内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

毎日が自転車操業的思考

2016-04-20 05:28:34 | 雑感

 ここのところ仕事上うまく捗らないことが多くて、実は青息吐息で長期連載「ジルベール・シモンドンを読む」を書き続けていました。しかし、その連載を休まずに続けることが、自分一人ではどうにもならない理由で進捗しない仕事の重圧に耐える一つの手段でもありました。
 そもそもこのブログを始めたきっかけそのものが、本人としてはほとんど耐え難い精神的閉塞状態の中でなんとかそこからの出口を見つけたいという藁にもすがる思いでした。そして、幸いなことに、ブログを毎日休まずに更新し続けることで、少しずつですが、精神が安定を回復してきました。
 この意味で、ブログを規則的に書き続けることには一定の精神的治療効果があることを自ら実証することができたと思っています。
 二十歳前後から自発的に文章修業のようなものを始めて以来、文章を書くことは嫌いではありませんでした。ところが、留学生としてフランスにのこのこやって来てから、日本語で文章を書く習慣はいつしかなくなってしまっていました。
 それが三年前にブログを始めたことで、おそらく、子供の頃からそれまでに自分が書いた日本語の文章全部に匹敵するであろう量の文章をこの三年弱の間に書いたことになります。
 それだけの量の文章が書けたのは、それ以前に長年細々と蓄積してきた知識と飽きもせず反芻してきた思考とに負うところ大ではありますが、しかし、それだけのことであれば、いずれネタ切れになって、そこでお仕舞い、ということになっていたと思います。
 確かに、これまでにもすでに同じ問題を繰返し論じている部分も少なからずあり、毎日が新ネタというわけではありません。しかし、つねに新しい話題について書くのがこのブログの本来の目的ではありません。人様にお役立ち情報を提供することも考えていません(そもそもそんなもの私にはないですしね)。
 実情はといえば、書いている本人にとって、基本的に、毎日が思考の「自転車操業」なのです。思考のペダルを漕ぎ続けないと、つまり、書き続けないと心身ともに倒れてしまう。倒れないためには書き続けるしかない。それがこの先何らかの「成果」に繋がるかもなどということは期待していない、というか、そんな余裕はそもそもないのです。
 ただ、自転車に乗っていれば、進むにしたがって見える風景が変わっていくように、思考の自転車を漕いでいると、それまでは思いもよらなかった発想の到来やそれによって開かれる視野の中で美しい「景色」に出会って感動したりすることもあるのです。そういうときは漕ぎ続けてきてよかったなって思います。
 毎日書くことで思考のペダルを漕ぎ続けること、それによって考える身体の体力を維持し続けること、そんな終わりのないメンタル・トレーニングのための私設個人ジム、それがこのブログです。





















































個体、それは内的共鳴可能存在形成過程、ILFI「序論」読解を終えて― ジルベール・シモンドンを読む(59)

2016-04-19 05:35:37 | 哲学

 今日は、「序論」読後感想を綴りたいと思います。
 と言っても、小中学生たちが大嫌いなあの読書感想文じゃありません。私も嫌いだったなあ、読書感想文。感想書くために強制的に読まされるって、何かおかしいよなぁって、子供心に思ってました。夏休みの宿題とかで書かされるのは、なおのこといやだった。そもそも小中学生の頃はほとんど本読まなかったし。
 誰に強制されるわけでもなく、「序論」読後感想をシモンドンの語彙を援用しながら記すことで長期連載「ジルベール・シモンドンを読む」に一区切り付けたいという自発的な思いから、この一文を綴ります。

