内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

気分と文体 ― 自己心理療法としての文章推敲

2016-04-26 00:00:00 | 雑感

 今年の二月以前の記事でも、気楽な調子で語りかけるように書くときは、「です・ます体」、つまり敬体を採用していた。今年の二月下旬からは敬体で書く機会が増え、三月上旬からは哲学的な内容でも敬体で通すことを試みた。初めてのことで、私自身にとっては新鮮な実験だった。
 結果として、書いている本人には、大変心地よかった。もし、読んでくださった方たちにとっても、表現がいくらかでもゆったりした感じになって、話を聴くような「親しさ」が少しでもそこから感じられたとすれば、とても嬉しい。もっとも、内容が内容だっただけに、文体が変わっても、相変わらず、難しくて訳が分からん、ということだったかも知れない。
 今日から文体を常体に戻す。これは、何らかの方法意識に基づくのではなく、単に気分を変えるために過ぎない。だから、気分によっては、また敬体で書くこともあるだろう。
 先週金曜から昨日までの四日間の記事では、本当につまらぬことを書いた。もう止める。自分でも、何くだらんこと書いてんだ、と自分にうんざりしてきた。
 実を言うと、そうなるのを自分でも待ちながら書いていたようなところもある。実際、書いているうちに、気持ちの立ち直りの兆しも感じられるようになってきた(そんな拙文を読んで心配してくださった方々には、この場を借りて、心より感謝申し上げます)。
 普段の記事は、それほど推敲することはない。というか、その時間もない。毎日投稿が自分に課した鉄則だから。ところがこの数日間の記事は、何回となく書き直した。推敲というのとは違う。書き直し続けることで、自分の気持ちに向き合い続けた。
 一旦勢いで書いてしまって、数時間おいて見ると、なんとも情けない文章だと気づく。それに手を入れることでまた気持ちが動く。まだ不安定だから、さらにネガティブな方向にも傾きかける。書くのを中断する。時間をおいて、また読む。書き直す。この作業を金曜日から繰り返した。
 何という時間の無駄だろうか。やらなきゃならない重要な仕事があるのに。しかし、私にはこの無駄が必要だった。
 明日から三回、今年度最後の講義である金曜日の近世文学史の準備のために、岩波の日本思想大系『荻生徂徠』に収められた吉川幸次郎の解説「徂徠学案」について書く。























































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