内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

個体、それは内的共鳴可能存在形成過程、ILFI「序論」読解を終えて― ジルベール・シモンドンを読む(59)

2016-04-19 05:35:37 | 哲学

 今日は、「序論」読後感想を綴りたいと思います。
 と言っても、小中学生たちが大嫌いなあの読書感想文じゃありません。私も嫌いだったなあ、読書感想文。感想書くために強制的に読まされるって、何かおかしいよなぁって、子供心に思ってました。夏休みの宿題とかで書かされるのは、なおのこといやだった。そもそも小中学生の頃はほとんど本読まなかったし。
 誰に強制されるわけでもなく、「序論」読後感想をシモンドンの語彙を援用しながら記すことで長期連載「ジルベール・シモンドンを読む」に一区切り付けたいという自発的な思いから、この一文を綴ります。

 私たち一人一人は、個体となりつつある存在、つねに個体化過程にある存在です。これは私たちにとって恒常的な存在条件です。そのようなものとして、私たちは、物質・生命・心理-社会の諸次元にまたがって様々な問題を抱え、それらの解決策をあれこれ探りながら生きています(ちょっと問題ありすぎだよなぁって思わなくもないですが)。
 生きている個体である私たちは、本来的に、「固体」でもなければ、「孤体」でもありません。なぜなら、己の内なる前個体化的存在によって、私たちは「通・超個体性」を共有しているからです(注:「固体」と「孤体」という両語は、私がここに導入したもので、シモンドンの語彙ではありません。日本語ならではの同音異義語を使った、ちょっと真面目な「言葉遊び」です)。
 とはいえ、現実には、他者さらには他次元とのコミュニケーションが困難な場合、自閉的な状態に落ち込み、孤独感に苛まれ、己の存在の無力さ・無益さに絶望を覚えることもあるでしょう(私なんか、もう、しょっちゅうそういう状態に落ち込んでいます...トホホ)。
 しかし、言うまでもなく、己の内に閉じこもっているかぎり、問題に対する解決策を見つけ、そのような状況を打開することはできません。解決は、本来的に、己の内にはなく、何かと何かとの〈間〉にしかないからです(わかっちゃぁいるんですけどね、なかなかねぇ...)。
 その解決は、したがって、単なる(自己)認識からは生まれません。本来的にコミュニケーション・モードをその存在様態とする生きている個体は、複数の次元の間の「形成」(« information »)によってはじめて生かされ、活かされるものだからです(この意味での「インフォメーション」って、だから、待っていれば届くとか、家に居ながらにして収集できるとか、どこかに行けばそのまま手に入るようなものじゃないってことですね)。
 認識が個体化するとは、どういうことでしょうか。それを私なりの言葉で表現すると、物の手触りと抵抗とに類比的な手応えを私が思考において概念に対して持つことができるようになることです。そして、そのことは同時に、思考の外なる諸存在に触れて、思考内の概念システムとの間の内的共鳴をそこに聴き取ることができるようになることに他なりません(つまり、ただ頭の中で「無抵抗な」概念を好き勝手にいじくりまわしているとき、私たちは、誰にも見えない概念の粘土細工やプラモデルを頭の中で拵えているだけで、本当は思考していないってことですね。もちろん、そういう無害な空想や夢想が趣味ならば、人に迷惑をかけるわけではありませんから、それはそれでいいわけで、他人が文句を言う筋合いではありませんけれど)。
 生きている個体としての私において個体化されつつある内省は、その内省的思考にとって外的な諸存在との間に、内的共鳴というコミュニケーション・モードを「形成」することができたときはじめて、心理-社会的レベルにおいて開かれた思考として、意味を有することができるようになるのでしょう(この意味で共鳴を引き起こさない思考は、少なくとも社会的には、無意味・無価値・無益だということですね)。

 以上の思いを胸に、明日からまた、心理-社会的空間における内的共鳴可能存在に一歩でも近づくべく、甚だ微力ではありますが、日々努力を重ね、一個体として個体的に思考してまいる所存でございますので、何卒よろしくお願い申し上げます(あれぇ~、何か変だなぁ、この終わり方。でも、まぁ、偽りのない気持ちではありますので、このままにしておきます)。