 私たち一人一人は、個体となりつつある存在、つねに個体化過程にある存在です。これは私たちにとって恒常的な存在条件です。そのようなものとして、私たちは、物質・生命・心理-社会の諸次元にまたがって様々な問題を抱え、それらの解決策をあれこれ探りながら生きています(ちょっと問題ありすぎだよなぁって思わなくもないですが)。
 生きている個体である私たちは、本来的に、「固体」でもなければ、「孤体」でもありません。なぜなら、己の内なる前個体化的存在によって、私たちは「通・超個体性」を共有しているからです(注:「固体」と「孤体」という両語は、私がここに導入したもので、シモンドンの語彙ではありません。日本語ならではの同音異義語を使った、ちょっと真面目な「言葉遊び」です)。
 とはいえ、現実には、他者さらには他次元とのコミュニケーションが困難な場合、自閉的な状態に落ち込み、孤独感に苛まれ、己の存在の無力さ・無益さに絶望を覚えることもあるでしょう(私なんか、もう、しょっちゅうそういう状態に落ち込んでいます...トホホ)。
 しかし、言うまでもなく、己の内に閉じこもっているかぎり、問題に対する解決策を見つけ、そのような状況を打開することはできません。解決は、本来的に、己の内にはなく、何かと何かとの〈間〉にしかないからです(わかっちゃぁいるんですけどね、なかなかねぇ...)。
 その解決は、したがって、単なる(自己)認識からは生まれません。本来的にコミュニケーション・モードをその存在様態とする生きている個体は、複数の次元の間の「形成」(« information »)によってはじめて生かされ、活かされるものだからです(この意味での「インフォメーション」って、だから、待っていれば届くとか、家に居ながらにして収集できるとか、どこかに行けばそのまま手に入るようなものじゃないってことですね)。
 認識が個体化するとは、どういうことでしょうか。それを私なりの言葉で表現すると、物の手触りと抵抗とに類比的な手応えを私が思考において概念に対して持つことができるようになることです。そして、そのことは同時に、思考の外なる諸存在に触れて、思考内の概念システムとの間の内的共鳴をそこに聴き取ることができるようになることに他なりません(つまり、ただ頭の中で「無抵抗な」概念を好き勝手にいじくりまわしているとき、私たちは、誰にも見えない概念の粘土細工やプラモデルを頭の中で拵えているだけで、本当は思考していないってことですね。もちろん、そういう無害な空想や夢想が趣味ならば、人に迷惑をかけるわけではありませんから、それはそれでいいわけで、他人が文句を言う筋合いではありませんけれど)。
 生きている個体としての私において個体化されつつある内省は、その内省的思考にとって外的な諸存在との間に、内的共鳴というコミュニケーション・モードを「形成」することができたときはじめて、心理-社会的レベルにおいて開かれた思考として、意味を有することができるようになるのでしょう(この意味で共鳴を引き起こさない思考は、少なくとも社会的には、無意味・無価値・無益だということですね)。

 以上の思いを胸に、明日からまた、心理-社会的空間における内的共鳴可能存在に一歩でも近づくべく、甚だ微力ではありますが、日々努力を重ね、一個体として個体的に思考してまいる所存でございますので、何卒よろしくお願い申し上げます(あれぇ~、何か変だなぁ、この終わり方。でも、まぁ、偽りのない気持ちではありますので、このままにしておきます)。
















































熊本地震について

2016-04-18 08:55:51 | 番外編

 14日からずっと熊本地震のことが頭から離れず、ネットでずっと状況を追っていますが、その被害の甚大さと避難生活の困難とが明らかになるにつれ、とても心を痛めています。最初の地震(後に「前震」と見なされた)の数時間後、震源地の隣町に住む友人にメールで安否を尋ね、幸い家族全員無事、物損も最小限との返事をすぐにもらって安堵していたら、その後に本震が襲ったとの報道。それ以後、無事を祈りつつも、逆に余計な気遣いをさせたり手間を取らせてはと、連絡を控えています。

 犠牲者の方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、不自由な避難生活を余儀なくされている方々に迅速・適切な救援措置が取られることと今後への不安を和らげるような見通しが一日も早く立つことを心から願っています。


認識の個体化、あるいは「物となつて考え物となつて行ふ」こと ― ジルベール・シモンドンを読む(58)

2016-04-18 00:00:00 | 哲学

 さあ、いよいよILFI「序論」読解の最終回です。
 私よりも先にゴールに着いた亀君と蝸牛君がこちらを振り返って、「あと一息だ、頑張れ」と声援してくれています。
 昨日読んだ箇所の最後で言われていたことは、個体化の把握は、いわゆる認識によってではなく、主体である私たち自身が個体化を実行すること、すなわち、自ら個体化し、己において個体化を行うことによってはじめて可能になる、ということでした。

cette saisie est donc, en marge de la connaissance proprement dite, une analogie entre deux opérations, ce qui est un certain mode de communication.

