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「個性」を伸ばせと言われても--専門バカの時代--

2006年04月22日 | 教育
 才能の分布には偏りがある。大勢の人を見ると偏りがあるのがわかるだろう。「絵を描く」のが得意な人もいれば、不得意な人もいると言うことである。また、これは一人が持つ才能に偏りがあることも意味する。絵は得意だが、算数は苦手というような例である。

 「個性を大事にする」とは、当たり前の意味で解釈して、「他の人の持たない素晴らしい才能を見つけて育てて発揮させる」ことである。

 しかし、才能の分布には上記のような二種類の偏りがあることを考えると、これは、具体的には以下のような状況を指すことになるのがわかる。
 まずは、「何かに才能がある人はその他のことには才能がない」場合、持てる素晴らしい才能を発揮させ、それ以外の能力を問わないことになりかねない事態である。他方は、才能が誰にしも平等に賦与されている保障はない。これと言って才能のない多くの人たちはどうしたらよいのかという問題を提起する。

 これと言った才能のない後者にとって、才能を伸ばそうとする教育、個性重視教育とは、まずは存在し得ない。「何か素晴らしい才能」に恵まれない場合にそれを見つけ出そうとしてもできるわけがない。(以前も書いたかもしれないが)「得意なものや好きなものを探せ」と言っても、見つからない子どもがいて当たり前であろう。しかし、今は、そんな子どもは、なんだかんだと、要は、「責められる」。昔だったら、「これこれをせよ」と、親なり社会なりの制約で規定され、否応なくも素直に従えば良かった。「そういうものだ」で済んだ。「責められる」ことはなかった。その意味で、「自由」と「個性」が尊重される社会は、あまりにも平均的で均等な「天賦の才」を与えられてしまった子どもにとって、言い換えれば、それなりにトレーニングを積めばそれなりのことなら何だってできるようになるであろう子どもにとっては、自分で選ぶには選択の幅が広すぎる、しかし、分野によって、本当の才能のある人たちに混ざれば常に負けてしまう可能性が相対的に高くなる不幸な社会であるだろう。
 
 それで、また、前者、個人の才能の分布に着目する「何かに才能がある人はその他のことには才能がない」の典型はサヴァンの人たちということになろう。(以下、ずっと昔の記事にもちょっとイロイロ書いたと思う。)何百年昔であろうと未来であろうと、日付を聞けばたちどころに曜日を言うカレンダーマンや、一度聴いた音楽をピアノで再生できる人など、特異な分野でもの凄い能力を発揮する人たちである。しかし、彼らは、普通の日常生活を送れない知的障害を併せ持つ。持てる能力の全てが、そういった「特殊な」能力に集約し、ふつーの能力が欠如したようだ。

 実は、ここまでは前置き。随分と長くなったが、サヴァンの少女、もの凄く絵を描く才能に恵まれた少女に算数を教えたら絵が描けなくなった、という話がある。
 何が言いたかったのかというと、この少女にとっての幸せは何なのだろうか、ということだ。それに付け加えて、社会にとって、そういう少女がどういう存在であるかという問いもある。
 たとえサヴァンでない一般論としても、偏りのある才能の何をどう伸ばす教育が人(その人個人と、その人を取り巻く社会集団内の人)の幸福に資するかどうかの判断の方法が、ここにないかと思うのだ。 
 
 得意だったり、好きだったりするのはきっと「快感」であろう。脳も活性化しているはずだ。だったら、快感を感じるように行動するのが生物として自然な生き方になろう。絵を描くのが得意な少女は、算数をしているときより、絵を描いている方が、おそらく快感を得るだろう。
 しかし、快感を犠牲にしてでも嫌なことをしなければならないときがあるとしたら、その方が大きな意味で自分の生存に有利になるときだろう。だから、これは、どの程度まで快感を犠牲にすべきかという問題でもある。

 何でこんなことを言うか。
 「数学は全然ダメ、英語は得意」という生徒は数学と英語を共にどこまで勉強すべきなのか。どこまで快感を追求して良く、どこまで不快に耐えさせるべきなのか、ついつい思ってしまうからだ。

