たとえば何らかの生徒指導の際、「人間関係ができてないと無理だ」などおっしゃる方がいる。で、同意する方も実は実に多いのである。
思うに、ここでの人間関係ってのは、直接知っている、個人的に話をしている生徒と先生の関係のようである。どうやら、「同じ学校の生徒と先生」というだけでは「人間関係」にならないらしい。
10年も前の話だが、赴任したばかりの頃、朝の登校時、超ベテラン世代の同僚と一緒に並んで歩いていたら、向こうから生徒が来た。で、私は「おはよう」と声をかけた。同僚曰く、「部活で知っている子?」「知らない子だけど。なんで?」「挨拶したから。」「・・(絶句)」
これらは私には同じことのように思われる。
ところで、昔と今で大きく変わったことに、知らない人に叱られたことがあるかどうかの経験があるのではないだろうか。今の中高年だったらほとんどの人は、小さい頃に「知らないおじさんやおばさんに叱られる」経験をしていると思う。が、若い世代はないんじゃないのか?
小さい頃の経験が与える影響は大きい。「知らないおじさんやおばさん」に叱られることで、たぶん私たちは、自分も知らない人同士のコミュニティの一員であることや、知らない人同士にも一種の人間関係が存在することを学習することになるのではないか。
しかし、イマドキ、これがなかなか困難だ。下手に逆恨みされて刺されたら大変だもの。私だって、「知らないおばさん」として学校以外で子供に注意をしたことは、全然ないことはないけれど、やっぱりあまりない。これ、けっこう勇気が要るもの。で、ちょっと言っただけで、「あ、怒られた」なんて言われる。まあ、良い気分ではない。(苦笑)
話は元に戻るが、教員の場合、自分がそういう生徒の気分を損ねる指導をしたくないものだから「人間関係」を持ち出した可能性も実は高い。「人間関係」は言葉になると万能のようだ。(ここでも人間は社会的動物だってことがよくわかるね。そりゃ、私だってしたくないさ、でもね、それじゃぁ、あんまりだよなあ。。)
かくして、叱られる経験の少ない生徒と叱りたくない先生が集まって、ますます人間関係は狭くなる。
思うに、ここでの人間関係ってのは、直接知っている、個人的に話をしている生徒と先生の関係のようである。どうやら、「同じ学校の生徒と先生」というだけでは「人間関係」にならないらしい。
10年も前の話だが、赴任したばかりの頃、朝の登校時、超ベテラン世代の同僚と一緒に並んで歩いていたら、向こうから生徒が来た。で、私は「おはよう」と声をかけた。同僚曰く、「部活で知っている子?」「知らない子だけど。なんで?」「挨拶したから。」「・・(絶句)」
これらは私には同じことのように思われる。
ところで、昔と今で大きく変わったことに、知らない人に叱られたことがあるかどうかの経験があるのではないだろうか。今の中高年だったらほとんどの人は、小さい頃に「知らないおじさんやおばさんに叱られる」経験をしていると思う。が、若い世代はないんじゃないのか?
小さい頃の経験が与える影響は大きい。「知らないおじさんやおばさん」に叱られることで、たぶん私たちは、自分も知らない人同士のコミュニティの一員であることや、知らない人同士にも一種の人間関係が存在することを学習することになるのではないか。
しかし、イマドキ、これがなかなか困難だ。下手に逆恨みされて刺されたら大変だもの。私だって、「知らないおばさん」として学校以外で子供に注意をしたことは、全然ないことはないけれど、やっぱりあまりない。これ、けっこう勇気が要るもの。で、ちょっと言っただけで、「あ、怒られた」なんて言われる。まあ、良い気分ではない。(苦笑)
話は元に戻るが、教員の場合、自分がそういう生徒の気分を損ねる指導をしたくないものだから「人間関係」を持ち出した可能性も実は高い。「人間関係」は言葉になると万能のようだ。(ここでも人間は社会的動物だってことがよくわかるね。そりゃ、私だってしたくないさ、でもね、それじゃぁ、あんまりだよなあ。。)
かくして、叱られる経験の少ない生徒と叱りたくない先生が集まって、ますます人間関係は狭くなる。
更に、多様性とプライバシー尊重が、状況関与障壁になっている。
子供の頃に他人(この国ではこの表記を使わざるを得ない)に叱られた経験を持たない大人が増え、他人の子供を叱らない大人で埋め尽くされて行く。
叱らない親は、親ではなく「他人」なのだと思う。
生徒は「過客」で、教師は流れ作業に従事する労働者なのだとすれば、そこに人間関係が不可欠である理由はない。
人間関係は、「叱ること」「挨拶すること」などなど、、関わることで生まれるのであって、その逆ではない。
追、ご無沙汰です。お帰りなさい。不器用ですので、こんなんでごめんなさい。
怒ると叱るは違うとよくいいわれますよね。
その辺の分析も含めればもっとよい記事になったのになぁと、愛読者は思いました。
それにしても、人に注意するのってなかなかできません。。明らかに迷惑なことや悪いこと(電車の中でシャカシャカ音を立てて音楽(というか雑音)を聞いている老若男女(若者だけではない!)や、歩きタバコをしている老若男女(未成年から壮年のおじいさんまで))をしていても、注意できません。
だから、といって注意するメリットも見つけられず。。
madographosさん、ありがとうございました。勉強になりました。
>>人間関係は、「叱ること」「挨拶すること」などなど、、関わることで生まれるのであって、その逆ではない。
まさに。だから、私は「有名」なんですよ。(笑)知らない子でも声をかけてくることがある。その前に、私が何度も注意したりしているけどね。
>>多様性とプライバシー尊重が、状況関与障壁
言えてる~。私に言わせると、且つ、悪く言うと、双方に、我が儘がまかり通っている。
>>注意するメリットも見つけられず
メリットは、注意した人ではなく、「他のみんな」にあると思います。注意する人もされる人も、完璧、嫌な思いしてるはずだもの。
「子供の頃に注意してきた見知らぬおじさん」に感謝する人なんて誰もいないと思うし。
それから、よく「怒るのはいけない、叱れ」と言われるようだけれど、この頃(と言って、余り考えを煮詰めたわけではないですが)、怒ったって良いじゃないかと思います。人を動かすのは、結局「感情」だもの。子供は殊更そうだと思うし。。。。怒っちゃいけないからと思って叱れなくなってしまうデメリットの方が大きいだろうし。。(でも、まだ余り考えてないですが。)
確かに「人間関係」という語は、個人的なものに関わり、知らない人同士には使わないですね。
>>人間関係というような一種プライベートな要素を持ち込むことは,教育の歪みを生みます。
生徒と教員の個人的人間関係に基づいた「取引」が見られることが結構ありますよね。「目を瞑る」とか。。それで、「取引してくれる先生が良い先生」とか。
人間関係は最も人間らしいものだろうけれど、学校は基本的に「道理」を教える場で、学校以外にこの社会で道理を教えるところは他にない。だから、やはり原則を大事にすべきでしょう。でないと、学校教育の根幹が揺らぐ。勉強だって教えられなくなるはずですよ。(超トップ進学校の先生より、底辺校の先生の方が大変で立派なことをしている、という認識もこれと関連するでしょう。)
結局、みんなプライベートで強く「人」を求めてるんですよ。だから、先生は生徒に好かれたがって注意しない。卒業式の式辞祝辞等の要旨全てが「人との出会い」に終始する。「勉強」の「べ」の字も出てこない。(3月11日の記事、「学校は出会いだけの場?」に書きました。)
で、「人間関係を重視してどこが悪いんだ?」ってことになっている現状。