このように把握することは、それゆえ、いわゆる認識の余白における、二つの作用の間の類比であり、それはコミュニケーションの或る様式である。

 思考以外の諸存在の個体化を思考によって把握することは、思考そのものが個体化することと併行関係にあります。この併行関係は、認識主観としての思考が対象としての諸存在を認識するといういわゆる二元論的構図では説明することができません。この併行関係は類比的なものです。しかし、単に一方から他方へとある図式を転用するということではありません。この関係の両項の間に成立っているのは、或る種のコミュニケーション・モードです。

L’individuation du réel extérieur au sujet est saisie par le sujet grâce à l’individuation analogique de la connaissance dans le sujet ; mais c’est par l’individuation de la connaissance et non par la connaissance seule que l’individuation des êtres non sujets est saisie.

主体の外にある現実の個体化は、主体における認識の類比的個体化のおかげで主体によって捉えられる。しかし、主体ではない諸存在の個体化が把握されるのは、認識の個体化によってであって、ただの認識によってではない。

 主体による認識は、その外に在る現実を単に鏡のように反映することではもちろんありません。生きている個体に他ならない主体は、それだけで成り立ち揺るがされることのない根拠を認識に提供するものではないのです。外的現実に対して類比的な個体化が主体において実行されることではじめて、主体において認識が成立します。晩年の西田ならば、「物となつて考え物となつて行ふ」と言うところでしょう。

Les êtres peuvent être connus par la connaissance du sujet, mais l’individuation des êtres ne peut être saisie que par l’individuation de la connaissance du sujet.

諸存在は、主体の認識によって知られうるが、しかし、諸存在の個体化は、主体の認識の個体化によってしか把握され得ない。

 あらゆる個体化過程が完了した後にその結果として最終的に確定された諸存在のみを、その個体化過程をいっさい捨象して相手にするだけでよいのならば、それ自身は変化することのない、そして個体化されることもない超越論的主観性にその仕事を一任することもできるでしょう。しかし、存在するとは、存在が生成しつつあるということで、存在が生成しつつあるということは、存在が個体化しつつあるということであるならば、そのような主観性をあたかも絶対的治外法権のように予め存在の内部に措定することはできません。
 存在をその生成の相の下に捉えるとは、捉えるものそのものが己自身個体化過程にあることを自覚し、異なった大きさの秩序の間のコミュニケーション・モードの「媒介」(« médiation »)として、それらの秩序間に「形成」(« information »)を成り立たせることに他なりません。

 ようやく「序論」を読み終えました。本格的な個体化理論研究の出発点にやっとのことで辿り着いたということです。登山に喩えるならば、遙かなる高みにその頂上が見える険峻なる秀峰の麓に第一次ベースキャンプを張り終えたところとでも言えばよいでしょうか。
 「序論」に展開されていた個体化基礎理論、その不可欠な構成要素である根本的諸概念、それらによって構成されている命題、そこから引き出すことができる様々な論理的帰結、さらにはその展開と応用、そしてそれらすべてに対する内在的批判的検討は、今後、研究発表及び論文という形で、機会を恵まれるたびごとに、公にしていくつもりです。














































認識の個体化と論理の複数化、「序論」最終コーナーを曲がる ― ジルベール・シモンドンを読む(57)

2016-04-17 05:14:35 | 哲学

 いよいよ最終段落の最終部分です。「序論」読解を長距離走に喩えるならば、最終コーナーを曲がり、もうゴールが見えてきたところとでも言えばいいでしょうか。ただ、この最後の部分はちょっと長い。そこで、ゴール手前で息切れしてばったり倒れてしまわないように、その読解を二日に分け、さらにそれぞれの日に読む文章を細かく切り分け、少しずつ、所々で立ち止まりながら、読んでいきます。

