内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

初夏に羽ばたく雛鳥たちのために

2016-04-30 05:30:00 | 講義の余白から

 昨日の学部三年生対象の近世文学史が今年度最後の講義だった。
 はじめに、先週読む時間がなかった新井白石『折たく柴の記』の一節を読んだ。白石九歳の秋から冬にかけての学業修行の思い出を語った箇所である。父から課された書写の宿題(昼、行・草三千字、夜 、一千字!)がなかなか終わらず、夜になって耐え難い眠気を催すことがあり、そんなときは裸になって冷水を頭からかぶって眠気を覚まし、また衣服を身にまとって勉強を続け、それでもまた眠気が襲ってくると、また冷水をかぶり、最後までやり終えたという思い出話である(それにひきかえ、君たちはどれほどの覚悟で勉強してんだって、喉元まで出かかったが、あやうく自制した)。
 今年に入って白石を主人公とした藤沢周平の『市塵』を読んだことも手伝って、白石の偉さ凄さに少し感じ入っていて、去年の講義ではさらっと教科書の記述をなぞって通り過ぎただけの白石の節に今回は少し時間を掛けたというわけである。主観的・希望的感想だが、学生たちもよく聴いていた、と思う。
 そして、古学。これが今年度最後のテーマ。実は来週の試験に出る(まさかこの記事見てないよな、学生たち。まあ、ばれてたっていいけど、そう簡単じゃないから)。
 素振りでわかるのだが、できる学生たちは、例えば、私が開口一番、「これは今学期最後の最も重要なテーマです」とか言えば、それだけでピンとくるわけである。彼ら彼女らはすぐにニヤッとするから、こちらも彼らが私の意図を理解したことがそれでわかる。
 まず、伊藤仁斎の古義学から。私の若い頃、つまり遠い昔、仁斎ファンだった。生涯市井の町人学者。そこに弟子たちが押し寄せる。大名まで教えを請いに来る。一生仕官せず。生活、赤貧洗うが如し。先生、それでも最後まで志操を貫く。真に「豪傑」である。今の言葉でいえば、徹底したポジティブ・シンキング。かっこイイ。日本古典文学専攻時代に(って、いつのことよ、それ?)、『童子問』を近世文学史のレポートの課題に選び、エラい意気込みで原稿用紙三十枚の大作を提出した。が、成績は「B」であった(トホホ...)。
 そして、昨日の講義の主役、真打ち荻生徂徠の登場である。一週間掛けて準備した講義である。もう、昨日までの三日間の記事で取り上げた吉川幸次郎「徂徠学案」が乗り移っている。これが徂来の古文辞学だっ、目に入らぬか(って、それ、水戸黄門でしょうが)、というような勢いでまくし立てた。明らかに学生たちは引いている。ままよ、と、最後まで突っ走った。結果? さあ、どうですかね。来週の試験の結果を見て判断すべし。
 講義の後、この夏、東京のある大学の研修に参加する学生たちと打ち合わせ。参加学生たちのほとんどは優秀な学生たちだから、追試の必要はなく、今週の試験で今年度は実質終了。皆すぐに実家に戻る。だから金曜日に打ち合わせを済ませておく必要があった。
 企画者の私としては、短期の研修だし、まあ楽しんでくればいいんじゃない、くらいのスタンスだった。ところが、学生たちの方がすごく真剣なんである。向こうでする日本語での発表のやり方について自分たちですでにいろいろ話し合っているみたいで、あれこれ質問してくる。それに対して、私の方からは、基本的に、「それ、いいじゃない。イケてると思うよ。とにかく自分たちがやりたいようにやってごらん。先方との調整は私が引き受けるから」という調子で、煽っておく。
 これでいいのだ(あれっ、どっかで聞いたことがあるような...)。とにかく、ほとんど全員、日本に行くのは初めて。中には飛行機に乗るのが初めてなんて子もいる。話していて、彼女たち(一名の日本滞在経験者の男子学生を除くと全員女子なので)が今からワクワクしているのが伝わってくる。研修の後、みんな一月ほど日本に滞在する。もう今からあれもこれもと計画している。感覚を全方位に開いて、思いっきり楽しんでおいで。
 彼らたちの滞在の後半は、私も東京での集中講義がある。「どっかで一度、皆で集まろうか」って、私から振ると、「先生、飲み会でもしましょうよ」って、男子学生から日本語で提案があった。
 Pourquoi pas ?