大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

私の運動史(連合静岡時代 その8)

2016年03月24日 | 労働者福祉
2002年は私が単組を離れ、JAM静岡委員長に就任した年です。
同時に連合静岡の副委員長になりましたので、それまでは見ることのできない県内全体の政治の世界を見ることとなりました。
当時民主党県連との定例協議では、組織の体をなしていない県連の姿を感じました。
おまけに12月には9区熊谷弘氏が民主党を離党し、13人で「保守新党」を結成し分裂していきました。
翌年の県議選でも現職を落選させるなど厳しい結果で、会派離脱議員が出るなどして「平成21」の勢力も激減します。

選挙制度が変わってから3度目の衆院選挙は選挙区が9区から8区に減区された戦いであり、必勝の体制で臨むべく03年8月に7名の推薦を決定します。
11月に行われた第43回衆院選挙では小選挙区3名比例東海1名(鈴木氏)比例繰上1名(津川氏)の当選結果でした。


一方では2001年に行われた静岡県知事選挙でのいざこざで、「海野とおる」氏を次期参院選では推薦できないという声が県議団や連合内で高まり、新しい候補擁立の動きも賑やかになってきます。
そして参院選静岡選挙区に「藤本ゆうじ」氏を推薦し、激しい選挙戦を戦いました。
下表が2004年第20回参院選静岡選挙区の結果です。
激しい競り合いの末に藤本氏は薄氷を踏む思いで当選します。

産別比例候補者8名は全員当選を果たすことができ、政権交代に一歩近づきます。

しかしいくつかの選挙戦を通して連合静岡と1区牧野氏との確執も生まれ、その関係性も次第に悪化していきます。

(つづく)


私の運動史(連合静岡時代 その7)

2016年03月23日 | 労働者福祉
98年の第18回参院選静岡選挙区では連合静岡統一候補として「海野とおる」氏を擁立しました。
総力を結集しての運動を展開し、結果は見事なトップ当選でした。

2000年の第42回衆院選でも県内9選挙区すべての選挙区で推薦を決定し戦いました。
結果は小選挙区で4名当選、比例復活で2名(1区牧野氏、2区津川氏)当選という結果でした。

2001年の参院選静岡選挙区では新人「しんば賀津也」氏を擁立し戦いました。


ここまではある程度順調に進んできましたが、2002年から暗雲がたち始めます。

(つづく)

私の運動史(連合静岡時代 その6)

2016年03月22日 | 労働者福祉
連合静岡第16回定期大会(05年10月)から、連合静岡の活動を「三つの領域」に特化することにしたことはすでに述べました。
ひとつめは「政治政策機能」、ふたつ目は「組織対策機能」、みっつ目は「教育機能」です。
その領域ごとに歴史を振り返ってみます。

まずは「政治政策機能」です。
政治は連続性がありますので、連合誕生後に起こった政権交代劇から始めます。

日本の政治地図は長年「55年体制」が続いてきました。
与党第1党は自民党で野党第1党が日本社会党という体制で、1955年から始まったために「55年体制」と呼ばれたのです。
自民党は長期政権下で汚職や金権政治がはびこり政治不信を拡大させていきます。
既存政党に対する不信感・無力感から新党ブームが起き、政治改革の声が高まりを見せます。
選挙制度の改革もこのうねりのなかで行われました。

1993年の第40回衆院選挙は最後の中選挙区制度での選挙になりました。
下表が当時の選挙結果(当選者)です。
当時の労働界は連合が結成されていたとはいえ、旧4団体時代の名残でそれぞれが応援する政党はバラバラでした。
たとえば私の属した同盟では民社党の安倍氏(3区)を支援するために、1区では公明党の候補者を支援しバーター取引を行いました。
この選挙で自民党政権は倒れ8党派による連立政権「細川内閣」が誕生します。

国民の期待を大きく集めた細川内閣でしたが94年4月佐川急便事件で総辞職、その後を羽田内閣が引き継ぎます。
しかしこの内閣も短命で終わり、政権復帰を目指す自民党は日本社会党と新党さきがけと連立政権を組むという信じられないような離れ業をしかけ、94年6月村山内閣が誕生します。

これにより下野した野党は小選挙区で自民党と対等に戦うために新・新党結成の動きを急ぎ、94年12月「新進党」を結成します。
民社党や日本新党、新生党などはこの時点で解党されました。

第41回衆院選挙(1996年)からは選挙制度が大きく変わりました。
県内を9選挙区にわけての小選挙区比例代表並立制度です。
初めての小選挙区制の選挙では候補者が乱立します。
下表は静岡1区の立候補者です。

小選挙区の導入で選挙スタイルは一変します。
選挙区の有権者の心をしっかりとつかむことのできる候補者や、組織力に勝る候補者が勝利していきました。

連合静岡も大同団結して政権交代を目指す決意を固めました。
その試金石が98年の第18回参院選挙静岡選挙区の統一候補擁立です。

(つづく)

自分に対する質問

2016年03月18日 | 日々徒然
Tくんが訪ねてきた。
この先どうすればいいか迷いはじめたとのこと。

話を聞きながら彼に聞いた。
「それでTくんはほんとはどうしたいの?」
彼はしばらくの間じっと考えている。

「ゆっくり考えればいいよね、その答えが全てでしょうから」
答えにもならないような返事だが、すっきりした顔で帰っていった。

人は毎日自問自答を繰り返している。
自覚していないかもしれないが常に自問自答している。
簡単に答えの出る質問よりも、なかなか答えの出ない質問ほど深く考えさせる。
その答えが出た時に人は成長するのかもしれない。

私の運動史(連合静岡時代 その5)

2016年03月17日 | 労働者福祉
「その4」ではこのように運動の原点を紹介しましたが、新しい役員はもうすでにこの原点を知らないのかもしれません。

「地域に根ざした顔の見える労働運動」の原点は2003年9月に発表された「連合評価委員会 最終報告」にあります。
(補足ながら「連合評価委員会」の原点は2001年10月の連合第7回定期大会特別報告「21世紀を切り開く連合運動」にあります)


それでも静岡県においてはまだ「連合評価委員会」のことは忘れられてはいないと信じていますが、読んだことのない方はぜひお読みください。

2001年の「21世紀を切り開く連合運動」の存在が、その原点であることを知る役員はもう限られています。
しかもそのビジョンが、2001年1月に出された「連合21世紀宣言」から生まれたことを知る人はさらに限られます。
私自身もその事実を「語り部育成ゼミ」講師の高橋さんからお聞きして初めて知りました。
当時これらを取りまとめた笹森事務局長のもとで実務を担当した高橋さんからは貴重なお話をいくつも聞かせていただきました。
あれから15年、連合が掲げた高邁なビジョンは今どうなっているのか、その検証が求められます。


(つづく)