La classification des ontogénèses permettrait de pluraliser la logique avec un fondement valide de pluralité. Quant à l’axiomatisation de la connaissance de l’être préindividuel, elle ne peut être contenue dans une logique préalable, car aucune norme, aucun système détaché de son contenu ne peuvent être définis :

諸種の個体発生の分類は、複数性の有効な基礎とともに論理を複数化することを可能にするだろう。前個体化的存在の認識の公準化に関して言えば、それがなにか先在的論理の中に含まれているということはありえない。なぜなら、いかなる規範も、いかなるシステムも、その内容から切り離されては、規定のしようがないからである(訳注:訳文中の最後の文は原文に忠実な訳ではありません。しかし、原文に忠実に訳すと、規範の方は無条件に規定不能という意味になってしまい、文脈にそぐいません。そこで、敢えてこう訳しました)。

 具体的な諸種の個体発生の現場に立てば、それぞれの個体が内属するシステムのタイプの違いに応じて複数の論理がそれぞれのシステムの生成とともに形成される過程が見えてくるだろう。この予想は、次のテーゼと表裏一体です。それらの諸種の個体発生以前の状態である前個体化的存在は、何か一つの論理によって支配されているのではなくて、そこから個体発生とともに複数の論理が生まれてくる準安定的潜在性に外ならない。

seule l’individuation de la pensée peut, en s’accomlissant, accompagner l’individuation des êtres autres que la pensée ;

ただ思考の個体化のみが、己自身を実現することによって、思考以外の諸存在の個体化に付き添うことができる。

 個体化を思考する主体は、あらゆる個体化過程をあたかも神のごとくに天から見そなわすいかなる個体化にも属さない超越的観点ではありません。思考も思考する主体もまた個体化過程にあるのです。主体に担われ個体化されていない思考というものはそもそもありえない。思考は、と言っても、思考の主体は、と言っても同じことですが、己自身を個体化することによってその他の諸存在の個体化に、いわば寄り添うときにはじめて、個体化を思考することができるのです。

ce n’est donc pas une connaissance immédiate ni une connaissance médiate que nous pouvons avoir de l’individuation, mais une connaissance qui est une opération parallèle à l’opération connue ; nous ne pouvons, au sens habituel du terme, connaître l’individuation ; nous pouvons seulement individuer, nous individuer, et individuer en nous ;

私たちが個体化について持ちうるのは、それゆえ、直接的(無媒介な)認識でもなけば間接的(媒介された)認識でもなく、認識された作用と併行する作用(操作)である。私たちは、その言葉の通常の意味においては、個体化を認識することはできない。私たちができることは、ただ個体化し、己自身を個体化し、私たちにおいて個体化を実行することである。

 個体化を認識するということは、あるいは個体化が認識されるということは、個体が単に直観的に把握されるということでもなければ、何か概念装置を使って対象としての個体を外から分析してみせることでもありません。この意味では、個体化は認識不可能です。私たちは、個体化を実行し、自ら個体化し、己において個体化を現実化することによってはじめて、一言で言えば、己自身を一つの個体化過程として実践することそのことによってはじめて、内的共鳴可能存在として個体化過程に自ら参入するのです。
























































蝸牛的遅読の成果、恵まれた収穫を天に感謝する農夫の気持ち ― ジルベール・シモンドンを読む(56)

2016-04-16 05:26:01 | 哲学

 二月末から数回の休息を挟みながらも延々と蝸牛ペース(あるいはそれにさえ劣っていたかも)で続けてきた L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information(=ILFI)の「序論」の読解も最後の一段落を残すのみとなりました。
 小さな活字で各頁五十行近くぎっしりと小見出し一つなく文章が組まれているとはいえ、たった十四頁読むのにこれだけ時間が掛かった頭脳の遅鈍さには我ながら呆れ果てるほかはありませんが、後悔はしておりません。このような超低速の遅読によってしか私には得られなかったであろう理解とその理解に応じて見えてきた世界の「景色」とに喜びと満足とを感じているからです。掛けた時間に見合うだけの収穫を恵まれたことを天に感謝する農夫の気持ちに少し似ているかも知れません。
 さあ、それでは最後の段落を読んでいきましょう。

Ainsi, une étude de l’individuation peut tendre vers une réforme des notions philosophiques fondamentales, car il est possible de considérer l’individuation comme ce qui, de l’être, doit être connu en premier. Avant même de se demander comment il est légitime ou non légitime de porter des jugements sur les êtres, on peut considérer que l’être se dit en deux sens : en un premier sens, fondamental, l’être est en tant qu’il est ; mais en un second sens, toujours superposé au premier dans la théorie logique, l’être est l’être en tant qu’il est individué.

