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マスコミは、しかし、死と屍体、人の部位を懸命にかくしました。
震災当初は、カメラをむけたらいやでも屍体を撮ってしまうほどといわれた現場なのに、テレビや新聞は丹念に死と屍体のリアリティを消しました。なぜそうする必要があるのかわたしにはわかりません。あのような報道ならば、鴨長明の『方丈記』のほうが災厄というもののすさまじい実相をリアルに伝えていると言えるでしょう。
いずれにせよ、マスコミによる死の無化と数値化、屍体の隠蔽、死の意味の希釈が、事態の解釈をかえってむつかしくしました。死を考える手がかりがないものだから、おびただしい死者が数値では存在するはずなのに、その感覚、肉感とそこからわいてくる生きた言葉がないために、悲しみと悼みが宙づりになってしまったのです。(中略)
死者に対する敬意とは、人のモノ化とはどういうことか、この死の虚しさと、かぎりない暴力、破壊が、何からもたらされているのか――それらを考える手がかりを、風景を正視してわれわれがつかむことではないでしょうか。そしてそれを言葉で表現すること、これが死者への敬意と悼みにつながるのではないか。言葉は人のモノ化への抵抗でもあります。
実際は、むごい話だけども、こうだったともいわれます。三陸の浜辺に夜半、打ち上げられた屍体があった。それは首のない屍体であったり、手足や眼球をなくした屍体であったり、逆に首だけの、胴だけの、片眼だけの部位だったりする。それが真っ暗闇の浜辺に何体も何体も打ち上げられている。
今度の津波はゆっくりと水位が上がってくるようなものではなかったのです。とても水のしわざとは思えない。もって金属的なひどく重いものが、一気にとっしんしてきたような。そう言えば容易に想像がつきます。人間のからだはどうなるのか。それはもうねじ切れてしまう。爆撃を受けたみたいに破断する。
辺見 庸 『瓦礫の中から言葉を』より NHK出版新書
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原発爆発後しばらく経って、これは国民愚弄・棄民政治だ、と思わされたのは、放射能予測装置スピーディーが正しく機能してたにもかかわらず、その結果が国民に知らされなかったことを知らされた時だった。
原発爆発直後、外資系の会社に勤めている患者さんから、今、会社命令で名古屋に避難しているんですとのキャンセルを受けたと時は、いささか大げさだなと思ったのだが、外国にはスピーディー情報が正しく流れていたという訳だ。
混乱を恐れた。との弁明一つで納得したマスコミも共犯者だ。
正しい情報のもとに如何に混乱を避けるかの方図を示すのが政治のはずだ。
政治を信用していない国民を常日頃感じているうちに、政治家も国民を信用しなくなったのか、、、。
震災後、なすすべもなくテレビ報道にかじりついていた時、不気味で嫌な気分にさせられたのは、繰り返し流されるACジャパン(公共広告機構)のコマーシャルだった。
テレビ各社がスポンサーから自立できない図だ。
ともかく、今回の震災で、今まで隠蔽されていたものが、それでお茶を濁していたものが、恥ずかしいまでに剥き出しになってしまった感がある。
そして、気付きにくいが、我々が使っている言葉も然り。
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