新郷川俣関所碑から土手沿いにしばらく西へ行くと、
白山神社が見えてきます。
小さな社殿に庚申塔や石灯籠が点在し、
お世辞にも大きな神社とは言えず、
その知名度も付近から離れれば、とても低いのではないでしょうか。
そんなひっそりとした神社ですが、
実はここには加藤清正に関係した伝説が残っています。
加藤清正は、言わずと知れた賤ヶ岳七本槍の一人です。
永禄五年(一五六二)~慶長十六年(一六一一)に活躍した武人で、
特に朝鮮出兵や関ヶ原の戦いでは、その武功を大いに世に知らしめました。
「豪傑」という言葉がよく似合う武将です。
天正十六年(一五八五)に熊本城主となり、
築城や治水などの名手とも伝えられています。
その加藤清正が、城の修築という徳川家康の命によって江戸へ出向いたときのことでした。
清正は直接江戸へ足を運ばす、
館林城主榊原康政の三男に嫁いだ娘に会いに館林へ寄りました。
娘の元気な姿を見て安心した清正でしたが、その帰り道相次ぐ戦で疲労は蓄積しており、
利根川を渡っているときに高熱を出してしまいました。
慌てた家来たちは、すぐに休ませる場所を探します。
ところが、辺りに民家はなく、どこまでも茅原が広がっているだけでした。
家来たちが困り果てたそのとき、ふと焚き火をしている白髪の老人に気付きました。
焚き火の上に釜をかけ、中から白い湯気がゆらゆらと漂っています。
彼らは老人に近付くと、声を掛けました。
「ここで何をしている?」
老人は家来たちに向かってこう言いました。
「私はここを通る旅人たちの疲れを癒すため、お湯を沸かして差し上げています」
家来たちはそれを聞いて喜びました。
家来たちはそれを聞いて喜びました。
早速清正に事情を話し老人のところへ連れていくと、
釜の中のお湯を一杯差し上げました。
するとどうでしょう。
不思議なことに、清正はみるみる元気を取り戻したのです。
清正は老人にお礼を言い、再び江戸へ向かって出発しました。
ところが、その旅の途中、輿の中でまどろんでいた清正に、
突如あの白髪の老人が現れました。
「私は白山権現である。この先お前の馬が病死するだろう。気を付けなさい」
老人はそう言うと、すっと消えてしまいました。
清正は目を覚まします。
周囲に目を走らせましたが、白髪の老人はどこにもいません。
――あれは夢か現実か……
清正は両手を合わせました。
加藤清正の一行が、屈巣村(旧川里町)に差し掛かったときのことです。
それまで元気だった清正の愛馬が突然病に罹り、あっと言う間に死んでしまったのです。
――あれは夢ではなかったか!
清正は来た道を引き返します。
急いで老人のいた場所まで戻りましたが、そこには誰もおらず、
焚き火の跡さえありませんでした。
清正は白髪の老人が白山権現であったことを深く思い知りました。
そして、老人のいた場所に佩刀を埋めると、白山神社を祀ったということです。
これが羽生市新郷の白山神社に伝わる加藤清正伝説です。
ちなみに、屈巣村にある馬頭観音は、同村で清正の愛馬が病死したことによるといいます。
ただ『新編武蔵風土記稿』の屈巣村「観音堂」を見ると、
石田三成の愛馬が病気になったとき、
介抱を頼まれた村人は馬を殺して金を騙し取ったため、
祟りにあったことから観音堂を建てたとあります。
「観音寺」の本尊は馬頭観音でもありますから、
いずれにしても馬とゆかりのある地域のようです。
この白山神社は利根川堤防の改修により、近年の内に当地からほかへ遷座します。
実は、昭和三十四~三十五年にもすでに遷座しました。
なので、今回は二回目ということになります。
白山神社の祭りは、春秋に上新郷の別所耕地で行われています。
春祭りにお焚き上げがあり、この火に当たると風邪をひかないそうです。
また二月五日にはヒョットコ祭りがあったそうですが、いまはありません。
『埼玉の神社』(埼玉県神社庁神社調査団編)によると、
氏子の参詣方法は独特なものです。すなわち、
まず神社に参り一拝し、右回りに社殿を一巡し、表に至る。
更に続けて半ば回り裏手に来ると、笹を取って社殿の壁にこれを差し込み、
トントンと二回壁をたたき、再び表に至る。
更に、一巡し、表に来ると一拝するものである。
これは特別な祈願の場合ではなく、平素でも行われているものであり、
古い参拝形式を伝えているといえよう
現在、郷土資料館では利根川沿いの社寺を重点的に調査しています。
先日も白山神社へ足を運び、石碑のデータをとってきました。
神社はその土地の歴史が詰まった集合体のようなものです。
ぼくは庚申塔や石灯籠のデータをとりながら、なるべく地面に視線を走らせていました。伝説とはいえ、加藤清正の佩刀を半ば期待していたからです。
結局佩刀らしきものは見当たらず、小石が転がっているだけでした。
その日は風が強く、調査は途中で打ち切りとなりました。
あまりの風の冷たさに、調査員たちは体を震わせ、何度もくしゃみをしていました。
もしあのとき風邪を引いていたら、白髪の老人が突如現れて、
お湯を沸かしてくれたかもしれません。
参考文献
埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社』
堀越美恵子 田村治子著『羽生昔がたり第九巻』
日置昌一編『日本系譜綜覧』
白山神社が見えてきます。
小さな社殿に庚申塔や石灯籠が点在し、
お世辞にも大きな神社とは言えず、
その知名度も付近から離れれば、とても低いのではないでしょうか。
そんなひっそりとした神社ですが、
