何をやってもうまくいかないことがあります。
頑張っても空回り。
届く知らせは気持ちを重くさせるものばかり。
そういう“谷”のような期間が、人生には多かれ少なかれあると思います。
太宰治が群馬県水上を訪れたのは昭和11年のこと。
パビナール中毒と肺病の療養を兼ねて谷川温泉を訪れるのですが、
太宰にとってちょうどこの頃が一つの谷だったようです。
本来ならば、同地に吉報が届くはずでした。
芥川賞の受賞。
太宰は受賞を確信していたのです。
それによって過去を清算するばかりでなく、
借金を抱えていた彼は賞金をあてにもしていました。
ところが、まさかの落選。
宿泊先の川久保屋(現「旅館たにがわ」)でその知らせを受け、
失意の底に叩き込まれます。
あまつさえ、怒りも湧き起こったらしく、
選考委員だった川端康成を攻撃する文章も執筆。
昭和11年8月のことです。
同年10月、妻の小山初代が友人の小館善四郎と過ちを犯します。
ちょうどそのとき、太宰は精神科の病院に入院したばかりでした。
タイミングは重なるものです。
小館は自殺未遂によって別の病院に入院しており、
たまたま初代がその看病をすることになったときに過ちが起こるのです。
太宰が健在で、かつ小館を看病しなければ平穏だったかもしれません。
太宰にとってこれも一つの谷です。
彼がその過ちを知るのは翌年3月ですが、
知らないところで谷は深くえぐられていたことになります。
翌月になると、青森から長兄が上京。
生活費の送金は昭和14年10月30日までとし、3年間は会わないと約束をさせられてしまいます。
当時、太宰は28歳で、現代人の感覚ならばさほど同情心は起きません。
が、彼にとっては絶縁状を突きつけられたようなものだったのでしょう。
そのとききっと思ったはずです。
もし芥川賞を受賞していれば……と。
太宰治小山初代と再び水上の川久保屋を訪ねたのは、
昭和12年3月のことです。
妻と友人の過ちを知った太宰は、谷川岳山麓で自殺を図るのです。
首に帯をくくり付け、カルモチンを多量に服薬。
昏睡し、谷へ転げ落ちる衝動で縊死も図ったようですが、結局は失敗に終わります。
太宰は初代を残して一人帰り、離別を決意したのでした。
自分の経験や起こった事件が「ネタ」になるのは、
物書きの良いところであり、悲しいことかもしれません。
太宰は、水上での自殺未遂事件を「姥捨」というタイトルで小説にしています。
昭和13年8月に版元へ送付。
同年10月には「新潮」に掲載されました。
水上駅に到着したのは、朝の四時である。まだ、暗かった。心配していた雪もたいてい消えていて、駅のもの陰に薄鼠いろして静かにのこっているだけで、このぶんならば山上の谷川温泉まで歩いて行けるかも知れないと思ったが、それでも大事をとって嘉七は駅前の自動車屋を叩き起こした。(「姥捨」より)
「姥捨」には具体的な地名が登場します。
自殺を図り、目を覚ましたあとのことが具体的に描かれ、眉を顰める読者もいるでしょう。
そして、太宰は書きます。
そのとき、はっきり決心がついた。
この女は、だめだ。おれにだけ、無際限にたよっている。ひとから、なんと言はれたっていい。おれは、この女とわかれる。(「姥捨」より)
水上での自殺未遂事件が本当かどうかはわかりません。
実際にあったとして、その後安定期を迎えることを考えれば、
自殺未遂事件は谷から次のステージへ進む通過儀礼と言うことができそうです。
さて、太宰治が実際に宿泊した「川久保屋」は現在も経営を続けています。
さすがに昭和11、12年当時の建物ではなく、
その名も「旅館たにがわ」に改名されています。
ただ、旅館内に太宰治の展示室が設けられており、
資料を通して当時を偲ぶことができるでしょう。
ところで、人生の谷を抜けたあと、太宰はいわゆる安定期である中期に入ります。
石原美知子と結婚し、家庭を持つのです。
中期に書かれた作品は明るく、それまでの尖がったものが丸くなった印象を受けます。
やまない雨がないように、やがては谷から抜ける日が来るということでしょう。
しかし、太宰は安定した暮らしをも自ら壊していくことになります。
それがこの作家の性だったのかもしれません。
失意を抱えて谷川温泉で過ごす日々の向こうには救いがありましたが、
その約10年後の昭和23年に玉川上水へ飛び込んだ太宰は、
息を吹き返すことはなかったのでした。
頑張っても空回り。
