内的自己対話-川の畔のささめごと

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吉川幸次郎「徂徠学案」を読む(三)― 世界認識の方法としての古文辞学

2016-04-29 00:00:00 | 読游摘録

 「含蓄」は、古代の文章である「古文辞」の属性であるばかりではない。徂来の「訳文筌蹄」の「題言」には、「含蓄」は、古代の事実一般の属性であるとする思考が含まれている。

つまり古代の事実は、人間の事実の原形であり、後代の諸事実は、原形である古代の事実の中に含蓄されていたものの変化であり分裂であるにすぎない。いいかえれば、後代の諸事実は、新しいように見えるものも、古代の事実を研究すれば、みなその中に未分裂のものとして含蓄されているとするのである(六八一頁)。

 「学問の方法は、まず古代の事実を抑えてこそ、後代の事実がわかるのであり、文章の勉強もまた、「古文辞」からはじめねばならぬ。たとい含蓄のゆえに読みにくくとも、むしろ読みにくいゆえに、そこからはじめねばならぬ」(六八二頁)というのが「古文辞学」の要諦であるが、「古文辞学」は、単に古代の文章を対象とし、その含蓄を読み解くことを最終目的とするのではなく、テキストに対するその方法的態度を現実の事象一般に適用する世界認識の方法論にまで発展・展開されていく。
 この方法論を採用するとき、学者の任務とは何か。「古今という時間、天地人という空間、その差異を超えて、パイプを通す」ことである(六八四頁)。「古今を合して之れを一とつにす、是れ吾が古文辞学」と徂来は宣言する。
 したがって、「古文辞学」は、古代を理想化し、後代現代を拒否することではない。

「古文辞」はパイプのむこうのはしであり、パイプのこちらのはしは、後代現代の生活、彼によれば後代現代の事実である。つまり「今」への知識がそなわってなければ、「古」へのパイプは通せない(六八五頁)。

 では、どうやってパイプを通すか。「古文辞」の中に、自己を投入するのである。「古文辞」の通りの文体で、みずからの文章を書く。それを模倣、剽窃と批判する者がある。それに対して、徂来は堀景山あての書簡の中で昂然とこう切り返す。

すべての学問は、そもそも模倣ではないか。またそもそも日本人が中国語を書くということが、模倣ではないか。あなたたちのように宋人の文章をまねる場合も、その点は同じである。いかにもはじめのうちは、模倣であり剽窃であるかも知れない。しかし「久しくして之れと化すれば」、対象と融合すれば、「習慣は天性の如く」なり、「外自り来たると雖も」、むこうにあったものが、「我れと一とつと為る」。それがいやなら、学問などせぬがよい(六八五-六八六頁)。

 吉川は、「大学」篇の有名なトピックである「格物致知」の徂来の解が、「古文辞学」の方法と連関しつつ生まれていると見る。徂来によれば、「「物格而後知至」とは、「物」すなわちいにしえの「聖人」によって与えられた標準的事実の中に自己を投げ入れ、それをこちらへ「格」(まね)きよせてこそ、「知」すぐれた叡智が「至」生まれ成長すること」である(六八六頁)。
 この関係は、詩学において特に明瞭に現われる。徂来晩年の所説は以下の通り。

詩の勉強は、これら前人の定論を、標準的事実として、くりかえし勉強する。「習いて以って之れに熟し、久しくして之れと化する」。そうなれば、詩法は、「明るきこと火を観るが如く」なるであろう。それがすなわち「大学」の「格物致知」であって、「是れを之れ物格(きた)りて而る后に知至(うま)ると謂う」。そうしていう、「豈に翅(ただ)に詩のみならんや。凡そ修辞は皆な爾(しか)り。豈に翅に修辞のみならんや、先王の道は皆な爾り」(同頁)。

 最後に、徂来晩年の学説の要点二点を摘録して、今回の「徂徠学案」読解を締め括る。
 その第一点は、政治の道徳への優先。
 「弁道」開巻第一の語は、「孔子の道は、先王の道也。先王の道は、天下を安んずる道也」。つまり人類を安定させるための政治の方法である。その方法は、聖人たる先王が定めた「道」である。それは万事に優先する。それに対し、「徳」は、個人的な道徳である。それは「道」より下位に置かれる。

なぜ政治の方法である「道」は、個人の道徳である「徳」に先行するか。個人の道徳の集積だけでは、人類の幸福は生まれないからである(七二〇頁)。

 小さな構成要素を足して行くだけはでは集合体には到達できない。

そのように集合体ははじめから集合体として対処されねばならぬ。そもそも人間は、集合体として存在する。泥棒さえ集団を作る。「盗賊と雖も亦た必ず党類有り」。[中略] 集合体である以上、大きくそれに対処する方法が必要である。それがすなわち政治であり、政治の方法として「先王」の「聖人」が案出したものが、「道」である。それは集合体としての人間を大きくそだてる方法である。「大」を「大」としてそだてる方法である(同頁)。

 晩年の学説の要点の第二点は、天の尊敬。
 天への尊敬、より具体的には、超自然的な存在への尊敬である。一見、これは政治重視とうまく調和しないように見えるが、そうではない。

ひとしく現実の複雑さに対する敏感の所産である。現在の複雑さに対処する「大」の方法として選ばれたのが、政治であった。現実の複雑さを生み支え蔽うものとして求められたのが「天」である(七三〇頁)。

「天」を敬えというのは、「天」そのものばかりへの尊敬ではない。天の意思の作用としてある諸現実への尊敬となる。鬼神を敬い、君を敬い、上を敬い、父母を敬い、兄を敬い、賓客を敬う。みな「天」の意思としての存在だから、敬うのである。人民もまた為政者の尊敬の対象である、それを治めよと「天」から命ぜられたものが民だからである。またわが身を尊敬する。尊敬すべき存在である親の継承だからである(七三五頁)。

 この意味で、敬天は、善政の形而上学的根拠である。
















































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