらゆる食品に基準もなく無制限に使用されていたチクロが、

突然禁止されたのだから食品業界は大混乱に落ち入り、食品衛生行政に不信を抱き、

『アメリカがクシャミをすると、日本が風邪をひく』などと言う、

悪評が立ったのも、この時であった。

 

私の研究室にもチョコレート、菓子、醤油、味噌、佃煮、海苔、缶詰などあらゆる食品が、

行政サイドや食品業界から毎日持ち込まれた。

かくして連日夜遅くまで年末休みを返上し、チクロ検査に追われるはめとなった。

もちろん、各地の保健所でも簡易検査は行っていたが、

疑陽性の確認、商取引上の証明書などの精密試験には、

新鋭のガスクロマトグラフに依らなければならなかった。

この分析法の原理は、難揮発性のチクロを揮発性物質に変えて、

ガスクロマトグラフで検出する方法で、来る日も来る日も単調な試験が続いた。

しかしこの単調なチクロの試験が、後に学位論文ともなった、

『新サッカリンの分析法』開発のアイディアに結びつこうとは、

この時、私自身も気づいていなかった。「インターネット随想(30)参照」(つづく)』

 

●思い出の写真から(62) 蓼科・白樺湖・霧が峰スカイライン(昭和55年)

○ビーナスライン乗車券

○眼下に白樺湖

○前方は八ヶ岳連峰