内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

転導は、何も差し引かず、すべてを新しいシステムの中で生かす ― ジルベール・シモンドンを読む(49)

2016-04-09 06:28:12 | 哲学

 昨日の近世文学史の講義では、国学の成立と確立について主に話しました。当然のことして、主役は本居宣長でした。「もののあはれ」論を例解するために、『紫文要領』『石上私淑言』『源氏物語玉の小櫛』から引用したのですが、どのテキストでも似たような言説の繰り返しが多いんですよね。もう、これでもかっていう感じで諄々と説いていく。
 シモンドンにもそういうところがあります。「え~っ、またですかぁ。この話前にも何度か聴いてますけど」みたいな。そんなのおかまいなしなんですなぁ。繰り返すんですよ、倦むことなく。でもね、宣長の場合もそうなんですけれど、それに我慢して付き合っていると、じわじわと効いてくるんですねぇ、これが。その考え方・感じ方・物の見方がこちらに染み込んでくるんです。入浴剤を入れた湯船に浸かっていると体が芯から徐々に暖まってくるのとちょっと似ているかなぁ。
 というわけで、湯船に浸かるような気分で転導論の続きを読んでいきましょう。
 今日読む箇所は、転導は、演繹とも帰納とも違う、というお話です。
 演繹とは違って、転導は、問題解決のために問題発生の場所を離れません。その場で解決を探すのです。転導は、問題を抱えた領域に走っている緊張そのものから解決をもたらす構造を引き出そうとします。それは、過飽和状態に達した溶液が、それ自身の潜在性のおかげで、それ自身が内包していた化学物質の種類に従って、結晶化するようにです。転導的解決法は、己の外部から己に無縁な形を持ちこむことによってもたらされるものではないのです。
 転導は、帰納とも違います。帰納は、確かに、研究対象となっている領域に含まれた現実構成要素の諸々の性格をしっかりと保存し、それらの諸要素の分析から問題解決のための構造を引き出します。研究対象領域の外からその領域になかったものを持ち込んで問題解決を図ろうとはしません。そこまでは転導と同じです。しかし、帰納は、それら現実構成要素の中から肯定的なもの、つまり「共通するもの」しか保存しようとせず、それぞれの要素の特異性は排除してしまいます。ところが、転導は、それら現実構成要素のすべてが何も失うことなく自ずと秩序づけられる次元の発見なのです。
 問題解決的な転導は、否定的なものの肯定的なものへの反転作用を実行します。この転導的反転作用においては、構成要素間相互の還元できない差異、それらの間に隔たりをもたらしているものが解決システムの中に統合され、意味成立の条件になります。それは、二つの網膜上にそれぞれ映った像の間にずれがあってはじめて一つの視覚像が成り立つようにです。
 転導においては、現実構成諸要素に含まれた情報から何かが差し引かれることによって情報が貧困化されることはないのです。転導は、最初に与えられていたすべての構成要素が含まれている具体的組成が結果として形成されるという事実によって特徴づけられます。
 あっ、この話、ここで終わりじゃありませんよ。まだ続きがありますから、湯船から出ないでくださいね(のぼせちゃうかな)。