大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

私の運動史(連合静岡時代 その6)

2016年03月22日 | 労働者福祉
連合静岡第16回定期大会(05年10月)から、連合静岡の活動を「三つの領域」に特化することにしたことはすでに述べました。
ひとつめは「政治政策機能」、ふたつ目は「組織対策機能」、みっつ目は「教育機能」です。
その領域ごとに歴史を振り返ってみます。

まずは「政治政策機能」です。
政治は連続性がありますので、連合誕生後に起こった政権交代劇から始めます。

日本の政治地図は長年「55年体制」が続いてきました。
与党第1党は自民党で野党第1党が日本社会党という体制で、1955年から始まったために「55年体制」と呼ばれたのです。
自民党は長期政権下で汚職や金権政治がはびこり政治不信を拡大させていきます。
既存政党に対する不信感・無力感から新党ブームが起き、政治改革の声が高まりを見せます。
選挙制度の改革もこのうねりのなかで行われました。

1993年の第40回衆院選挙は最後の中選挙区制度での選挙になりました。
下表が当時の選挙結果(当選者)です。
当時の労働界は連合が結成されていたとはいえ、旧4団体時代の名残でそれぞれが応援する政党はバラバラでした。
たとえば私の属した同盟では民社党の安倍氏(3区)を支援するために、1区では公明党の候補者を支援しバーター取引を行いました。
この選挙で自民党政権は倒れ8党派による連立政権「細川内閣」が誕生します。

国民の期待を大きく集めた細川内閣でしたが94年4月佐川急便事件で総辞職、その後を羽田内閣が引き継ぎます。
しかしこの内閣も短命で終わり、政権復帰を目指す自民党は日本社会党と新党さきがけと連立政権を組むという信じられないような離れ業をしかけ、94年6月村山内閣が誕生します。

これにより下野した野党は小選挙区で自民党と対等に戦うために新・新党結成の動きを急ぎ、94年12月「新進党」を結成します。
民社党や日本新党、新生党などはこの時点で解党されました。

第41回衆院選挙(1996年)からは選挙制度が大きく変わりました。
県内を9選挙区にわけての小選挙区比例代表並立制度です。
初めての小選挙区制の選挙では候補者が乱立します。
下表は静岡1区の立候補者です。

小選挙区の導入で選挙スタイルは一変します。
選挙区の有権者の心をしっかりとつかむことのできる候補者や、組織力に勝る候補者が勝利していきました。

連合静岡も大同団結して政権交代を目指す決意を固めました。
その試金石が98年の第18回参院選挙静岡選挙区の統一候補擁立です。

(つづく)