 そもそも、今の高等学校の教育内容は、90%以上の高校進学率を鑑みると、多数の生徒の受け入れ能力の範囲をかなり逸脱していると思う。
 どうみても勉強に不向きな生徒が多い。国語でも数学でも実際的ではない勉強をするよりも、身体を動かした方がずっと脳内快感物質の放出が盛んだろうと思うのに、彼らは身体を机に縛り付けられている。
 また、たとえば、数学だけなら耐えられようが、それに英語が加わると、どうにもしようがない生徒もいる。
 これは、「算数をしたら絵が描けなくなった少女」と似た状況ではないだろうか。

 しかし、机に身体を縛り付けることによって、将来的な意味を含めた大きな意味での生存が有利になる状況ならそれで致し方がないと言うことか。しかし、この「有利」は、その「個人にとっての有利」である。
 そういう個人が増加することによって、社会の構成員の割合は変わることになる。絵を描くのが得意な少女が、算数の勉強のせいで絵が描けなれば、人類は素晴らしい芸術家を失うことになるという危険性である。これが「マス」として起こった場合、どうなるかである。それで住みやすい社会になるか、かえって住みにくい社会になるのか。


 しかし、「個性」が標榜される時代とは、結局は、人生所詮は「快感」だ、という、世の中に何割か必ず存在する「ある種においてのみ才能に恵まれた人」を優遇しようという、世の傾向を感じるのである。(これが、今回、最も言いたいことです。)


 たとえば、養老先生や藤原先生のような余程の人を除けば、語学の才能と数学の才能は両立しにくい傾向があるようだ。かの吉田研作先生は、数学がどうしてもダメだったらしい。しかし、彼の話す英語は完璧である。語学で身を立てている人の多くには、そんな人がかなりいるのではないかと思う。
 英語教育に関しての、とある「偉い人」と、電話で小1時間(否、1時間以上か)話したとき、語学に関しては大変な才能の持ち主であると知っていたが、その人は、文章読解力があると思えなかったし、ご自分の話の論理展開や整合性に欠けてもいた(と私は感じた)。その人の文章もそれまでに読んでいたが、私の文章の方がよほど英語の思考論理に適っていると思う。(私は英語は(期待される基準を満たすほど)できないけれど。)はっきり言って、技術的意味合いの強い語学ができるからと言って、語学教育が持つ様々な次元における曲面がわかると思えないのである。しかし、その人にとって、英語教育について語ることは英語という視点で「快感」であり、ご自身、一家言だと思っていらっしゃるはずだ。
 

 自分の快感を追求して、その道の専門家になったとして、その「論理」が、あまねく一般市民に通じるはずがない。自分の同様な快感を感じる人にしか通じない論理になる。私が言いたいのは、これがまかり通ろうとしているのが現代という時代ではないかということである。


 もっともこの道理は私にも当てはまる。
 私の場合、高校レベルまで(文系だけれど)数学を勉強して良かったと思っている。多くの人も数学を勉強した方が良いと思っている。「思っていた」と言うべきか。しかし、私が数学をやって良かったと思うのは、もともと私には多少なりとも訓練すれば開発される数学的なものの見方の才能が備わっていたと言うことではないかと気が付いたのだ。だから、逆に、そういう素地が全くない人がいてもおかしくないのである。才能は偏在するから、私にあればない人がいて当然なのである。その典型が、例の少女だろうし、ときどき学校で見かける生徒たちだろう。で、私の物理だったりするだろう。(私は物理だけはどうしようもなかった。)


 しかし、現状は、多少何らかの才能に恵まれた人のほとんどの多くが、他人も自分と同様な才能に恵まれていると思っていることである。あるいは、そう思ってなかったとしても、自分の同質の才能を開花させることが正統であると思っていることである。で、これが、ひょっとしたら、諸悪の根源だったりするのではないかしらと疑うのだ。
 表現を変えれば、自分が快感を感じることにおいてそれなりの成功を収めた人は、人もまた同じ快感を得るのがよいと信じて疑わないということである。


