何十年か昔のとある帝国の総帥は、夜8時以降にしか演説をしなかったという話を聞いたことがある。論理的思考力を重視するより、人心をつかむためだったと思う。それで彼はそれに長けていたのは、たぶんカリスマ性ゆえだろう。推測するに、オーム真理教の麻原某もカリスマ性か何か凄く人間的に魅力のある人だったのではないかと思う。だから、超有名大学出の医者に結果的に人殺しまでさせた。
私の大好きな養老先生は、何かで、学校の先生も麻原某ほどに人間を変えることが出来る方法を見いだせると良い、というような内容のことを書いていた。教育で人間を変えることの重要性をおっしゃっているのは重々分かるが、ちょっと異論がある。
また、校長があるとき私に「カリスマ性のある教師になれ」と言うようなことをおっしゃってくださった。好意的アドバイスとしての言である。しかし、そのときも、内心、それはちょっと違うんじゃないのかと思った。
だって、学校は、道理を教えるところだもの。学校の勉強は、全て道理だ。ところが、カリスマ性というのは、道理とは相容れないはずだ。そりゃぁ、「カリスマ性に関わる道理」はあるかもしれないが、その道理は、演劇学校が何かでのみ有効なはずだ。今日のNHK人間講座で、「だます心・だまされる心」というのがあったようで、カリスマ性のことを何か話していたようだ。(「ようだ」というのは、最後の1分くらいしか見てないからなの。)カリスマ性は、いわば、だましのテクニックの一つかもしれないと私は思うんだけど、決してふつーの学校で体得すべき道理ではない。
学校は、本来、カリスマ性を重視してはいけないところだと思う。
(もっとも、こんなこと、現実離れしているものだから、反論は多いと思うよ。)人気のある先生はまず、カリスマ性のある人だし、なんだかよく分からないけれど誰かに引きつけられる体験、特定の対象を大勢で賞賛する行為は、無意識的な部分で、人間としてめちゃくちゃ快感だと思う。多くの商売だって成立しまい。「よし、あんたを信じよう。わしはあんたに賭ける!」は商売人としての生き甲斐になろう。「この人のためなら我が命をも投げだしたいぃ!」は究極の幸福かもしれない。最も人間らしい大の大人がそうだから、子供が小さければ小さいほど効果は絶大で、それを教育に利用しない手はなく、麻原某は見事に成功を納めた。
でもね、私が思うのは、学校とは、「道理に外れたことは、道理に外れているよ」としっかりアタマで理解することを覚える場所ではないのかということだ。つまり、「なんだか訳が分からないけど良い感じで」「凄く引き込まれる」と感じたとき、「ちょっと待て。果たしてこれは本当に正しいことなのか?」と自らに問い直す冷静さ、論理を身に付ける場所こそが学校だろう。だから、教える側にしても、カリスマ性が大事なのでは決してないと思うのだ。
今、問題なのは、カリスマ性云々より、教師が教えようとする内容そのものの問題の方が大きいはずだ。人間を変えようとしない、というより、どんな方向に変えて良いのか全く分かっていないと言った方が適切だろう。カリスマ性があろうとなかろうと、教える内容がしっかりとしていれば何ら問題はない。(教える内容というのは授業内容、項目というだけの意味ではない。)カリスマ性のある教師は世の中にたくさんいる。本当に多いと思う。でも、なんとなく教育全般がうまくいってなさそうに思われるのは、教えるべき内容が中途半端で、それがしかも幾ばくかのカリスマ性が威力発揮して、どんどん「効果的に」なんだか変な方向を向いているからだと思う。
私の大好きな養老先生は、何かで、学校の先生も麻原某ほどに人間を変えることが出来る方法を見いだせると良い、というような内容のことを書いていた。教育で人間を変えることの重要性をおっしゃっているのは重々分かるが、ちょっと異論がある。
また、校長があるとき私に「カリスマ性のある教師になれ」と言うようなことをおっしゃってくださった。好意的アドバイスとしての言である。しかし、そのときも、内心、それはちょっと違うんじゃないのかと思った。
