小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

宮崎郁子と、エゴン・シーレとの間

2019年06月27日 | 芸術(映画・写真等含)

 

▲少年のようなシーレ?

宮崎郁子さんという人形作家を知った。最近ではエゴン・シーレばかり作っていて、その繊細でリアルの塑像を観たときは目に焼きついた。

彫刻ではなく、「石塑、綿布、アクリル、発泡スチロール」と図録には記載されていた。その図録だが、いろいろ調べて岡山県の個人の方が扱っていて、郵送してもらったのだ。

宮崎さんの作品は、昨年シーレ生誕の地ウィーンが展覧会が催され、大変な好評だったという。つい最近、横浜でギャラリーで展覧されたそうだが、雑事にかまけて行きそびれた。でもいい、彼女の作品は必ず、広く知られるようになるだろうし、再見する機会に恵まれると信じている。

日本のアートに限らず、芸術は経済に寄り添って、その幹を太らせている。ファッションとトレンドの変数で再配分が決定するのだが、その偶然性も芸術的だとしたら、パセティックな感慨しかもてない。歴史をさかのぼっても、その範疇を逸脱しない。哀しいかな。

 

 ▲上の2点は『宮崎郁子作品集 樹の瞳』(2013)から・・。

エゴン・シーレ『樅の森』からの引用

わたしは帰ってゆく。深い樅の森の赤黒いドームのなかへ。樅の森はじっとひそまり、身振りだけで見つめ合う。

樹の瞳はびっしりとお互いに絡み、もうもうと湿った息を吐く。

なんと素晴らしいことだ!ーすべては生きながら死んでいる。

 

追記:一般公開できない画像を使用したのか・・。本記事は、削除するかもしれない。とりあえず、シーレに関する画像のみを掲載しておく。(2019.6.27)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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