大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

私の運動史(連合静岡時代 その4)

2016年03月16日 | 労働者福祉
「地域に根ざした顔の見える労働運動」の原点は2003年9月に発表された「連合評価委員会 最終報告」にあります。
(補足ながら「連合評価委員会」の原点は2001年10月の連合第7回定期大会特別報告「21世紀を切り開く連合運動」にあります)
連合ではこの改革に着手するために2003年10月「第1次組織・財政確立検討委員会答申」を出し、翌2004年には「第2次組織・財政確立検討委員会答申」で地方連合の改革案を打ち出します。
その内容は、全国計300(当時481地協)をメドに主体的に地協を再編し、その体制強化を行うというものでした。
連合が抱える最重要課題は「地域に根ざした顔の見える連合運動」を通じてのみ達成できるという観点から「地協」の強化を図ろうとしたものです。
具体的には静岡県においては13地協を9地協に再編し、将来的にはすべての地協に専従者と事務所を配置するというものでした。
その第1段階として3つの地協をモデル地協としてスタートさせるという考え方です。

この本部方針に対して連合静岡では2段階で取り組むこととしました。
第1段階として2006年10月より「沼津・北駿地協」「静岡地協」「浜松地協」をモデル地協として立ち上げ、同時に一人でも入れる「連合静岡ユニオン」を結成いたしました。
第2段階の改革はこの第1段階の改革を全県的な改革に繋げるための「ブロック制導入」です。
本部の目指す9地協すべてに専従者と事務所を配置することは当時の財政力や人員ではまだまだその道のりが遠いものだと私たちは判断しました。
「ブロック制」とは、東部・中部・西部の3事務所にスタッフを分散配置し、そこから地協活動をサポートするという体制ですが、これならば全県対応は可能です。
この「ブロック制」に対して事務局でも大激論が起こります。
何度も議論を繰り返しようやく活動方針が定まったのが2007年7月でした。
8月の執行委員会でも大議論がなされ、10月定期大会の第1号議案として提案される運びとなりました。
9月6日には非公式会議ではありますが、連合・労福協・ろうきん・全労済の代表者に連合事務局長・労福協事務局長を加えた「4団体代表者会議(略称R4)」も立ち上げます。
下図は当時の資料からの抜粋です。

さらにはブロック制導入とともに組織の概念も改革することを目指して「ブロックごとの5団体会議」も導入しました。
それぞれの組織が協働して動く体制が一応整いました。


(つづく)

私の運動史(連合静岡時代 その3)

2016年03月15日 | 労働者福祉
2005年10月21日の連合静岡定期大会で異例の非専従事務局長に就任しますが、役員選考委員会では7月にそのことを公式発表してありましたので、異例中の異例で8月の連合静岡書記局会議から参加しておりました。
それは来期の活動方針策定から入ったほうがやりやすいだろうという平野次期会長の配慮からです。
どうせやるならということで、以前から思っていたことをすべて提案させていただきました。

私は単組の立場、産別の立場、地協事務局長&会長の立場、地区労福協会長の立場、とオールラウンドで経験してきました。
そこで感じたことはそれぞれのステージにおけるダブり感です。
同じようなことをそれぞれが張り合って行動しても、現場地点の身体はただひとつです。
そんな議論から連合静岡第16回定期大会では、連合静岡の活動を「三つの領域」に特化することにしました。
ひとつめは「政治政策機能」。
ふたつ目は「組織対策機能」。
みっつ目は「国民運動」です。
のちに「国民運動」は「教育機能」と改称されます。
そして1年かけて「連合評価委員会 最終報告」の読み解きに入りました。
まずは事務局スタッフから入り、2006年8月27日には日曜日の終日をかけて連合静岡3役会で読み解きを行いました。

それらの地道な活動の末に2007年10月の第18回定期大会にて、第1号議案「地域に根ざした顔の見える労働運動をめざして」~連合静岡事務局のブロック体制について~が陽の目をみます。
ちなみに表紙の侍のカットは当時副事務局長であった鳥居氏の苦心作です。
彼が自宅でほぼ徹夜状態で仕上げてくれた力作です。

(つづく)

ほんとうに楽しみなものは?

