内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

存在の「転導的統一性」― ジルベール・シモンドンを読む(42)

2016-04-02 11:10:04 | 哲学

 今日読む箇所は、シモンドン自身がこの個体化研究において存在をどのようなもの或いはこととして構想しているかをまとめて述べ直している段落です。これまで読んできたところに何か新しい要素が付け加えられているわけではありませんが、シモンドンの考え方に少しずつこちらの思考を馴染ませていくために、飛ばさずに読むことにします。
 存在は、同一性的統一性を有していない、つまり、そこにおいてはいかなる変容もありえない安定状態の統一性を有していないという趣旨のことは、これまでも繰り返し述べられてきました。存在が有しているのは、「転導的統一性」(« unité transductive »)だとシモンドンは言います。
 何でしょうか、この「転導」(« transduction »)というのは。『小学館ロベール仏和大辞典』によると、この言葉は、生物学では、「形質導入」(微生物の遺伝形質を、バクテリオファージの仲介で他の形質に変化させること)、心理学では、「転導論理[推理]」(論理の形成が不十分な幼児期の思考様式。推論が個別的な事例の繰り返しに終わり、全体としての統一、意味を欠く)です。これらを手掛かりとして、シモンドンの言うところに耳を傾けてみましょう。

il [=l’être] peut se déphaser par rapport à lui-même, se déborder lui-même de part et d’autre de son centre.

それ[=存在]は、自己自身に対して移相すること、自己の中心からあちらこちらへと自己をはみ出していくことができる。

 つまり、存在とは、自己分化・自己変容を繰り返しつつ、自己拡張していくことであり、そのことが存在に「転導的統一性」をもたらしているというのです。
 この文の次の文から段落の終わりまで、一息に訳してみます(最後の文は、原文ではイタリックで強調されています)。

複数の原理の関係あるいは二元性と普通見なされているものは、実のところ、存在の広がりであり、その広がりは、統一性あるいは同一性以上のものである。生成は、存在の一次元であり、最初に与えられた実体的な存在が被る継起的事象にしたがって存在に到来するものではない。個体化は、存在の生成として捉えられなければならず、存在の意味を汲み尽くす範型として捉えられてはならない。個体化された存在は、存在のすべてではなく、最初の存在でもない。個体化された存在から個体化を捉えるのではなく、個体化から個体化された存在を捉え、いくつかの異なった大きさの秩序にしたがって配分された前個体化的存在から個体化を捉えなくてはならない。

 存在は、その生成の相の下に、前個体化段階から個体化を通じて複数の異なった大きさの秩序へと分化しつづける過程として捉えられるときはじめて、その本来の姿を現す。こうシモンドンは考えているだと思います。