加須市内で記念樹を見かけた。
1996年8月2日、加須ロータリークラブが創立25周年として、
公園内に藤の木を植えたらしい。
ちょうど春の季節で、藤の花が満開に咲いていた。
2024年は1996年と同じ暦という。
今年の8月2日は金曜日だから、
1996年も週末に位置していたことになる。
その年は高校生最後の夏休みだった。
だから家と図書館を行き来していたわけだが、
ときどき閉館後に利根川へ足を延ばした。
図書館には知っている同級生の顔が何人かあって、机に向かっていた。
過ぎていく日々の中、言葉を交わしたいのに話しかけられない人がいた。
どんな日常を過ごし、卒業後はどんな未来を思い描いているのか。
ついこの間まで、何の気兼ねもなく言葉を交わしていたのに。
あの日を境とするまで、いろんなことを話していたのに、近くて一番遠い人がいた。
人と人とのつながりの曖昧さと不安定さ、どうにもならない現実の苦しさを感じた。
一方で、思いも寄らないきっかけで出会う人もいた。
全く知らなかった世界がそこから広がった。
すぐ横にある苦しさの一方で、日々のテンションは高かった。
朝は「ひらけ!ポンキッキ」でコニーちゃんとジャンケンをして、
日曜の夜には大河ドラマ「秀吉」にワクワクした。
渇くような読書熱にうなされて、書店で何冊もの本を買い込んだ。
眩しい太陽と土砂降りの雨がいつも同居しているようなもので、
心の中はモヤモヤしていた。
何かを伝えたいのにそれを表現できず、息苦しさにあえいだ。
自然とペンを執った。
ときどきギターも弾いたが、文章を書くことの方が性に合っていた。
伝えたいこと、語りたいことがあった。
もし、拭えない苦しさがなければ、文章を書くことなどなかったと思う。
本に居場所を求めていたら、自分が居場所になればいいのではないか。
そう思ったのはいつだっただろう。
不安定な人と人とのつながりに傷つくくらいなら、本のような立ち位置でありたいと。
必要なときに手に取り、役目を終えればまた離れていく。
壊れていったものたちを思うと、そんな立ち位置が一番受け入れられる気がした。
満開に咲く藤を見上げながら、1996年の夏を思った。
金曜日だった8月2日、自分がどう過ごしていたのか、むろん覚えているはずもない。
いつも通り図書館へ行って、帰りに利根川へ足を延ばしたのか。
特別でもない代わり、ありふれた数字というわけでもなかった。
見上げた夏空に、見付けられない言葉を探したのかもしれない。
小耳に挟んだところによると、8月2日の藤は曖昧な位置にいるという。
存続が危ぶまれているのだとか。
不安定で未來が定まらない。
望んでも壊れてしまう居場所がある。
1996年と同じ暦の中、8月2日の藤は今年も夏至を迎えた。
1996年8月2日、加須ロータリークラブが創立25周年として、
公園内に藤の木を植えたらしい。
ちょうど春の季節で、藤の花が満開に咲いていた。
2024年は1996年と同じ暦という。
今年の8月2日は金曜日だから、
1996年も週末に位置していたことになる。
その年は高校生最後の夏休みだった。
だから家と図書館を行き来していたわけだが、
ときどき閉館後に利根川へ足を延ばした。
図書館には知っている同級生の顔が何人かあって、机に向かっていた。
過ぎていく日々の中、言葉を交わしたいのに話しかけられない人がいた。
どんな日常を過ごし、卒業後はどんな未来を思い描いているのか。
ついこの間まで、何の気兼ねもなく言葉を交わしていたのに。
あの日を境とするまで、いろんなことを話していたのに、近くて一番遠い人がいた。
人と人とのつながりの曖昧さと不安定さ、どうにもならない現実の苦しさを感じた。
一方で、思いも寄らないきっかけで出会う人もいた。
全く知らなかった世界がそこから広がった。
すぐ横にある苦しさの一方で、日々のテンションは高かった。
朝は「ひらけ!ポンキッキ」でコニーちゃんとジャンケンをして、
日曜の夜には大河ドラマ「秀吉」にワクワクした。
渇くような読書熱にうなされて、書店で何冊もの本を買い込んだ。
眩しい太陽と土砂降りの雨がいつも同居しているようなもので、
心の中はモヤモヤしていた。
何かを伝えたいのにそれを表現できず、息苦しさにあえいだ。
自然とペンを執った。
ときどきギターも弾いたが、文章を書くことの方が性に合っていた。
伝えたいこと、語りたいことがあった。
もし、拭えない苦しさがなければ、文章を書くことなどなかったと思う。
本に居場所を求めていたら、自分が居場所になればいいのではないか。
そう思ったのはいつだっただろう。
不安定な人と人とのつながりに傷つくくらいなら、本のような立ち位置でありたいと。
必要なときに手に取り、役目を終えればまた離れていく。
壊れていったものたちを思うと、そんな立ち位置が一番受け入れられる気がした。
満開に咲く藤を見上げながら、1996年の夏を思った。
金曜日だった8月2日、自分がどう過ごしていたのか、むろん覚えているはずもない。
いつも通り図書館へ行って、帰りに利根川へ足を延ばしたのか。
特別でもない代わり、ありふれた数字というわけでもなかった。
見上げた夏空に、見付けられない言葉を探したのかもしれない。
小耳に挟んだところによると、8月2日の藤は曖昧な位置にいるという。
存続が危ぶまれているのだとか。
不安定で未來が定まらない。
望んでも壊れてしまう居場所がある。
1996年と同じ暦の中、8月2日の藤は今年も夏至を迎えた。