2016年03月14日 | 遊び
一万歩クラブ、久しぶりの浜松でした。
始めて歩く道はワクワクして楽しいものです。
同行した市内在住者も「こんなところがあったんだ」と新しい発見があったようです。
当日(12日)は、繁華街で「がんこ祭」(全日本よさこい学生選手権)があって、街中はよさこい踊りに青春をかけている全国の学生たちであふれかえっておりました。

よさこい踊りを横目に見て、私たちは一目散にゴールの浜松駅まで歩き、そのままお目当ての餃子屋「むつぎく」さんへ急ぎます。
12時15分に到着しましたがもう長蛇の列です。
あきらめるのもしゃくですから、缶ビールを片手に1時間20分も列につながりました。
ひとりではとてもこの待ちはできませんが、4人並んで仲良くどれを頼むか喧々諤々の議論をしながら楽しく待ちました。
注文したのは大(16個)と特大(20個)です。
食べきれるか心配でしたが、4人ともペロッといきました。
浜松餃子の特徴は軽やかでフルーティーな食感にあるんですね。
今度は特大に挑戦してみたいと思います。

静岡駅に降り立つと今日は「おでんフェア」。
ふらっと会場まで歩き、熱燗一杯とおでんを楽しんで帰宅しました。
こんなふらっと感が楽しいんですよね。

東日本大震災5年目に思うこと

2016年03月11日 | 日々徒然
5年前のあの日から何を思い、何をしてきたのかをブログ「南町の独り言」から振り返ってみました。

2011年3月11日(金)「東北地方でM8.8巨大地震(3月11日)」が発生しました。
テレビから流れる映像にただただ驚くばかりでした。
自然の力(3月12日)」ってなんて凄いものなのか、人間のつくった仙台の石油コンビナートが真っ赤に燃えあがっています。
こんな大災害に「私たちにいま出来ることは(3月13日)」なんだろうと考え、まずは連合本部の古賀会長に相談の電話をしました。
古賀会長は明日中に連合方針を展開することを約束してくれました。
日ごとに「がんばれ日本(3月15日)」という声は高まっていきました。
約束通り連合本部から地震災害に対する対応方針が出され、その方針に基づいて、連合静岡から県内構成組織および各地協に対して、「東北地方太平洋沖地震による災害の対応について」のお願いを展開しました。
連合静岡事務所で回されたカンパ箱には大人のカンパとして1万円札が何枚も投じられていたことが「続がんばれ日本(3月16日)」に記録されていましたし、被災された方々を受け入れてもいいよという声も連合に寄せられました。
ほんとうにありがたいことです。
自らの「使命感(3月17日)」をもって現地にボランティア活動に入る人の記事を新聞で読んで感激しました。
連合静岡では独自に連合静岡対策本部を設置します。
対策本部では「がんばれ日本!要請Part1(3月18日)」として、県ボラ協の要請に応えてボランティア派遣を募ることとなりました。

5月GWを利用して私もボラ協のバスに乗って岩手へボランティアに出かけます。
1日目の「陸前高田市にて(4月29日)」最初の作業は腐った魚の後片付けで、その強烈な臭いに閉口しましたが、現地に立ってどうしようもない現実を見て切なくなりました。
2日目は大槌町でした(4月30日)」。
慣れない作業でみなぐったりですが、夜の反省会後の反省会(懇親会)は束の間の楽しみです。
3日目に向かった高台から見た風景はあまりに無残で「言葉になりません(5月1日)」でした。
でもこの活動を通じて巡り合った仲間との体験はかけがえのない財産になりました。
金・土・日の3日間ボランティアを無事に終えておよそ11時間のバスの旅。
往きの車内は眠れましたが、なぜか帰りは眠れませんでした。
身体はぐったり疲れていますが、精神のどこかが緊張しています。
私たちにできること(5月2日)」はなんだろうか?
その答えはそれからの私の人生にも大きな宝となって残っています。

私の運動史(連合静岡時代 その2)

2016年03月10日 | 労働者福祉
2月から始まった役員選考は石井会長の退任意向を受けて始まりましたが、その経緯も含めて古い資料をあれこれ見ながら整理を始めたら、過去をどんどん遡っていきます。
結局2002年にJAM静岡委員長に就任し、連合静岡副会長を拝命したころからの出来事から繋がっています。
政治的な問題もいろいろありました。
熊谷騒動、平成21分裂騒動、参院選候補者選定騒動、衆院選選挙違反騒動、県知事選騒動、とても文章にはできないような騒動のオンパレードでした。
JAM静岡でもストライキ騒動やハゲタカ騒動、新会館建設問題などなど実に賑やかな3年間でした。
おかげで私の体調も最悪期を迎えて、当時の日誌には「二日酔い」「アレルギー性鼻血」「蕁麻疹」「歯痛」「人間ドックD・E・F判定」「動脈硬化」の文字が踊っていました。
その一連の話をとても語れませんので、ここでは連合静岡時代のみの出来事のみに限定したいと思います。

まずは連合静岡時代の活動の柱となった「地域に根ざした顔の見える労働運動」について振り返っていきます。

(つづく)