内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

発見する精神の歩み ― ジルベール・シモンドンを読む(47)

2016-04-07 06:50:00 | 哲学

 ILFIの「序論」もあと二頁半を残すばかりとなりました。遅くとも来週の前半には読み終えることができそうです。蝸牛が呆れてこちらを振り返るほどの遅々たる歩みで、シモンドンの思考のリズムにはそぐわなかったかもしれませんが、零に近い速度で読むことによってはじめて見えてくるテキストの「風景」もあっただろうと思いたいですね。
 さて、今日読む段落も「転導」を主題としていますが、より正確には、それを他の思考形式から区別することがその目的です。
 転導は、証明としての価値をもった論理的手続きではありません。それは、一つの心的手続きであり、いわゆる手続き以上のもの、「発見する精神の歩み」(« démarche de l’esprit qui découvre »)です。この歩みは、「存在にその生成の中でつきしたがう」(« suivre l’être dans sa genèse »)ことであり、思考の生成をその対象の生成と同時に完了することです。
 思考とその対象との同時的生成過程にあって転導が果たすことを求められている役割は、いわゆる弁証法的思考には果たすことができない役割です。なぜなら、個体化作用において、否定性は、思考の運動の第二段階として現れるのではなく、緊張と両立不可能性を孕んだ両義的な第一条件(つまり前個体化的存在の状態)の中に内包されているからです。
 この初期状態が前個体化的存在が有している最も積極的な特性です。つまり、諸々の潜在性の実在ということであり、これがまたこの初期状態に孕まれた両立不可能性と非安定性との原因でもあるのです。
 否定性は、個体発生に伴う両立不可能性として最初からそこにあるのです。しかし、それは潜在性の豊穣と表裏一体です。したがって、個体化過程における否定性は、それだけで実在するような実体的な否定項ではありません。それは段階や階梯ではないのです。言い換えれば、個体化過程は総合や統一性への回帰ではありません。そうではなく、潜在的な両立不可能性を孕んだ前個体化的中心から存在が自己移相化していく内在的・原初的契機なのです。
 このような個体発生論的視角から見るとき、時間は、「個体化しつつある存在の有する次元性」(« dimensionnalité de l’être s’individuant »)の表現として考えられます。