クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

作家の卵たちと闇鍋のあとに……

2020年05月02日 | ブンガク部屋
前回触れた『それでも作家になりたい人のブックガイド』(スガ秀実・渡部直己共著、太田出版)を読んだのは、1997年の春でした。
本書はベストセラーになったので、
僕の周囲にも愛読者はいました。

あの頃、近くには比較的多くの「作家の卵」が存在していたものです。
携帯電話はあってもスマートフォンではなく、SNSも一般的ではなかった1997年において、すでに若者の読書離れは言われていましたが、
「小説」に限らず文字で表現したい人は多く存在していたと思います。

「活字離れ」とは無関係のごとく彼らは本を読んでいました。
何者かになりたくて、ひとかどの人間になりたくて、積み上げられた本。
窓際の席で静かにページをめくる彼らの横顔は、
近寄り難い魅力を湛えながら、どこか憂いを帯びていたのを覚えています。

目指すものがありました。
そんな彼らから影響を受けたとすれば、
1冊でも多くの本を読みたかったことや、
1つでも作品を書きたかったことでしょうか。
できることなら全ての時間をそこに費やしたい。
そんなはしかのような熱に僕もかかっていました。

得てして寡黙だった彼らは不器用で、なかなか口で自己表現できないから、
文字で自分の世界を表そうとしていたのかもしれません。

確かに、自分を誇張してアピールするタイプは、
自信のなさの裏返しかもしれませんが、
自分で言うほど他者の評価と一致しないものです。

そんなタイプよりも、寡黙に自分の世界を構築している人には意表を突かれます。
人知れず努力を重ねている人。
想像を遥かに超えてきます。

不器用に見えた彼らでしたが、むろん全員ではないにせよ、
物静かな裏に不気味な躍動感を感じたものです。

千や万の言葉を並べるより、一つの成果がそれを凌駕します。
結果が出ない内は、どんなに言葉を並べても言い訳に聞こえてしまうもの。
だからこそ、彼らは黙々と築いていたのでしょう。
読み終えた蔵書を、作品を、自分にしか構築できない世界を……。

ときどき彼らの家に遊びに行くことがありましたが、
圧倒的存在感を放っていたのは、部屋にある蔵書でした。
部屋の書棚にたくさん並ぶ蔵書。
彼らが書く原稿よりも世界を表していたと思います。

Sさんの部屋を訪れたのは、1997年の秋のことです。
アパートの壁一面に並ぶ蔵書は圧巻でした。
彼もまた『それでも作家……』の愛読者で、文芸批評家の影響を受けていたせいか、
傾向として多かったのは人文系の本です。

ジャック・デリダ『エクリチュールと差異』、ジャック・ラカン『エクリ』、ジル・ドゥルーズ『差異と反復』『千のプラトー』、マルティン・ハイデガー『存在と時間』、ジャン・ポール・サルトル『存在と無』、サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』、柄谷行人『日本近代文学の起源』、蓮見重彦『陥没地帯』、浅田彰『構造と力』、吉本隆明『日本共同幻想論』

小説よりも論文が書けそうなラインナップでした。
そんなSさんは作家「高橋源一郎」のファンで、
『さようなら、ギャングたち』や『ペンギン村に陽は落ちて』の作品は、
特別な位置に置かれていたことは言うまでもありません。

悪友たち(?)と催した闇鍋パーティ後に訪れたSさん宅でしたが、
蔵書と彼の言葉は隠し味だった気がします。

蔵書を前にして、Sさんは物静かに言葉を紡ぎました。
あの作家の情報量はすさまじいとか、
作家を分けるという『構造と力』は読んだか否か、
どんなものを書きたいかとか、
もっと本を読んで勉強したいとか、
将来どんな作家になりたいかとか、
インタビューされたときの言葉はすでに考えてあるとか、
あまり饒舌ではないSさんは、その日に限って口が滑らかだったと思います。

寡黙なSさんが、実は熱いものを持つ人と知ったのはそのときが初めてでした。
また、屈折したものが内面にあることは、自分も含めて同じだな、とも。
壁一面に並ぶ蔵書が、彼の抱える葛藤を象徴している気がしました。