かくして、一つの個体化研究が根本的な哲学的諸概念のある改革を目指すこともできる。なぜなら、個体化を存在についてまず初めに知られなければならないことと見なすことができるからである。諸存在について様々な判断を下すことの正当性あるいは非正当性如何について問う前にさえ、存在は以下の二つの意味で語られると考えることができる。第一の意味では、それは根本的な意味でということだが、存在は在る限りにおいて在る。しかし、第二の意味では、それは論理に関する理論においてはつねに第一の意味に重なり合っているが、存在は個体化される限りにおいて存在である。

 個体化研究は、存在についての特殊研究ではなく、根本的な一般存在論を目指しているのです。

S’il était vrai que la logique ne porte sur les énonciations ralatives à l’être qu’après individuation, une théorie de l’être antérieure à toute logique devrait être instituée ; cette théorie pourrait servir de fondement à la logique, car rien ne prouve d’avance que l’être soit individué d’une seule manière possible ; si plusieurs types d’individuation existaient, plusieurs logiques devraient aussi exister, chacune correspondant à un type défini d’individuation.

論理が存在に関する諸言明を対象とするのは個体化以後に限られているということが正しいとしたら、あらゆる論理に先行する存在理論が確立されなければならないはずである。この理論は、論理に対して基礎の役割を果たすであろう。なぜなら、存在がただ一つの可能な仕方で個体化されるということを予め証明するものは何もないからである。もし複数のタイプの個体化が存在したとすれば、個体化の或る限定されたタイプにそれぞれ対応する複数の論理もまた存在しなければならないはずである。

 私たちがすでに受け入れているいずれの論理も、あるタイプの個体化を暗黙の裡に前提して構成されているとすれば、その論理に従うかぎり、その個体化以前の〈原存在〉にまで遡行することができません。個体化理論は、個体化の結果として成立した諸個体及びその間の諸関係とそれらを支配する論理だけを研究対象にする個体理論ではなく、なによりもまず、「あらゆる論理に先行する存在理論」なのです。論理の生成過程をもその存在論的考察対象としている〈原存在〉論、それが個体化理論なのです。



















































個体が在ることそのことの内に個体の意味はある ― ジルベール・シモンドンを読む(55)

2016-04-15 05:34:03 | 哲学

 昨日の記事の最後の段落で述べたような仕方で「形」の立ち現われを理解するとき、「どのようにして形は形に成るのか」という問いがその根本問題になります。この根本問題は、「或る形はどうしてその形として認識されるのか」、「その形はどのようにして他の形との関係に入り、それを維持するのか」、「形の意味はなぜどのようにして生まれ、そして変容するのか」等の問いへと分化・展開されます。
 つまり、「形」(« forme »)をめぐる問題は、「形成」(« information »)の問題に他なりません(« information » を「形成」と訳す理由については、一昨日の記事で説明しました)。この「形成」問題が、一定の基礎単位を前提とした情報生成伝達理論の問題とは別問題だということは、もう縷説するまでもないでしょう。
 個体は必ず形を有しています。形のない個体というものはありません。逆に、個体化されていない形というものもありません。形ある生きた個体とは、恒常的に動的な「形成」過程の一齣ですから、非時間的あるいは形而上学的な自己同一的実体とは無縁であり、つねに同一の価値を持った単位に還元されうる情報の集合体でもありません。
 ここで、私自身の関心に基づいた付随的なコメントを挿入します。
 生きている個体は、つねに「形成」過程にあり、すっかり出来上がってしまって固定された物に成ることは決してありませんから、それをあたかもそのような「固体」として取り扱うことは、生きている個体に対して本質的に不当な態度だということになります。これは、生きている個体としての自分自身に対する態度についてもそのまま妥当します。したがって、個体化理論はそれ固有の倫理学的要素を必然的に内含していると言うことができます。
 個体化理論の倫理的含意を展開するというこの問題は、私自身にとっては、この夏の集中講義のテーマ「技術・身体・倫理」に直接関わるだけでなく、主要な哲学的課題の一つですが、ここでの主題からは外れますので、これ以上それについての言及はいたしません。
 さて、この準安定的・動的平衡状態にある生きている個体の意味・価値は、どこにそれを探さなければならないのでしょうか。この問いに対するシモンドンの答えははっきりしています。生きている個体の意味・価値は、その生きている個体が在ることそのこととその在り方の中に探さなければなりません。個体がそのようにして在ることそのことに個体の意味・価値が内在していることを個体化作用そのものの中に探求すること、その意味・価値を私たちの眼から覆い隠してしまう既存の概念の替わりに、その探究に適した諸概念を組織的に導入することによって新しい哲学的思考システムを構築すること、これこそシモンドンの哲学探究の核心です。






















































