内的自己対話-川の畔のささめごと

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吉川幸次郎「徂徠学案」を読む(二)― 種種の意味の可能性を渾然と未分裂に包括した文体

2016-04-28 00:00:00 | 読游摘録

 「古文辞」を直に学ばねばならぬという徂来古文辞学の根本的テーゼを帰結としてもたらす言語についての基本認識の要は、「古文辞」の「古言」と現代語の「今言」との間の非連続性にある。この非連続性は、時代の変遷に起因する。「世載言以遷 言載道以遷」(「世は言を載せて以って遷り、言は道を載せて以って遷る」)。この言語観もまた、今日の私たちにはほとんど常識に属する。しかし、吉川幸次郎は、当時にあって「彼の思考は、たとい完全な創見がないにしても、一つの画期であったのではないか。少なくとも徂来自身としては、新しい覚醒であった」と、徂来の時代の文脈において事柄を見直すことを私たちに促す(六七四頁)。
 「古文辞」は、何故、それ以後の一切の言辞に優越するのか。その理由は、三つに分けて説明される。
 その一は「叙事」。「古文辞」は事実を叙する文章である。文章には叙事と議論とがあるが、叙事こそ文章の本来である。この言語観は、議論の横行は信頼の欠如という倫理的認識と表裏をなしている。しかし、信頼の欠如は、単に倫理的な問題であるにとどまらず、次のような認識論的な問題を引き起こす。

なぜ議論は「一端」片はしを「明らか」にし得るのみで、一方的であるのか。複雑に分裂する現実のすべてを、人間は知り得ないとする思考が、基底にあるほかに、特殊な思考が併存する。議論は必ず論敵を予想し、それを克服しようとするゆえに、必ず一方的であり、誤謬におちいるという思考である(六七六頁)。

 論争において論敵に勝つことは、その勝者の論理が真理であることを少しも保証しない。むしろ勝つための戦略は、私たちから真理を覆い隠し、誤謬へと導く危険をつねに孕んでいる。
 「古文辞」優越の理由のその二は、「修辞による事実との密着」である。
 古代中国人の「古文辞」は、なぜ事実に密着したすぐれた言語でありえたのか。それは古代人の特殊な修辞法に拠る。言語にまず必要なのは、「達意」すなわち事実の伝達である。孔子の語に、「辞は達するのみ」とある。同時にまた孔子は、「辞を修めて其の誠を立つ」という。つまり、「達意」と「修辞」の両者は、文章に必須な二つの条件である(六七八頁)。
 「達意」の「叙事」は「修辞」と不可分であるというこの認識は、以下の帰結をもたらす。

すなわち「修辞」は、「叙事」のための「修辞」であり、事実を言語に密着させるための「修辞」ということにならねばならない(六七九頁)。

またかく事実に密着した「修辞」が「古文辞」であるとすることは、更にやがてその学説の結論として、「道」はすなわち「辞」において求められるという主張を完成して行ったとせねばならぬ(同頁)。

 しかし、「道」を「辞」において求めるということは、「辞」をもって「道」を伝達する過程とするのには止まらない。

つまり「古文辞」は事実と密着した「修辞」であるがゆえに、それ自体が事実であり、事実であるゆえに「法」であり「義」であり「先王の道」なのである(同頁)。

 徂来の思考はそこからさらに次のように勇躍する。

「修辞」こそ文章の正道であるとする文章論は、すべての事象が、修飾を価値とし、素朴簡単を価値としないという思考へとのびる、「弁道」また「弁名」の「文」の条に、「先王の道」、またその記載である「六経」は、修飾された存在すなわち「文」的な存在であるゆえに、至上の価値なりとする(六七九―六八〇頁)。

 「古文辞」の尊重は、単純素朴な古拙なる言句を愛でることとはまるで違う。「古文辞」の「修辞」は、原事実を修飾語によって「飾る」ことではない。事実をその事実に内包された豊穣な可能性とともに表現する方法であり、それによって得られた表現そのものである。
 「古文辞」の優越の理由のその三は、「含蓄」である。
 「古文辞」は、「種種の方向へと伸びるべき意味の可能性を、渾然と未分裂に包括した文体である」(六八〇頁)。この含蓄について徂来のテキストからの引用を交えた吉川による説明は、徂来からの引用と吉川の地の文とが渾然一体となった見事な「祖述」になっているので、そのまま引く。

「訳文筌蹄」の「題言」に、「含蓄多くして、余味有り」。以下彼の用語にしたがい、「含蓄」の語をもってそれをいおう。「題言」には更にいう、そうした文体のゆえに、「古文辞を熟読する者には、毎に数十の路径有り」。意味が数十の方向に放射される。しかも秩序をもった放射であって、「心目の間に瞭然として、条理紊(みだ)れず」。ゆえに「読んで下方に到るに及んで、数十の義趣、漸次に用(はため)かず、篇を終るに至りて、一路に帰宿す」。光彩陸離と放射された数十の路線が、やがて篇末に至って、はっきり焦点をむすぶ。それが「古文辞」である。後世の文章は、議論の分析を事とするため、放射するものは、ただ一本の線である。そればかりか読んでいる人間は、「止だ一条の路径を見るのみ」。要するに「古文辞」は、その「修辞」のゆえに、包括的な、ひきいだされるべきすべての可能性を内蔵するところの、濃密な文章である(六八〇―六八一頁)。












































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1 コメント

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正統派の宇宙現象学 (franoma)
2016-04-29 08:22:41
現象を全体的に写生(活写)することを
複数、多波長の電磁波、粒子線の眼を持って目指し、
宇宙における森羅万象の現実として認識を共有す…
その際、X線でしか観測されないものが如何に多いか、
しかも強力なX線を観測されるように効率よく放射するには
中性子星、クォーク星、ブラックホールなどコンパクトな天体が必須であり…
と、いう趣旨で長大な修士論文を書いたところ、
指導教授から「森羅万象、魑魅魍魎ってか? 余計なことは書かんで宜しい」と言われ、「魑魅魍魎は、確かに京都大学にたくさん、おいでですよねー(註:当時は佐藤文隆氏だけでなく http://www.ipmu.jp/ja/masataka-fukugita 氏までおわしましたので、魑魅魍魎と感じるのは「常識的な感性」でした)。流石に、そういうことは余計なことだと思うので、書きませんけど、森羅万象は良いでしょう?」と思ったのですが、
「現象を全体的に写生(活写)することを
複数、多波長の電磁波、粒子線の眼を持って目指し、
宇宙における森羅万象の現実として認識を共有す…」
というのは要らないそうでした。その理由は「自明だから」だそうです。
そうこうするうち、折角(?)無駄に(?)長大な修士論文を書いたのに、どんどん削って十分の一になってしまいました。与太話は、さておき、
「太陽電池パドルの両翼分離」が原因らしく「ひとみ」ちゃんは自閉状態( http://www.jaxa.jp/press/2016/04/20160428_hitomi_j.html )になってしまったそうですが、X線観測データの追加取得は将来に期待して、今は、これまで溜めてきた全天の多波長観測データの集積を活かすことにマンパワーを投入することが大事だと思いました。
「『古文辞』は、その『修辞』のゆえに、包括的な、ひきいだされるべきすべての可能性を内蔵するところの、濃密な文章」によって現象を全体的に写生(活写)すること…このことを宇宙における森羅万象について今こそ追求し、
http://www.ipmu.jp/ja/masataka-fukugita 氏らのように正統派の宇宙現象学を進めることが初めから「王道」というものでしょう。
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