内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

仮想現実世界の言葉の暴力が人の心をそれと知らずに殺している(上)

2016-04-24 05:17:00 | 雑感

 SNSが我が世の春を謳う今日、それだけ、ヴァーチャルな世界での言葉の暴力も横行するようになりました。それは、ときに、身体に直接物理的に加えられた暴力以上の威力さえ発揮することがあります。社会的に再起不能な仕方で個人を打ちのめすことさえあるのですから。これは皆様すでによくご存知の通りです。
 ツイッターは典型的なケースですが、あれだけ短い表現だと、そもそも文脈そのものがその表現の外部にほぼ全面的に依存していて、それゆえに、発信した本人はそんなつもりで言ってはいなかったとしても、ある可能な解釈あるいは意図的な曲解がまたたくまにネット上で拡散し、発信した本人にはほとんど対応困難な仕方で攻撃の嵐に曝され、果ては敢えなく炎上、あるいは公開謝罪を要求されることもあり、結果として、アカウント閉鎖に追い込まれてしまうことも珍しくありません。たった一言の不用意な「つぶやき」で職を失った方たちさえあります。
 不特定多数の受取り手に対して発信するとき、善意の解釈だけを前提することはできませんし、一旦拡散してしまった発言の引き起こした騒動の収拾を事後的に図ることは非常に困難ですから、発信する側が発信する前にせいぜい気をつけるしかないのでしょうね。
 私自身は、ツイッターでつぶやいたり、フェイスブック上に挨拶程度以上のコメントを自分から公開することは一切ありません。私が自分の気持ちを表現しているのは、このブログの中だけです。
 そして、私のブログの記事に対していただくコメントにときどきお答えすることがあるだけです。それはつねに感謝とともにです。拙ブログの記事に、貴重な時間を割いて、暖かいコメントをくださったのですから、どうしてそれに感謝せずにいられましょう。そこに質問があれば、できるだけわかりやすく答えるよう努めています。
 他方、明らかにこちらのブログの中身も読まずに機械的に送りつけられたと思われるコメント(そういう自動送信アプリがあるんですってね)は、当然これらを即削除していました。その類のコメントが多かったことがアメーバ・ブログの方を止めた主たる理由でした。
 自分のブログの記事では、他人に迷惑のかかるような発言は一切しないよう、細心の注意を払うことを原則としています。それでも、ときどき、まったくこちらの意に反する、あるいはほとんど曲解に等しいコメントをいただくことがあります。しかし、それはこちらの不徳のいたすところ、相手を責める気にはなりません。
 もっとも、「お前が日常を楽しげに語ること自体がこちらにとっては迷惑なんだよ。言動に気をつけろ!」というようなリアクションも過去にはあり、そのときは、さすがに悄気かえり、もうブログを止めようかとも思いました。


















































最新の画像もっと見る

コメントを投稿