準安定的平衡、「形」が生まれるとき ― ジルベール・シモンドンを読む(54)

2016-04-14 05:37:29 | 哲学

 質料形相論における形相概念に対しては、執拗に批判を繰り返すシモンドンですが、ゲシュタルト理論における「形」概念に対しては、これに一定の評価を与えています。前者が形相を孤立的に把握されうる実体と考えているのに対して、ゲシュタルト理論は、或る形がそこにおいてそれとして把握されるシステムを考慮に入れ、その形の認識の成立をもたらす平衡状態を、それ以前の或る緊張状態に置かれた未分化な状態に対する一つの解決と見なしている点をシモンドンは評価しています。
 しかし、ゲシュタルト理論がこの平衡状態を単に安定的平衡状態と見なし、準安定的平衡状態を捉え損なっている点をシモンドンは批判します。量子論に準拠して導入されたこの準安定性という概念は、ドゥルーズによって夙に高く評価されていますが、緊張・変化を内に抱えつつ、形が生まれる以前の潜在性を保存し且つ新たなる個体化への胎動を常に孕んでいる、いわば恒常的な動的平衡状態として「形」を捉えることを可能にしています。
 この準安定性という概念の導入によって開かれる視角から見るとき、ゲシュタルト理論で言われる「よい形」(プレグナンツの法則)とは、単なる最も簡潔な幾何学的図形のことではなく、「意味をもった形」(« la forme significative »)ということになります。この「意味を持った形」とは、様々な潜在性を内包した現実のシステム内部において転導的秩序を成立させる形のことです。「よい形」とは、つまり、それが現れるシステムのエネルギー水準を保持し、様々な潜在性を互いに両立可能にすることによって保存することができる形なのです。
 「形」とは、この意味で、「共立可能性」(« compatibilité »)と「持続・発展・実現可能性」(« viabilité »)の構造に他なりません。「或る形がそこに在る」ということは、もともとそこに内包されていた諸々の潜在性がその形の或るいくつかの性質として顕在的に分節化され、それらの性質が互いに他を損なうことなしに共立可能となり、それらの間にコミュニケーションが成り立つ内的共鳴の次元が開かれるということなのです。

























































《 information 》をどう訳すか(承前)― ジルベール・シモンドンを読む(53)