だって、学校は、道理を教えるところだもの。学校の勉強は、全て道理だ。ところが、カリスマ性というのは、道理とは相容れないはずだ。そりゃぁ、「カリスマ性に関わる道理」はあるかもしれないが、その道理は、演劇学校が何かでのみ有効なはずだ。今日のNHK人間講座で、「だます心・だまされる心」というのがあったようで、カリスマ性のことを何か話していたようだ。(「ようだ」というのは、最後の1分くらいしか見てないからなの。)カリスマ性は、いわば、だましのテクニックの一つかもしれないと私は思うんだけど、決してふつーの学校で体得すべき道理ではない。
学校は、本来、カリスマ性を重視してはいけないところだと思う。
(もっとも、こんなこと、現実離れしているものだから、反論は多いと思うよ。)人気のある先生はまず、カリスマ性のある人だし、なんだかよく分からないけれど誰かに引きつけられる体験、特定の対象を大勢で賞賛する行為は、無意識的な部分で、人間としてめちゃくちゃ快感だと思う。多くの商売だって成立しまい。「よし、あんたを信じよう。わしはあんたに賭ける!」は商売人としての生き甲斐になろう。「この人のためなら我が命をも投げだしたいぃ!」は究極の幸福かもしれない。最も人間らしい大の大人がそうだから、子供が小さければ小さいほど効果は絶大で、それを教育に利用しない手はなく、麻原某は見事に成功を納めた。
でもね、私が思うのは、学校とは、「道理に外れたことは、道理に外れているよ」としっかりアタマで理解することを覚える場所ではないのかということだ。つまり、「なんだか訳が分からないけど良い感じで」「凄く引き込まれる」と感じたとき、「ちょっと待て。果たしてこれは本当に正しいことなのか?」と自らに問い直す冷静さ、論理を身に付ける場所こそが学校だろう。だから、教える側にしても、カリスマ性が大事なのでは決してないと思うのだ。
今、問題なのは、カリスマ性云々より、教師が教えようとする内容そのものの問題の方が大きいはずだ。人間を変えようとしない、というより、どんな方向に変えて良いのか全く分かっていないと言った方が適切だろう。カリスマ性があろうとなかろうと、教える内容がしっかりとしていれば何ら問題はない。(教える内容というのは授業内容、項目というだけの意味ではない。)カリスマ性のある教師は世の中にたくさんいる。本当に多いと思う。でも、なんとなく教育全般がうまくいってなさそうに思われるのは、教えるべき内容が中途半端で、それがしかも幾ばくかのカリスマ性が威力発揮して、どんどん「効果的に」なんだか変な方向を向いているからだと思う。
学校の勉強は全て道理。道理をきちんと教えられる人がよい教師。自分の実感ではまったく同感。
ただ、やっぱり勉強にどうしても興味のもてない子どもたちがたぶんいて(私はそういう子はいると思うんですが)、そういう子を一定程度「社会化する」とか「生活規律を習得させる」機能も学校に求められていて、「あの先生みたいになりたい」とか、「あの先生に会えるのが楽しい」とかいったことで、子どもたちを学校にひきつけなきゃいけない場合はあるんじゃないでしょうか。
「カリスマ」っていうのは大げさすぎると思うけど、道理よりも、教師の良い人格や生徒への愛情に触れることを必要としている生徒、いないですか?
ブログを初めて、まだ一ヶ月、それなのに、とらきちさんで、3人もの方々からコメントをいただきまして、本当にありがたいことと感謝します。
この度、コメントのレス、大変遅くなってすみません。
とらきちさんの「まったく同感!」に、まったく同感!です。
私の書き方もまずかったのですが、大げさか言い方だとカリスマ性、そこまで行かなくても教師の人間性と、道理の2つが、二項対立のようになってしまったのが具合悪かったです。
それでまた、私の言う「道理」とは、教科に関することだけでなく、
>>「社会化する」とか「生活規律を習得させる」機能
を含めた上での道理です。
でも、何か、私の経験だと、どうして人間性の豊かな方たちは、上記の意味での「道理」をあまり伝えようとしないように思われるのです。教師としてのせっかくの優れた資質を持つのに、もったいないですよね。
今日タマタマ生徒としゃべっていたら、教育論のような話になって、まぁ、いろいろここには書けない内容も多く出て、「なかなか理解してもらえないねぇ。」と言われました。
現勤務校は、それなりに賢い子たちの集団なので、(教師より)優れた感性の生徒も多く、ついつい「欲」が出てしまいます。