 だから、英語の達人は英語の重要性を訴える。音楽家は音楽の楽しさや重要性を語り、体現するだろう。数学者なら、「数学は美しい」と言い、数学の大切さを論じる。こういった主張は、いかなる分野に於いても当てはまる。(もし、あなたも同意するなら、あなたにもその才能がいくばくかは必ずあるということだ。)

 もっとも、「人生の豊かさ」と言うことを考えると、数多くの場面、英語であれ、音楽であれ、数学であれ、自分が楽しいと感じられる範囲で楽しめばいいのはわかる。それが「文化」だったりするだろう。しかし、マスメディアにのせられるような、あるいは、何かしら、特に素晴らしくもない「才能」をことさら強調して人を不自然に踊らせるような「気配」を感じるのである。

 踊らせる側としては、「同志」が増えるというメリットがある。自分と同じ感性で快感を抱く人を増やすというメリットである。それで、同志が多ければ、快感もきっと更に増える。たぶん人間はそんな風にできているのだろう。
 しかし、現代社会においての勢力拡大は、しばしば拝金主義と結びつく。それで、特別な才能らしいものを何も持たずに生まれついた人たちは、何らかの才能を持った人たちの勢力拡大の対象として、それなりの才能開発を計られ、それなりには楽しめることがあるかもしれないが特別なものは何もなく、メジャーな流行に踊らされたり、あるいは、次から次へと「もっと自分が楽しめるものがあるのではないか」、「自分にも何か才能があるはずだ」と思いこまされてとらえどころのない人生を送ることになるのではないかということである。
 つまり、何らかの才能に恵まれた人が、自分の分野で一層の成功を図るために、特別な才能に恵まれてない人を取り込もうとしているのではないかと私は推察し、危惧するのである。

 現代は、この意味で「スペシャリストの時代」だろう。力を発揮できるほどの才能の持ち主は、様々な分野にいる。割合も数においてもやはり限られるはずだが、その人たちが、大手を振っているのが今の時代だろうか。もちろん、これは今もいつの時代であっても変わりはない。しかし、今と昔では、雲泥の差で分野は多岐にわたり規模も大きく、社会全体に対する影響力が違うのだ。

 それで問題は、ある才能に恵まれる個人は、他の才能に恵まれていない可能性がかなり高いのである。しかし、専門家は専門家として社会的に認められれば発言権を持ってしまう。しかし、果たしてそれが「専門家」の意見として重要視されるべきことなのか。(一言で言ってしまえば、「専門バカ」の意見を聞くべきかということである。)それは、あくまでも、個人的に持つ才がもたらす「快感」に関わる勢力拡大の問題に過ぎない危険性があるのではないか。
 専門家は、おそらく、自分のやっていることによって社会全体がどう変化するか、社会全体に何をもたらすか、なんてことは、実は、余り考えていないのではないか。わからずに、それぞれの分野の、言わば「勢力拡大」を狙っている。

 その一端が、昨今の英語ブームだったりするのではないか。猫も杓子も英語英語で、現在、最も良い思い?をしているのは、英語にそれなり以上の才能を持つ人たちであろう。国家的レベルで、こんなに一つところに向かっていって良いわけがないのではないか。
 天から賦与される語学の才は偏在し、分布に限りがあるはずだ。その才能の多くが英語に流れれば、他の言語が手薄になって当然である。(フランス語の専門家が不足しているらしいと何かで読んだ。)国家が関わる教育が、それを助長するのはいかがなものか。

 パソコン好きはパソコンを重要視するだろう。それで子どもの教育に取り入れる事態が生じている。しかし、パソコンの利用を成長期の子どもに教えることが人間の発達にどのように関与するかという問題は、パソコンの普及を図る専門家の範疇を超えた問題で、全くの別次元にあるはずだ。(情報リテラシーとはまた別問題の話である。)しかし、そこのところが何かごっちゃになって論じられてしまうのは、これがパソコン通の専門家に欠けた視点だからだろう。
 パソコンに関しては、何らかのシステム作成による「一人勝ち」論もこれと関わる。より多くの人がパソコンに関われば、----たとえば、多くの人がブログを作れば作るほど、ブログというシステムを作る側が儲かる論理のように----「元」を牛耳る人が、全く目立つことなく最大の利益を得るのである。

