オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

太平洋で遊泳三昧、しばし高い山

2023-08-14 11:29:40 | 銀座の周旋屋

  

 

 ずっと夏の海で泳いでいたから、3週間ぶりか? に2000m前後の山々を歩いて来た。

 群馬の奥、新潟の方の分水嶺からならば、台風で荒れつつある日本列島の絶景が見えるかも? という好奇心で渋滞の緩んだ昼前に東京を出発して、連休渋滞の高速道路を避けながらの物見遊山、日本海に沈む夕陽もついでに見てやろうとのんびり向かったが、当然に日帰りの600キロを超える行程だった。

 以前も向かった山の山頂からは台風の怖ろしくデカい雲の一団を絶景の中から眺めたもんだった。

 高崎・前橋を通過する頃は気温も37度、渋川・伊香保で降りてあとは延々と下道・山道、連休で混んでいる四万や草津を横目にもっと奥までずんずん登って行った。

 なかなかね、一か八かの行程だったから、トボトボ登っている時には下界の晴れてる様子が見えておったが、すぐに雲に巻かれて眺望はなくなってしまってた。

 幾重にもなってる大気の層と、雲の層の織りなす曲芸で、こういうこともたまにはある。

 泳いでばかりで足腰や肺活を酷使してなかったから、最初からの急登の連続で呼吸困難・ゲロを吐きそうになりながら、気温は10度超える程度でもエッサ・ホイサで全身が汗だくになっておった。

 眺望は残念だったが、日光キスゲが咲いて居たり、小さな花がイロイロ咲いておって、森林限界でも草木の生えている俺の好きな山々を満喫して来た。

 誰もいない山頂で温かいコーヒーを飲み、一服してウロウロ稜線を散歩して、風が変わってきたので雨支度をして下山したが、雲の中、小雨に少し濡れていた。

 美味い空気と、深呼吸をたくさんしたおかげで気分は爽快だったが、車で山を下りる夕暮れ時には闇とモヤモヤで視界が無くなってしまって、のんびりスローに下りて来た。

 出会ったのは、猿か鹿かタヌキくらいだったろう。

 途中、回り道して草津の湯畑の傍の湯に閉湯まで1時間ほど浸かって居眠りトロトロ、渋川で飯を喰らって高速の渋滞もなくなっていた深夜の日が変わる頃に戻って来た。

 今朝もカッパを着てバイクに乗って、普通に仕事を始めているが、台風一過でまたまた房総の海に泳ぎに出掛ける日々に戻る。

 汗の出が良くなったのは、体内脂肪の燃焼と肺呼吸の活性化、全身にかいた大量の汗で毛穴がキレイになったせいだろう。

 これで海で何時間も泳いでおれば、体内に海のエキスがたくさん入って来る訳だ。

 街の中でマシントレーニングやエステやナニやらに夢中になっておっては、こういう清々しさは味わえない。

 

 大きな河川のそばで花火大会をやる、これは緩んだ土手を群衆に踏み固めさせる意味があった。

 江戸の地域では築城して堀を作り、埋め立てして街を作り、群衆を集めて祭りを盛んにやっていたのも、地盤・土壌を固めるという大事な意味があった。

 現代でも、大きな河川のそばで花火大会をやる意味はあるだろうが、そうでないダラダラ慣習の無意味なモノも利権だけで存続していて、逆に閉鎖的で排他的な社会を作り、まとまった票を集めることに利用されている。

 昔から、群衆を動かすには、いろんな意味があった。

 ナニも考えずに、酒を飲み、酔って踊って喧嘩をし、それを囃して大騒ぎ、これはワクチン接種とおなじこと。

 神や仏や、先祖の前で手を合わせ、そんな群衆の慣習に浸っている連中には、群衆を動かしている意味なんざどうでも良いことで、ただ発散出来れば良いと言う、不平不満のガス抜きとして継続されている。

 ナニかをしている訳ではない。

 神や仏や先祖に手を合わせる前に、自分たちでとことんやるべきことがあるが、それを常にやっている俺のようなオヤジには、神や仏や先祖なんてモノはただの同等の友でしかない。

 頼ったり祈ったり縋りついたり願ったりするモノなど無く、すべて自分しだいで生きて居る。

 ・・・見てみろよ、俺のやって来たことは神や仏や先祖でもできね~ことばかりだぜ、どうだ? 笑ってるか?

 そう生きて居る大人は、無言のうちにおなじような横の繋がりを拡げ、自分独りで解消できない困難などナニも無い状況まで自分を鍛えて高めて、悠々と笑っている。

 当然に、食い扶持作りからして独自に出来る日常を持っている。

 ド阿呆面してヘラヘラ餌を貰って生きてる養殖のタコやイカには、解るまい。

 

 街中で歩きながらスマホを弄って見ている猿は多いが、この馬鹿癖が山でも抜けずに、歩きながら写真やメールを送受信してる最中に道を踏み外したり転んだり、俺は滅多に電車には乗らないが、たまに乗ると全ての客がスマホを見ていたりする動物園の風景を観察している。

 ぼんやり空を眺めていたり、雲を追っていたり、はるか遠くまで見ていたり、皆さんの生活には無いんだろう。

 これは洗脳されるわさ。

 バーチャルな空間を共有して生きていると、現実の社会でも作り物の知識のやり取りで完結しているのかも知れないが、人間関係の関り合いでそれをやっていると、言い訳・逃げ口上・詭弁に自作自演の被害者演出と、ロクでもない嘘の上塗りで幼児な中身が丸出しになる。

 実際に現実を独自の価値観で生きている者から見てると、作り物の薄っぺらい嘘はすぐにボロが出るんだが、同類の洗脳社会では解らないらしく、幼稚な騙し騙されを繰り返しているのがスマホ信者のなれの果てだろう。

 地球上には危険はいっぱいなんだが、よくもま~朝から夜まで眺めているもんだ。

 俺は何時間でも空や雲を眺めていることが出来るし、水平線まで見渡して、何時間も過ごすことが出来る。

 そこでは人造の音楽なども必要はなく、地球の音だけ聴いている。

 人間なんざ敵わない地球や宇宙の音を聴けば、作り物の音楽や映像や写真なんざ必要などなくなるさ。

 この身をもってそれを感じる、その場に行ってそれを感じる、動いたつもりで生きてる人間社会なんざ、箱庭のお砂場遊びでしかない、

 

 日本では、飼育猿の調教具合を評価するために、偏差値というものを使っている。

 偏差値とは、模範解答をどれだけたくさん真面目に覚えて洗脳されたか? または洗脳されやすい体質か? ゼニカネや肩書を妄信しているか? を表示する指標だが、なんか勘違いして偉く素晴らしいことのように思ってる人たちが多いから、教えておいてあげるよ。

 猿の曲芸が上手な奴らが、偏差値エリートと呼ばれて勘違いしてる喜劇だ。

 あくまでも評価をしてもらう側の、自己満足。

 生きて行くのに、なんで他人や社会の評価が必要なのか?

 俺には最初から理解できないまんま、こうやって自由人で生きて居る。

 

 さ、ゲリラ豪雨と蒸し暑い猛暑の中、内装が終わって貸し出し出来るようになったマンションを3部屋、大工らと見て回ってくる。

 毎週あちこちの遠方に出掛けていると、土産などは自分で喰うために買うのが常で、残ったモノを土産と称して高齢者たちに配ってやるのが普通になってるから、少しお裾分けもしてやるさ。

 

 本当は、こういうのが見れる予定だった。