考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

プライド考

2005年08月24日 | 教育
 かなり多くの人が大事にしてるのが、意外にこれじゃないかと思う。

 プライドを持つことは良いこととされるが、周りの人間にとってこれほど迷惑なモノはないことも多い。お互い様だとも言えるが、実体が伴わずにプライドばかり高い存在は困ります。

 生徒指導上で最も困るのもこれです。子供のプライドから親のプライドまで。
 生徒も逆ギレしたりするのは、プライドのせいです。プライドが傷つけられると切れる。「バカにされた」と感じやすい。で、そういう子のプライドは、ガラスのように脆かったりする。

 プライドは、自分で感じる自分の存在感と関係しそうだ。だから、自分が感じる自分の存在が大事にされてないとか、無視されたと感じると、傷つく。 

 今の家庭は、内田先生によると、無条件の愛に乏しいらしい。親子間での「取引」になっているらしい。「これこれの条件を満たしたら愛情をあげる」のような。そのせいで、子供の心の安定感が育たないらしい。
 本来は、無条件の愛が安定感や安心感をはぐくみ、やがては本物のプライドに育って、多少のことにはへこたれなくなると思うけれど、ちゃんと順を踏んでないものだから、家庭で大事にされなかった分だけ学校で「大事にしてくれ。」と言っているのかもしれない。

 また、「張り子のトラ」のようなプライドの持ち主もいるような気がする。ほめられてだけ育ったような。そういう場合は、積極的に肯定されないという理由だけでも傷ついてしまいそうだ。

 だけど、学校はそうそう無条件で愛を与えることができる場所ではないから困る。学校は、個人の問題が、必ず個人の問題だけで済まなくなるのが困るのだ。(生徒集団は網の目のようなもので、一カ所引っ張ると全体に影響を及ぼすものだから、安易な「個人指導」「個別指導」は実は考えものである。)
 しかし、こういうの、一種の逆転現象なのだろうか。


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