クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

いつもと違うこんな春には…… ―ボッカッチョと鴨長明、プルースト―

2020年03月03日 | ブンガク部屋
ペストが流行った14世紀のイタリアで、
数名の男女が森の館に避難し、日ごと面白い話を語るという小説を書いたのは、
ボッカッチョの『デカメロン』でした。
2020年3月、新型コロナウィルスの流行で、
『デカメロン』を読み直している人もいるかもしれません。

多くの児童・生徒が突然の長期春休みに入りました。
メディアで連日報じている新型コロナウィルス感染の拡大。
我々はいま「歴史」を目撃しているのだと思います。

コルク張りの部屋に籠もり、小説を書いたフランスの作家マルセル・プルースト。
代表作『失われた時を求めて』は世界文学史に燦然と輝き、
日本でも翻訳されたものが何種類も出ています。

ストーリーのみの判断で面白いか、つまらないかと言ったら、僕は後者だと思います。
でも、『失われた時を求めて』の世界観にはとても憧れます。
こんな風に書いてみたい。
そう思う人は世界中にたくさんいるでしょう。

感染防止のために外に出ず、
部屋に籠ってひたすらプルースト三昧。
『失われた時を求めて』を一気読み。

世界にはきっといるはずです。
密かにそんな文化的活動をしている人が。
とっつきにくいその文体に苦痛を感じつつも、
プルーストから離れられない人が……。
せっかくなので、一文引用しておきましょう。

せめて私にかきはじめることさえできていたら! ところが、このものを書く計画は(残念なことに、もうアルコールを飲まないとか、早めに寝(やす)むとか、よく眠るとか、元気でいるとか、そんな計画と同じで)、どんな条件でそれに取りかかろうとしても、たとえば散歩をとりやめたり、散歩をさきに延ばしてあとの褒美にとっておいたり、体調のいいい一時間を利用したり、病気でやむなくじっとしている一日を使ったりして、どれほど夢中になってみたり、きちんと手順を踏んだり、いそいそとやってみたりしたところで、そんな努力の果てにかならず出てくるのは、なにも書かれていない一枚の白紙であって、そんな結果が避けられないのは、ある種のトランプの手品で、前もってどんなにカードを混ぜあわせておいても無理やり必然的に引かれるカードのようなものである。
(吉川一義訳『失われた時を求めて5 ゲルマントのほうⅠ』岩波文庫)

むろん、世界が緊迫している状況です。
例え『失われた時を求めて』を読破しようとしても、
新型ウィルスへの不安と警戒は常に背中合わせです。

今後、新型ウィルス騒動が終息に向かったら、
いま我々が過ごしている時間は「失われた時」になるのでしょうか。
バブル期以降の経済停滞を「失われた××年」、
就職氷河期世代が「ロスト・ジェネレーション」と表現されるように、
不運に見舞われた気の毒な時代と、やや同情めいたニュアンスで語られるのでしょうか。

3月に予定されていたイベントや行事、講座などはことごとく中止。
閉館もしくは縮小となる公共施設もあるほどです。
41年生きてきて、こんな状況を目にするのは初めてのことです。
やがてこの騒動は「歴史」として語られるのでしょう。

ところで、ボッカッチョの『デカメロン』は、
ペストが猛威を振るっている最中ですが、あまり悲愴感はありません。
それどころか楽しそうな雰囲気です。

一方、日本で言えば、天変地異などの不安な世情を取り上げたという意味で、
鴨長明の『方丈記』が思い浮かびます。
小説ではないものの、『デカメロン』のような陽気さはなく、
無常観が全面に出てきます。

『デカメロン』と『方丈記』。
そして、コルク張りの部屋でひたすら『失われた時を求めて』を書いたプルースト。
国も作品のカラーもそれぞれ異なりますが、
命を燃やす力強さのようなものが文章の向こうから伝わってくるのです。

文化芸術(文化的活動)には生きる力がある。
こんな状況でも、こんな状況だからこそ、
そんな文化芸術の力を信じたくなります。
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