 現在の諸問題の多くはこれに尽きるのではないか。
 社会の構成員の一人一人に自由が与えられているようでいて、その実は、目に見えてこない「誰か」に支配され、ふつーの才能を平均的に賦与されて生まれてきた大多数のふつーの人たちが、人より傑出した才という「個性」を持つ、少数ながらも様々な分野であちこちにいる、それなりに多数の人たちに「いいようにされている」ような現実がここにあるように見えて仕方がないのである。

 支配される側としては、たとえば、英語英語の時代にあって、必要以上に英語アレルギーで肩身の狭さを感じなければならない問題、対処しようと慌てふためかなければならない問題、「国際化」の名目で英語だけに着目させられることでかえって視野が狭められ、外国語がまるで英語しかないかのような錯覚を抱き、非国際的になるような本質の逸脱に結びつく視点である。

 支配する側としては、自分の分野のことにしか思いが至らない偏狭さである。
 「数学は全然ダメ、英語は得意」という生徒がどこまで数学と英語を勉強すべきかという問題は解決しない。しかし、その生徒は、長じてどんなに英語に熟達しても、自分に苦手があったことを記憶している必要はあるだろう。また、それを補う「何か」を学んで身に付ける必要があるだろう。でないと、支配する側に立ったとき、世の中に迷惑な専門バカになる危険性がある。

 「個性、個性」と言われて腑に落ちない理由である。


6 コメント

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Unknown (HEISAN)
2006-04-23 20:52:29
初めまして,HEISANと申します.

記事を拝読して思うところがあったのでコメントさせて頂きます.



 社会が個性をありがたがる傾向がある理由としては,「利用できる資源が一緒なら,分業すれば社会は活性化する」という経済学辺りからの主張があると思っています.この国際社会,情報化社会の中にあっては,多くの分野において,ほんとに一位になった人だけが破格の利益を得て,残りは衰退するという構図が発生することが避けにくくなっています.そんな中で,国際社会の中で日本が生き残るために,個性個性という話になるのだと思います.その意味で言えば,英語がやたらできるが数学はできない(英語の学習には快感を感じるが,数学に対しては不快感を感じる)という人に,無理に数学をさせるのは不適当で,そういう人には英語ばかりさせておくのがよい,という結論に(とりあえず短絡的には)なります.

 しかしこの考えは,短絡的過ぎて,いくつかの視点を欠いています.まず,ひとつの道(ここでは英語)を極めようとする人でも,それだけやっていては,いわゆる専門バカになってしまいます.ひとつの道を極めようとする人は,それをやりつつ,且つ,他の色々なことにも触れ続けていかなくてはなりません.この点で言えば,英語の才があり且つ数学の才が無いと思われる人に,英語と数学をどの程度勉強させるべきか,という問題はすんなりとは解決しません.英語ばかりさせて,英語バカになられても困るし(社会に貢献しなかったり社会に迷惑がかかるという意味で),だからといって,数学をさせることで英語の才が削がれるようなことがないとはかぎらないからです.

 第二に,これはkkhrpenさんも言及されていることですが,そうやって個性個性の時代になっていけばいくほど,個性を見つけられない,或いはそれほど傑出した個性と言えるようなものが見当たらないと思われた人たちが惨めな処遇を受ける社会になっていくと言うことです.個性を持っている人が社会に大きな貢献をしているんだ,ということが大手を振ってまかり通る社会と言うのは,逆に言えば,極論的には,個性が見当たらないと思われた人たちは社会にとって不必要な存在だ,と言っているのと同じになります.実際にはそんなことはないわけで,個性がないと思われた人たちも社会に一定の十分な貢献をしているわけです.だから,そんな人たちが不当な処遇を受ける社会を目指すのは,望ましくないわけです.つまり,現状の個性個性大賛成という社会は,国際的に厳しい競争環境の中で生き抜く知恵としては申し分ないのですが,どこか現状に即していない,そのまま適用しては副作用が尋常ではないような気がするのです.う~ん,どうすればいいのでしょうねぇ.
器用貧乏 (都下の人)
2006-04-24 23:16:49
って言葉を、最近聞きませんね。そういえば。