実はここには加藤清正に関係した伝説が残っています。
加藤清正は、言わずと知れた賤ヶ岳七本槍の一人です。
永禄五年(一五六二)~慶長十六年(一六一一)に活躍した武人で、
特に朝鮮出兵や関ヶ原の戦いでは、その武功を大いに世に知らしめました。
「豪傑」という言葉がよく似合う武将です。
天正十六年(一五八五)に熊本城主となり、
築城や治水などの名手とも伝えられています。
その加藤清正が、城の修築という徳川家康の命によって江戸へ出向いたときのことでした。
清正は直接江戸へ足を運ばす、
館林城主榊原康政の三男に嫁いだ娘に会いに館林へ寄りました。
娘の元気な姿を見て安心した清正でしたが、その帰り道相次ぐ戦で疲労は蓄積しており、
利根川を渡っているときに高熱を出してしまいました。
慌てた家来たちは、すぐに休ませる場所を探します。
ところが、辺りに民家はなく、どこまでも茅原が広がっているだけでした。
家来たちが困り果てたそのとき、ふと焚き火をしている白髪の老人に気付きました。
焚き火の上に釜をかけ、中から白い湯気がゆらゆらと漂っています。
彼らは老人に近付くと、声を掛けました。
「ここで何をしている?」
老人は家来たちに向かってこう言いました。
「私はここを通る旅人たちの疲れを癒すため、お湯を沸かして差し上げています」
家来たちはそれを聞いて喜びました。
家来たちはそれを聞いて喜びました。
早速清正に事情を話し老人のところへ連れていくと、
釜の中のお湯を一杯差し上げました。
するとどうでしょう。
不思議なことに、清正はみるみる元気を取り戻したのです。
清正は老人にお礼を言い、再び江戸へ向かって出発しました。
ところが、その旅の途中、輿の中でまどろんでいた清正に、
突如あの白髪の老人が現れました。
「私は白山権現である。この先お前の馬が病死するだろう。気を付けなさい」
老人はそう言うと、すっと消えてしまいました。
清正は目を覚まします。
周囲に目を走らせましたが、白髪の老人はどこにもいません。
――あれは夢か現実か……
清正は両手を合わせました。
加藤清正の一行が、屈巣村(旧川里町)に差し掛かったときのことです。
それまで元気だった清正の愛馬が突然病に罹り、あっと言う間に死んでしまったのです。
――あれは夢ではなかったか!
清正は来た道を引き返します。
急いで老人のいた場所まで戻りましたが、そこには誰もおらず、
焚き火の跡さえありませんでした。
清正は白髪の老人が白山権現であったことを深く思い知りました。
そして、老人のいた場所に佩刀を埋めると、白山神社を祀ったということです。
これが羽生市新郷の白山神社に伝わる加藤清正伝説です。
ちなみに、屈巣村にある馬頭観音は、同村で清正の愛馬が病死したことによるといいます。
ただ『新編武蔵風土記稿』の屈巣村「観音堂」を見ると、
石田三成の愛馬が病気になったとき、
介抱を頼まれた村人は馬を殺して金を騙し取ったため、
祟りにあったことから観音堂を建てたとあります。
「観音寺」の本尊は馬頭観音でもありますから、
いずれにしても馬とゆかりのある地域のようです。
この白山神社は利根川堤防の改修により、近年の内に当地からほかへ遷座します。
実は、昭和三十四~三十五年にもすでに遷座しました。
なので、今回は二回目ということになります。
白山神社の祭りは、春秋に上新郷の別所耕地で行われています。
春祭りにお焚き上げがあり、この火に当たると風邪をひかないそうです。
また二月五日にはヒョットコ祭りがあったそうですが、いまはありません。
『埼玉の神社』(埼玉県神社庁神社調査団編)によると、
氏子の参詣方法は独特なものです。すなわち、
まず神社に参り一拝し、右回りに社殿を一巡し、表に至る。
更に続けて半ば回り裏手に来ると、笹を取って社殿の壁にこれを差し込み、
トントンと二回壁をたたき、再び表に至る。
更に、一巡し、表に来ると一拝するものである。
これは特別な祈願の場合ではなく、平素でも行われているものであり、
古い参拝形式を伝えているといえよう
現在、郷土資料館では利根川沿いの社寺を重点的に調査しています。
先日も白山神社へ足を運び、石碑のデータをとってきました。
神社はその土地の歴史が詰まった集合体のようなものです。
ぼくは庚申塔や石灯籠のデータをとりながら、なるべく地面に視線を走らせていました。伝説とはいえ、加藤清正の佩刀を半ば期待していたからです。
結局佩刀らしきものは見当たらず、小石が転がっているだけでした。
その日は風が強く、調査は途中で打ち切りとなりました。
あまりの風の冷たさに、調査員たちは体を震わせ、何度もくしゃみをしていました。
もしあのとき風邪を引いていたら、白髪の老人が突如現れて、
お湯を沸かしてくれたかもしれません。
参考文献
埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社』
堀越美恵子 田村治子著『羽生昔がたり第九巻』
日置昌一編『日本系譜綜覧』
参拝形式、面白いです!
なんだか、連続のコメントですみません(笑)
このブログで白山神社の記事を掲載したところ、
昔話よりも、白山神社そのものに興味を持たれ方が多かったです。
これはぼくにとってちょっと意外な反応でした。
白山神社の観点から見た、信長の焼香投げつけ事件は面白いですね。
とても興味がわきます。
もし羽生の白山神社が加藤清正ではなく、
織田信長との繋がりがあったとしたら……
と、そんな空想をすると、何だかワクワクしてきます(笑)