クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

長栄寺と毛呂城址(毛呂氏館跡)

2024年06月19日 | 城・館の部屋
大型台風の襲来のとき、警報の出された市町村名を読み上げたアナウンサーが「けろやままち」と言った。
どうやら「毛呂山町(もろやままち)」を「けろやままち」と読み違えたらしい。

アナウンサーに同情の念が湧く。
地名は難しい。
知らなければ、「けろやま」と読むのが普通かもしれない。

ただ、そのアナウンサーのおかげか、毛呂山町はかわいい町のイメージがついた。
詰所で一緒に待機していた人たちも、「けろちゃん」と微笑んだ。
激しい風雨に緊張感が増しているときだっただけに、少し場が和んだのを覚えている。

そんな毛呂山町にはいくつかの城跡がある。
長栄寺が建つ場所もその一つ。
町中からほんの少し離れた山麓に位置し、そのため遺構の一部が残っている。
毛呂氏の拠点であり、大永4年(1524)の上杉氏による毛呂攻めの舞台の一つと見られている。
「浅野文庫蔵諸国古城之図」収録の「武州毛呂」も、この毛呂城に比定される。

長栄寺を含む一帯は、それぞれ郭が現存する。
本堂の裏手には、空堀や堀切、土塁が残り、往時を偲ばせる。
歴代住職墓碑の中には毛呂氏の供養塔が建っている。
そもそも長栄寺は大永5年(1525)に同氏の開基と伝わる。

同寺までは車で行くことが可能だ。
本堂裏手の堀などは歩かなければならないが、さほどの距離ではない。
ただ、樹木が生い茂っているため、夏はやぶ蚊の襲来は免れない。
雨の日や雨上がりに足を運べば、木の葉についた雨雫に服が濡れるだろう。
城跡と言っても寺院が建ち、お墓もあるので、最低限のマナーは守りたい。

ところで、上杉謙信が記した条書に「毛呂土佐守」の名が見える史料がある。
武田信玄と干戈を交え、戦国最強とも謳われた武将である。
まさか、「けろ とさのかみ」とは読まなかっただろう。
もしそう呼んで、家臣が「恐れながら……」と間違いを指摘したならば、
間近に迫る小田原城攻めを前に場が和んだかもしれない……。





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