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原発の危険性をあえて報じようとせず「安全・安心」の大本営発表を垂れ流す旧来型マスメディアへの批判は既にあり、それは今後も追求されるべき点であろう。しかし。一方で、圧倒的な「善意」「善き社会の設立」に向けられているはずの「脱原発のうねり」もまた何かをとらえつつ、他方で何かを見落としていることを指摘せざるを得ない。原発を動かし続けることへの志向は一つの暴力であるが、ただ純粋にそれを止めることを叫び、彼らのせいぞんの基盤を脅かすこともまた暴力になりかねない。そして、その圧倒的なジレンマのなかに原子力ムラの現実があることが「中央」の推進にせよ反対にせよ「知的」で「良心的」なアクターたちによって見過ごされていることにこそ最大の問題がある。とりあえずリアリストぶって原発を擁護してみる(ものの事態の進展とともに引っ込みがつかなくなり泥沼にはまる)か、恐怖から逃げ出すことに必死で苦し紛れに「ニワカ脱原発派」になるか。3・11以前には福島にも何の興味もなかった「知識人」の虚妄と醜態こそあぶり出されなければならない。それが、四〇年も動き続ける「他の原発に比べて明らかにボロくてびっくりした」(前出、三〇代の作業員)福島原発を今日まで生きながらえさせ、そして3・11を引き起こしたことは確かなのだから。
かつて原子力ムラが平穏だった時、富岡町の住民の口から聞いた言葉が蘇る。「東京に人は普段は何にも関心がないのに、なんかあるとすぐ危ない危ないって大騒ぎするんだから。一番落ち着いているのは地元の私たちですから。ほっといてくださいって思います。」
中央は原子力ムラを今もほっておきながら、大騒ぎしている。
開沼 博 『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』より 青土社
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フーッ。やっとこさ読み終えた。
原子力ムラと副題にあるので、てっきり、原発利権に群がる連中の告発書だと思って手にしたが、最初のページであっさり裏切られる。
いや、裏切られて良かった、、、。
本書では中央の原子力行政の構成体を<原子力ムラ>として、原発が立地している地方を原発ムラとしている。
地方のある地域がいかなる歴史を通過して原発を受け入れるようになったか?
世界経済史の中の日本の経済史・政治史として分析されている。
机上で論をこねくり回したものではなく、フィールドワークに裏打ちされたものとなっている。
世界進出に挫折した日本が戦後選んだ道は、国内植民地の形成であった。
「フクシマ」は完成した植民地の姿であった。
そこでは、原発に不安を抱きながらも、フルサト再生、生活の安定を願う地域民に原発依存体質を身に付けさせることになる。
原発ムラは<原発ムラ>に自ら進んで服従していくようになる、、、。
その構造に目を向け、手を付けない限り、「善意」でいくら復興を目指しても、何も変わらない、と筆者は主張している。
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