届く知らせは気持ちを重くさせるものばかり。
そういう“谷”のような期間が、人生には多かれ少なかれあると思います。
太宰治が群馬県水上を訪れたのは昭和11年のこと。
パビナール中毒と肺病の療養を兼ねて谷川温泉を訪れるのですが、
太宰にとってちょうどこの頃が一つの谷だったようです。
本来ならば、同地に吉報が届くはずでした。
芥川賞の受賞。
太宰は受賞を確信していたのです。
それによって過去を清算するばかりでなく、
借金を抱えていた彼は賞金をあてにもしていました。
ところが、まさかの落選。
宿泊先の川久保屋(現「旅館たにがわ」)でその知らせを受け、
失意の底に叩き込まれます。
あまつさえ、怒りも湧き起こったらしく、
選考委員だった川端康成を攻撃する文章も執筆。
昭和11年8月のことです。
同年10月、妻の小山初代が友人の小館善四郎と過ちを犯します。
ちょうどそのとき、太宰は精神科の病院に入院したばかりでした。
タイミングは重なるものです。
小館は自殺未遂によって別の病院に入院しており、
たまたま初代がその看病をすることになったときに過ちが起こるのです。
太宰が健在で、かつ小館を看病しなければ平穏だったかもしれません。
太宰にとってこれも一つの谷です。
彼がその過ちを知るのは翌年3月ですが、
知らないところで谷は深くえぐられていたことになります。
翌月になると、青森から長兄が上京。
生活費の送金は昭和14年10月30日までとし、3年間は会わないと約束をさせられてしまいます。
当時、太宰は28歳で、現代人の感覚ならばさほど同情心は起きません。
が、彼にとっては絶縁状を突きつけられたようなものだったのでしょう。
そのとききっと思ったはずです。
もし芥川賞を受賞していれば……と。
太宰治小山初代と再び水上の川久保屋を訪ねたのは、
昭和12年3月のことです。
妻と友人の過ちを知った太宰は、谷川岳山麓で自殺を図るのです。
首に帯をくくり付け、カルモチンを多量に服薬。
昏睡し、谷へ転げ落ちる衝動で縊死も図ったようですが、結局は失敗に終わります。
太宰は初代を残して一人帰り、離別を決意したのでした。
自分の経験や起こった事件が「ネタ」になるのは、
物書きの良いところであり、悲しいことかもしれません。
太宰は、水上での自殺未遂事件を「姥捨」というタイトルで小説にしています。
昭和13年8月に版元へ送付。
同年10月には「新潮」に掲載されました。
水上駅に到着したのは、朝の四時である。まだ、暗かった。心配していた雪もたいてい消えていて、駅のもの陰に薄鼠いろして静かにのこっているだけで、このぶんならば山上の谷川温泉まで歩いて行けるかも知れないと思ったが、それでも大事をとって嘉七は駅前の自動車屋を叩き起こした。(「姥捨」より)
「姥捨」には具体的な地名が登場します。
自殺を図り、目を覚ましたあとのことが具体的に描かれ、眉を顰める読者もいるでしょう。
そして、太宰は書きます。
そのとき、はっきり決心がついた。
この女は、だめだ。おれにだけ、無際限にたよっている。ひとから、なんと言はれたっていい。おれは、この女とわかれる。(「姥捨」より)
水上での自殺未遂事件が本当かどうかはわかりません。
実際にあったとして、その後安定期を迎えることを考えれば、
自殺未遂事件は谷から次のステージへ進む通過儀礼と言うことができそうです。
さて、太宰治が実際に宿泊した「川久保屋」は現在も経営を続けています。
さすがに昭和11、12年当時の建物ではなく、
その名も「旅館たにがわ」に改名されています。
ただ、旅館内に太宰治の展示室が設けられており、
資料を通して当時を偲ぶことができるでしょう。
ところで、人生の谷を抜けたあと、太宰はいわゆる安定期である中期に入ります。
石原美知子と結婚し、家庭を持つのです。
中期に書かれた作品は明るく、それまでの尖がったものが丸くなった印象を受けます。
やまない雨がないように、やがては谷から抜ける日が来るということでしょう。
しかし、太宰は安定した暮らしをも自ら壊していくことになります。
それがこの作家の性だったのかもしれません。
失意を抱えて谷川温泉で過ごす日々の向こうには救いがありましたが、
その約10年後の昭和23年に玉川上水へ飛び込んだ太宰は、
息を吹き返すことはなかったのでした。
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