まもなくすると、年かさの子が両手を突き上げたちあがり、足をふみな
らしながら、言葉にならないことを叫びながら社殿の中をクルクルと回り
だすではありませんか。
すると、ほかの子どもたちもそれにつられるように、両手を突き上げ足
踏みならしクルクルと、とても陽気にまわりだしました。
そのうち誰ともなく、草刈り鎌を腰にさし、刈り取った草を束ねるため
の葛のツルを首にかけ、それぞれが思い思いに踊り出しました。
それはそれは、大にぎわい。普段は静かな里の山に、子どもたちの楽し
い唄声や歓声がひびきわたっています。
さてそんな時、神社の方向からいやに騒がしい声が聞こえるものですか
ら、この神社の総代さんがあわてて見回りにやってきました。
と、この総代さん。おどろいたのおどろかないのって。
腰を抜かしておどろいてしまいました。
あろうことか、まっ赤な顔をした子どもたちが、酒のにおいまき散らし
大騒ぎ。
子どもたちのとんでもない姿に、腹を立てたのなんのって。
「クォラー!なんばしよっとかあ!!」 そりゃ~もう、すごいけんまくで、
「子どものくせんしとってぇ、酒ばのむとはあ、なんちゅうこっちゃあ!
こりゃあ神さまん酒ぞお!バチんあたっぞう!」
ひとりひとりの子どもをつかまえて、
「おまえはどこの子かあ?!親ん顔に泥ばぬるごたることばしよってえ!!」
と、ゲンコツ振り落としながらさんざん叱りとばしました。
子どもたちはいっぺんに酔いもさめ、すっかりしょげかえりながら牛の
草刈りへと行きました。
さて、数日ほどたったある日。
総代さんの家ではたいへんなことが起こっておりました。
この総代さん、原因不明の高熱におかされていたのです。床の中では、
わけの分からないことを口走り、日がな一日ウゥ~ウゥ~とうなされています。
総代さんの家族は、遠くから医者をよんであれこれと治療をほどこして
もらいますが、いっこうに良くなる気配がありません。
すっかり困り果ててしまった家族の人は、
山寺の坊さんに祈祷を頼みます。
読経をしながら太鼓をたたき、さらに護摩をたきつつ一心に祈祷。
と、やおら顔を上げた坊さんは、とても神々しい調子で語りはじめます。
「これ、鎌倉神社の氏子よ!
神社で楽しゅう遊んでおる子どもたちをば、
叱りつけるとは何事じゃあ!
子どもは元気が一番じゃあ。
自由に遊ばせえ~。
ユメユメ疑うことなかれ~~~。」
と神さまのお告げが伝えられました。
「ハハーッ!!」
総代さんはじめそこに居合わせた氏子たちは一斉に頭を下げました。
それからあわてて村の子どもたちを神社に集め、
社殿で楽しく自由に踊ってもらうことに。
もちろん甘酒も準備します。
子どもたちは、はじめ照れくさそうにしておりましたが、
甘酒をなめているうちに、だんだんほっぺに紅が差してきて、
腰に鎌さし、首に葛を巻きつけて、楽しく愉快に踊り出しました。
そこに氏子が笛や太鼓の音をそえ、子どもたちはますます調子に乗って、
おもしろおかしく楽しそうに踊りまくりました。
次の日。
あ~ら不思議!
うぅ~うぅ~うなっていた例の総代さんは、すっかり病気も治って、
すっかり元気を取り戻しました。
「この鎌倉様は、子どもの楽しい遊び声が大好きでいらっしゃる。
祭礼の時には、腰に鎌さし、首に葛を巻いた子どもたちの舞を奉納す
ることにしよう!」
総代さんは、そう高らかに宣言しました。
それからというもの、この神社の祭礼には、子どもたちによる葛舞を
必ず奉納することがならわしとなったそうな。
宵祭り。
拝殿から太鼓が鳴りだす。
妙なる笛の音も聞こえてきた。
大きな歓声とともに、拍手がわき起こる。
長い葛を輪にして首にかけた若者が、
右手に持った鈴をシャンシャンと鳴らしながら、
思いのままに舞い踊る。
白いもも引きにカスリの半纏をはおり、
腰には荒縄を帯にして、草刈り鎌をさしている。
踊り手は、最初こそぎこちない踊りだが、
間もなくすると笛や太鼓の音に合わせつつ、
その動きはスムースになっていく。
周囲の観客は、神前であるにもかかわらず、
にぎやかに手をたたき、大いにはやし立てている。
船の村の鎌倉神社では、今も、みごとな「葛舞い」が
奉納されています。
くじ引きで決定される踊り手の家には、五穀豊穣、
家内安全の御利益が必ず降り注ぐといわれています。
お・わ・り
どういうものか見たいものであります。
この神様は子どもたちからなんという名前で呼ばれているのでありましょう。
こちらは比較的新しい住宅地でありますもので、一般には子どもの地域行事は聞きませんが、古くは江戸時代のころからいわゆる朝鮮人や琉球人の居留地域だったところがありまして、そこでは伝統的な行事や独特の料理が今も残っているそうです。ただ詳しいことはわかりません。
先ほどから、また長崎で子供同士が、というニュースがこちらでも大きく取り上げられています。なんで長崎でばかりという、一地域の特異な事件という印象を受けてしまいますが、外国から見れば、東京も長崎も同じ日本です。海外では日本の事件として流されるでありましょう。
それに、少年事件が続いている長崎では、ことのほか真剣な取り組みがなされているものと思います。多くの方が心を痛めていることでありましょう。
ただ、大人社会が一生懸命になればなるほど、子どもたちの世界とは見当違いなところで行われていくことがあるのかもしれません。
先日の目線のところでもそのことを考えていました。
大人が一生懸命になればなるほど、「そうじゃないんだよ!」という子どもの叫びが事件を起こしているのではないか。これは長崎だけじゃない、日本の社会全体でその目線で事件の影にあるものを見たほうがいいのではないかと考えるものであります。
見当外れなコメントになりましたこと、ご容赦くださいまし。
>大人が一生懸命になればなるほど、「そうじゃないんだよ!」という子どもの叫びが事件を起こしているのではないか。
多くの県民が、ご指摘のようなジレンマを抱きながら過ごしているのかも知れません。思いが深ければ深いほど、このような事件が繰り返されることに落胆や失望を覚えることでしょう。
気がかりなのは、行政主導のシステムづくりや活動が先行してしまうことです。本当にシステムが必要な家庭や子ども、学校が、蚊帳の外という場合もあるようで。もっと、身近な共同体、人肌を感じられる規模の単位で物事を考えて行動していくようになっていかないと、と感じるのです。
ただ、人づくりは大きなスパン、長い目で見ていくことでしょうから、どんな事態にもめげずに、自他共に思いを深め心の枯渇しない行動をとっていきたいものです。