クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

編集者と行く羽生城めぐりは?(12) ―羽生城絵図―

2010年11月15日 | 羽生城跡・城下町巡り
遺構の消えた羽生城は、
一体どんな姿をしていたのだろうか?

この謎を解くヒントに“絵図”がある。
現在、羽生城絵図と呼ばれるものは2種類ある。
「浅野文庫蔵諸国古城之図」と、
「武陽羽生古城之図」だ。

もう一つ、「東谷の絵図」と呼ばれるものがあるが、
これは正確に言うと、羽生城跡の図。
幕末に城跡に陣屋を築かれる際に、
描かれたものと考えられている。

「浅野文庫蔵諸国古城之図」に収録された絵図は、
現在のところ羽生城最古の絵図である。
広島市立図書館が所蔵し、
ときの広島藩主が、軍学研究のために集めた絵図の中に、
その一枚が収録された。
江戸初期に描かれたものと推定されている。

一方、「武陽羽生古城之図」は古くから羽生にあったらしい。
冨田勝治記の「羽生城との出合い」によると、
古物商に務めていた友人が見付け、
それを「柳八重」に見せたという。
柳氏は神主兼郷土史家であり、
そこから二人の交流が始まったと記されている。

この二つの絵図は、比べてみるといくつかの違いがある。
大きな違いは、南を覆っていた大沼が陸地化し、
小沼が2つ残っているだけになっている点だろう。

羽生城は大沼を背景に築かれた平城だった。
その沼の大きさは、「正保年中改定図」に描かれているように、
8ヶ村にまたがるものだった。

現在の羽生市役所の辺りは湿地帯で、
沼がいくつか残っていたというが、
それはその大沼の名残だろう。
そもそも、「城沼」という地名がいまでも使われている。

絵図の中央にあって、丸い形をした曲輪(くるわ)が本丸である。
西へ行くごとに、二の丸、三の丸となる。
絵図の北東に描かれているのが、天神曲輪である。
『新編武蔵風土記稿』に「城ありし頃は天神曲輪と云り」とあるように、
現在の古城天満宮と比定される。

最西が城下町であり、
本町通り示すと思われる線と道が描かれている。
現在の風景に、この絵図を重ねることは容易ではない。
かなり想像力をたくましくしないと見えてこない。

現在郷土資料館で開催されている「冨田勝治展」では、
本物ではないものの、
この2枚の羽生城絵図を見ることができる。
11月に出版された『羽生城と木戸氏』(戎光祥出版)の表紙を飾っているのも、
武陽羽生古城之図である。

城の遺構は全て消えてしまい、
「お城」の雰囲気を味わうことができない。
地面はアスファルトに覆われ、
沼の名残もない。
しかし、確かにそこに上杉謙信に仕え、
戦国乱世に翻弄された城があったことを、
2枚の絵図は伝えている。


古城天満宮(埼玉県羽生市東5丁目)に建っている羽生城絵図の看板。
これは「武陽羽生古城之図」を参考にしたもの



『羽生城と木戸氏』(冨田勝治著 戎光祥出版社)
この本の表紙を飾っているのは「武陽羽生古城之図」である。



<企画展「「放課後の羽生城」のモデル 冨田勝治の蔵書から」>
期間:平成22年10月23日(土)~11月28日(日)
会場:羽生市立図書館・郷土資料館展示室
開館時間:9時~17時
入館料:無料
休館日:毎週火曜日(11月23日は開館)、10月28日、11月24日、11月25日が休館


羽生市立図書館・郷土資料館ホームページ
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/

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