しかし、それからおよそ1ヵ月後、Sさんは突然僕たちの前からいなくなります。
『ノルウェイの森』(村上春樹)に登場する「突撃隊」のように、
何の前触れもなく消え、二度と現れなかったのです。
事件に巻き込まれたわけではないようですが、
連絡も取れず、そのまま呆気ない別れを迎えたのでした。

あれから20年以上もの歳月が流れ、Sさんの名前すらわからなくなっています。
彼のアパートがどこにあったのか、もはや忘却の彼方です。
さすがにそのアパートには住んでいないでしょう。
大人になったSさんを想像することができませんが、
いまも蔵書が増殖している気がします。

そんなSさんを含めて作家の卵たちが近くにいたあの頃、
思い返すたび、いつもと違う風が吹いていたのを感じます。
隣を向けば『純粋理性批判』を読んでいたOさん。
廊下には文豪然としたやせぎすのYさんが手書きで小説を書き、
その前では風俗店で働くAさんがタバコを吸いながら詩の推敲。

僕の限られた世界では、もうあんな季節は過ごせないのかもしれません。
明らかに、「文化財」や「学芸員」といった世界とは異なる風が吹いていました。

日本で初めて翻訳された『ラ・ボエーム』(アンリ・ミュルジェール作、辻村永樹訳、光文社古典新訳文庫)を読んだとき、
そんな季節を思い出したのは、登場する主人公の群像がいずれも芸術家(音楽家、詩人、哲学者、詩人)だからでしょう。
文化芸術的な人間が集まると、独特の空気が醸成されるのかもしれません。
鬱屈したものもたくさん抱えていましたが、
たった一度だけ目にしたSさんの蔵書のように、
ときどきあの頃の風に吹かれてみたいと思うのです。

20年以上もの歳月が流れると、いろいろなものが変わりました。
僕の書棚には、あの頃目に留まることすらなかった本が並んでいます。

でも、変わらないものもあります。
本の匂いのする人、逃げない人、
例え普遍的なものでも独自の世界を構築している人に惹かれます。
あの頃よりももっと本が読みたいし、
例えつたなくても本を書いていたいと思うのです。

1997年の春に高田馬場で買った『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』は、いまも大切に持っています。
そして、その隣にあるのは『存在と時間』や『純粋理性批判』の人文系の本。
Sさんの像もぼやけつつありますが、
あの頃を象徴する本には、彼らと過ごした季節の風が流れているような……
そんな気がします。

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2 コメント

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Unknown (treasure)
2020-05-05 12:08:40
私も同じように将来やりたいことを語る仲間との場は持てましたが、社会人になって何をやりたいか分からなくなっていた頃です。クニさんは結構早い時期に良い仲間との場を持てたように思えます。

私も社会人になってから本を読まなくなったクチですが、最近は翻訳者を目指すうえでも国語力は必要と思って本を貪り読んでいます。

妻の実家が取り壊されたこともあって、妻の蔵書?の整理で本棚を作りましたが、本の多さに圧倒されています。

このような時節柄ですので、くれぐれも健康には注意してください。
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Unknown (クニ)
2020-05-06 15:11:02
十代後半は、衝撃的な人や本との出会いであふれていた気がします。
建物全部が本で埋まっていた紀伊国屋書店を知ったときもぶっ飛びました。
世の中にはこんなにも読んでみたい本で溢れているのかと、人に限らずさまざまな出会いが教えてくれたように思います。

奥さんの蔵書は圧倒的だったのですね。
本はその人を表していると言います。
奥さんに対する意外な発見もあったでしょうか。

妻の曽祖父は教授だったので、実家には専門書が並んでいます。
僕のテーマとは異なるのですが、眺めているだけで刺激を貰います。
本がたくさんある場所というのはいいですよね。

何か一つでも目指すことがあれば、時間も出会いも出来事も、全てそちらに向かって流れていくと言います。
漠然と読むより、テーマや視点を絞った読書は吸収力は断然違うのではないでしょうか。

緊急事態宣言が延長となりました。
treasureさんもくれぐれもお体にお気を付けください。
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