大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

私の運動史(連合静岡時代 その9)

2016年03月28日 | 労働者福祉
2005年は波乱の年でした。
3月に行われた初の静岡政令市市議選、7月の県知事選挙、9月の第44回衆院選挙、そして10月の連合静岡第16回定期大会からは私自身が思いもよらない非専従事務局長に就任しました。

県知事選挙では現職で4期目を目指す石川嘉延氏と新人の吉田寿昭氏の戦いでした。
静岡空港と多選問題でいろいろな意見があるなかで連合静岡は現職の推薦を決定しました。
本来であれば自らが候補者を擁立すべきではありますが、そのことは現状ではままならずの消極的推薦でした。
民主党県連は推薦を見送り自由投票としたために、ここでもまた分裂選挙になりました。
民主党一部勢力も交え、現職に批判的な勢力が一本化して選挙戦を戦われました。


8月8日、参議院本会議における郵政民営化法案の否決を受けて、小泉首相は突然衆議院の解散を宣言します。
そして選挙戦最大の争点を郵政民営化に据えるとともに、自民党造反議員には刺客を送り込むなどという「小泉劇場」を展開していきます。
第44回衆院選では小泉旋風が巻き起こり、無党派層を中心とした風が小泉政権に流れていきました。
連合静岡では急きょ1区に無所属「田辺信宏」氏の推薦を決定し、短期決戦に臨みますが、結果は小選挙区2名比例復活1名(田村氏)の当選に終わり、全国的な民主党大敗という結果でした。


2005年10月21日、思いで深き「清水テルサ」の会場で、私は連合静岡事務局長に就任します。
この清水テルサは地区労福協会長時代、当時労働大臣であった「青木しんじ」参院議員にみんなで揃って陳情活動を行い、建設にこぎつけた勤労者会館でした。

(つづく)