小寄道

日々生あるもの、魂が孕むものにまなざしをそそぐ。凡愚なれど、ここに一服の憩をとどけんかなと想う。

ミシェル・ピコリ追悼

2020年05月19日 | 芸術(映画・写真等含)

フランスの俳優ミシェル・ピコリが昨夜亡くなったという記事を目にした。脳卒中のため死去したという(実際には12日)。家族が18日に仏メディアに明らかにした。

94歳だった。亡母と同齢だったことに、深い感慨を抱かざるを得ない。充分に生きた年齢であろうが、コロナの原因とか云々は判然としない。とにかく、天寿をまっとうされたと信じよう。

ジャン・リュック・ゴダールの「軽蔑」(主演はブリジット・バルドー!)に出演したことで名を馳せた。もちろん観たが、そのとき焼付いたのは彼の容貌である。美男ではない、いわゆる役者顔のインパクトである(後述、日本の男優との比較)。

額が広く、細く高い鼻は、あのドラキュラ俳優クリストファー・リーに似ていて、独特の雰囲気を漂わせるたたずまいが魅力。なんとか言語化すれば、映画のなかの「間」、「奥行き」、時空をふくめてのそういう何かを感じさせる。そんな演技、気配があった。そう、端的にいえば、何事にもたじろがない、静かな男のイメージかな。

さて、ここに書き残したいのは、ルイス・ブニュエルの映画における彼の演技力だ。能でいえばワキだが、その存在感はシテを喰うほどの、怪演をしたんじゃないかと思う。(全部観てないのに、こう書く自分は・・痛いんだろうな)

きちんとシテを盛り立てる、それを観客に感じさせない。ドラマツルギーの本質は、ワキにこそ宿るなんて、そんな矜持を魅せてくれる。映画監督がもっとも重宝し、信用のおける役者だったのではないか・・(ピコリの出演本数は150本ほどらしい、全部見たいが、・・諦める)。

今日あらためて、彼の足跡を辿ってみて初めて知ったのだが、ミシェル・ピコリは家族の死別をきっかけに無神論者となったという。小生にとって、彼の作品とイメージは、実にルイス・ブニュエルの映画と一体化している。

ブニュエルの映画は反宗教主義で知られるが、そのことを実質的に何を意味してるかという考察はできない。だが、連環的にいえば、小生にとって、欧米社会を形づくってきた負の歴史、階級社会、あるいは悪しき資本主義、そのものの崩壊を象徴的にイメージさせる映画であった。

「小間使いの日記」、「昼顔」、「銀河」、「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(72)、「自由の幻想」(74)、「欲望のあいまいな対象」(77)に、ルイス・ブニュエルの60・70年代の重要な作品にミシェル・ピコリはすべて出演していて、なんだろうか小生は全部見ている。なのにいまは、切れ切れにしかシーンを思い出せない・・く・そ・。

日本映画でいえばそう、時代的には山本麟一とか南原浩治のポジション。もちろんピッコリの演技は、伝統的なフランス演劇に裏打ちされたものだと思うから、比較するのも勘違いか。いやまあ、この辺は専門家に任せたい。

タイプは違うのだが、映画俳優としては昔の志村喬に近いんじゃないかと、思う次第だがどうか・・。

昨年、ゴダールの伴侶(?)であった  アンナ・カリーナも年の瀬だったか、パリで癌により死去した。79歳で、ピッコリよりだんぜん若い。でも、彼と同時代に生きたフランス映画人だった。冥福を祈ります。

同時代に生きた、いや憧れ、リスペクトした人々がどんどん亡くなっていく。

ここではまったく関係ないが、客観的にしか観ることができなかった志村けんは同い年。彼を惜しむ人は多く、ひとつのエポックメイキングを成した人なんだなと、ふと感じ入った。

最後に、往年のミシェル・ピコリの画像はあるものの、肖像権保護が厳しいらしくブニュエルのときの画像は転載できない。最近の近影、つまり死亡記事等々の画像ばかりのもので、昔のピコリを偲べない。愚生の脳裏に焼き付いたイメージとは、あまりにもかけ離れているので掲出を断念した。

その代わりといってはなんだが、YouTubeに彼が出演した映画「ピクニック)の音楽を見つけた。けっして若くはないが、ジャズ界草創期の巨匠ステファン・グラッペリ(Vio)がフューチャーされている。

ミシェル・ピコリが天国に在られますことを祈って・・。

Stéphane Grappelli - Pic-Nic

▲老人のミシェル・ピコリが若々しい演技をしている。たぶん、一瞬だろうが、いい表情だ。


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