内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

仮想現実世界の言葉の暴力が人の心をそれと知らずに殺している(下)

2016-04-25 00:10:00 | 雑感

 私的なメールでも、つまり非公開の個人的なやり取りでも、受信者にショックを与えないように、表現にはとても気を使っています。少なくとも、いつもそれを心掛けています。
 手書きの書簡ならば便箋や筆跡から感じ取ることができる相手の気持ち・息遣いもそこにはなく、声・表情・身振りなど、その場に一緒に居合わせれば感じられる相手の雰囲気がまったく欠落したやり取り、それがメールです(その点、あの絵文字というのは、上手に使うと、多少はそういう欠落を補ってくれますね)。
 画面上のちょっとした一言が相手を深く傷つけてしまっても、送った側はまったくそれに気づくことができません。送信してしまった後で、「しまった!」と思っても、もう後の祭りです。私自身、そうした苦い経験が過去に何度かありました。だから、最近は、とても控えめな表現を使いつつ、ときには何度も推敲した文章を送ることで、相手に気持ちを伝えるように努めています。
 ところが、手軽さの裏返しなのでしょうか、大抵の場合はその時の勢いでつい送信してしまっただけなのでしょうけれど、受け取る側の日頃の気持ちやその時の精神状態など一切無視した、とても攻撃的なメールを送りつける人もあるようですね。
 その中身は、受け取る側に弁明の余地を一切与えない、一方的な非難・否定・断罪の言葉であることが多いようです。そういう場合、発信する側は、「正しい者」、「罪なき者」あるいは「被害者」として、相手に対して、「すべてはおまえが悪い。おまえのせいで、こちらはいわれのない被害を被っているのだ。お前の味方など、この世に一人もいない!」などといった調子の言葉で、「石を擲つ」わけです。それらの言葉の中には、確かに、多分に、或いは少なくとも、幾分かは、真実も含まれている場合もあるのかも知れません。
 しかし、裁判ならば、極悪非道の被告にさえ弁護の権利が認められているのに、こういう私的な断罪は、まったく一方的で、情け容赦がありません。特に、弾劾・告発している側が、自分たちは「罪なき者」、「正しき者」、あるいは全面的な被害者だと確信して疑うところがないとき、その裁きの舌鋒は、あたかも、身動きができないでいる相手の喉元に刃を突きつけるかのような苛烈さを見せることもしばしばあるようです。自分たち裁く側は、つねに、全面的に、「正しい」かのように。
 そういう「正しい人」、「罪なき者」たちだけが生きる世の中になったら、すべての人たちがお互いを思いやり助け合う、さぞかし幸福に満ちた世界になることでしょう。幸いなことに、どうやら、この世の中は、そういう「正しい人」、「罪なき者」たちが多数派を占めているように私には思われます。
 そのような「正しい」人たちだけからなる「よい」世界の中には、しかし、一度「間違った」人間たちの居場所は、どうやら、どこにもなさそうです。