2016-04-13 04:47:06 | 哲学

 シモンドンにおける « information » は、その原初的段階が問題であるときは、次のような事象を指していると私は考えます。
 個体化発生以前の或る緊張を孕んだ場に自己移相化が起こり、その場に極性が生まれ、その極性の両極とその間の関係が同時に発生する。このような関係とその関係項との同時形成が « information » の原初的段階である。一言で言えば、 « information » とは、関係形成そのものにほかなりません。
 生物レベルになると、個体化された生体がその内的環境と外的環境との間に成り立たせるコミュニケーション・システムの形成と稼働が « information » です。そこにおいて情報の発信者と受信者とがそれぞれそれとして形成され、両者はさらに互いにその役割を交換することができ、両者の間に情報交換が成り立つようになるような場所、西田的に言えば、そのような場所の自己限定が « information » なのです。
 心理-社会レベルになると、主体となった個体が己の抱える問題を解決するためにその問題を自己が帰属する社会の中に何らかの仕方で組み込み、その問題の解決を社会レベルで図ることができるようになることそのことが « information » です。
 いずれのレベルにも共通していることは、« information » は、関係の形成過程、形成された関係、その関係において或る形態・形式に限定された関係項、そして関係内容そのもの、関係項間のコミュニケーションの総体、これらすべてを指しているということです。
 これらすべての意味を一言で表現できる日本語があるでしょうか。残念ながら、これで決まりだと言えるほどの適語があるとは私には思えません。
 しかし、« information » は、シモンドン個体化理論の根本概念の一つとしてテキストのいたるところに出てきますし、近代になって生まれた新語ではなくラテン語起源の語彙の一つとして中世から使われてきた「由緒正しい」フランス語ですから、奇矯な訳語は避け、できるだけシンプルな日本語を充てたいと思っています。
 そこで暫定的な解決策として、「形が成る」「形に成す」「形を成す」という三重の動的意味を込めて、端的に「形成」と訳すことにします。こうすれば、フランス語では目に見える « forme » と « information » との共通項も「形」という漢字によって視覚化することができます。しかし、この訳語には難点も確かにあります。それは、 « formation » との区別がつかないということです。この語にこそ「形成」という訳語が相応しい場合が多々あります。そこで、補助的手段として、文脈に応じて、「形態形成」「関係形成」「個体形成」「情報形成」「自己形成」などのように限定辞を前に加えるか、あるいは、場合によっては、「形成過程の結果得られた形」という意味で、「形態(化)」あるいは「情報(化)」と単純に言い換えることにします。
 この解決策が妥当かどうか、それはテキスト読解を通じて検証されていくことになります。






















































《 information 》をどう訳すか ― ジルベール・シモンドンを読む(52)

2016-04-12 04:51:37 | 哲学

 今日から読む段落では、話題が « forme » から « information » へと移行します。
 まず、最初の五行を読んでみましょう。

La notion de forme doit être remplacée par celle d’information, qui suppose l’existence d’un système en état d’équilibre métastable pouvant s’individuer ; l’information, à la différence de la forme, n’est jamais un terme unique, mais la signification qui surgit d’une disparation. La notion ancienne de forme, telle que la livre le schéma hylémorphique, est trop indépendante de toute notion de système et de métastabilité.

形相概念は、« information » 概念に取って替わられなければならない。後者は、準安定的で個体化可能な均衡状態にあるシステムの存在を前提としている。« information » は、形相とは違って、唯一つの項ではけっしてなく、ある一つの乖離(離隔・散逸)から発生する意味である。質料形相論的図式が提示するような古代からの形相概念は、システムや準安定性という考え方一切からあまりにも切り離され、独立してしまっている。

 さて、この文脈での « information » をどう訳したらいいでしょうか。
 3月28日の記事から四日間に渡って読んだ段落に即してこの概念を検討したときには、今日一般的に使われる意味での「情報」概念をシモンドンの個体化論にそのまま適用すると大変な誤解に陥ってしまう危険に注意を促した上で、意図的に「情報」を訳語として採用しました。情報生成をその存在論的起源から根本的に考え直す一つの途を示すために敢えてそうしたのでした。
 しかし、ここはそうはいきません。なぜなら、そうしてしまうと、シモンドンの個体化論をそれこそ貧困化してしまいかねないからです。
 より適切な訳語を探すために、今日明日と、私自身の « information » 概念の理解を提示します。
 今日のところは、上掲の引用からだけでもわかる次の一点の確認にとどめます。
 « information » は、一つの信号あるいはメッセージという確定された単位のことではない。 それだけで独立に取り扱えるような確定的なものとして伝達・理解されうる内容のことでもない。シモンドンにおける « information » は、前個体化的存在において乖離・離隔・散逸によって発生した動的関係を形成する項同士の「間」に生まれる「事」に外ならない。