貧乏って言葉自体が死語になっているからだけなのかもしれませんけど。



私は小学生の時から、いろんなことを無難にこなせる2番手グループで、よく先生から「やれば出来るのに」と言われ続けたものですが、結局、オンリーワンにはなれないので、今日の文章はちょっとホロ苦いものがありました。(笑)
快感の節制 (ほり(管理人))
2006-04-25 00:53:02
HEISANさん、ご訪問&コメントをありがとうございます。



「分業による社会の活性化」は、効率主義によるものですね。国際化のあおりも受けてるのでしょうが、そうやって「効率よく」育った世代の人間が、果たして、目論見通り、日本という国が生き残るために「役に立って」くれるのかなと疑問を感じます。国家公務員で、公費で留学して、公務員を辞めて私企業に行くのも同類に見えます。拝金主義で、結局、自分の快感ばかりを追い求めて、どこでも条件の良いところに出て行っちゃうのではないかしら。そういう点、HEISANさんが短絡的だと心配されていることに正に同意します。

 

 記事には書きませんでしたが、危惧するのは、特にこれと言った個性のない人たちの何割か(たぶん)が、個性個性と、誰にでも個性があるかのような気分になって、騙されてのせられてしまっていることです。「下流化」ってことでしょうか。



いくら英語が得意でも、数学をしたら英語ができなくなるくらいでは、そもそもの英語の力も大したことがなかったと見なすのがバランスの取れた人間として健康的な気がします。「快感」て、人生で、そんなに感じてはいけないのかもしれませんね。人間が長生きできるようになったのは、快感を節制するようになったからかもしれないわけだし。



またどうぞいつでもお気楽においで下さい。

私は7割人間(笑) (ほり(管理人))
2006-04-25 20:25:42
都下の人さん、いつもコメントをありがとうございます。昨夜、HEISANさんのコメントのあと、都下の人さんへのレスを送ろうとしたら、邪魔が入ってできなくなったんです。



私も似たタイプかしら? 体育と物理以外は、なんとなく7割程度できて、不得意教科もないけど、ホントの意味での得意教科もないという寂しい人間でした。だから、「オンリーワン」には絶対になれない。で、また、2,30年前の入試制度は、そういうタイプにぴったりだったとも言える。時代が変わったのでしょうねぇ。(笑)

「全部を一応全部する」ってのが、私にとっての「快感」なのかしらと思ったりします。「快感」基準に考えると、だから、私は「オンリーワン」の感性を理解しないということかもしれません。

ハングリー (都下の人@今日はお休み)
2006-04-26 09:38:43
下手に認めてしまう育て方は、中途半端に満たされてしまって、結局ハングリーさを失わせてしまう気がします。

いまの子供のアッサリ感はそのあたりなんじゃないかと。で、結局は中途半端なオンリーワンになってしまう…

でも、本当のオンリーワンを求めて自分探しの旅に出ちゃうと、モラトリアム人生になっちゃうので危険。(笑)

ニートの言い訳って、そんなところじゃないかと思います。

…なんか天に唾してるようで、胸が痛いですが。(笑)
自己満足 (ほり(管理人))
2006-04-26 23:28:21
都下の人さん、コメントをありがとうございます。



数年前、生徒はよく「私なりに頑張った」とよく言ってました。それで、満足する自己満足。おまけに、周りの自分を知った人も、否、自分を直接知ってくれる人「だけ」がそんな自分を認めてくれる。「もっと~欲しい、したい」というハングリーさが、ない。広がる世界も、自分がいる世界も非常に小さいのかな。



ところで、前の私のレス、2つ、快感に関して矛盾してる内容になってますね。(笑)でも、7割人間が感じる快感は、目眩くような快感じゃないってことなんです。どこかで何かを「我慢」してるところがあるので、得意分野のある人の快感とは別種の、一歩引いた感じの快感だと思います。一昨日から昨日で、1日経って、そんな風にイロイロ考えたわけでした。

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