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考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

短い命=ビオス、長い命=ゾーエー、でいいと思う

2005年08月03日 | 物の見方
 読み始めてからなかなか終わりまで達しない本の1冊、「小論文を学ぶ」(山川出版社)で、私にとって驚くべき記述を見つけた。

 おっと、その前に、この本の紹介。(私がプラトンを読むことにしたのは、この本にあった引用のせいである。)
 高校の先生が書いた、難関大学小論文対策解説問題集で、かなり深く物事の説明がなされている。若干、書き手の思い入れというか主観的な表現が見られないわけではないが、人類の思想的な流れが分かりやすく纏められていて、私なんぞは、「あーなるほどそういうことだったのかぁ」の連続。高校時代に習ったことやコトバだけの知識が繋がる快感。(いつだったか、fer-matさんが、ご自分のブログに高校生が知識だけ詰め込むのも悪くないと書いていた理由がこれだ。)この本を読みこなす高校生は大したものだろう。(ウチの生徒にはまずいない。)

 さて、驚いたのは、ターミナルケアに関わる箇所で、ギリシャ時代には人の命を表す概念が2つあったという。一つはビオス(バイオの語源らしい)、身体的物質的な命らしい。で、もう一つはゾーエー、霊魂の生き様を表すための命だそうだ。本そのままの引用になるが、181ページ「人間は単なる物質的な命を生きているわけではなく、精神的あるいは霊魂的な「生きがい」の主体としての”いのち”を生きているという発想がギリシア時代の人々の人生論の原点にあった。」
 
 なんだ、私が言いたかったことがそのまま、ホントにそのまーんま書いてあるじゃないか。なんちゅうこっちゃ。短い命=ビオス これは、知的作業能力に関係する概念。長い命=ゾーエー これは意味探索能力に関連する。うんうん、そうだよね。なんと、私は古代ギリシア人だったのだ、知らなかった。ま、近代以前までの人々の間でこの概念は一般的なものだったらしいが、何にせよ、私は現代人じゃなかったことが判明した。
 
 臓器提供関連にしても、少年による殺人事件が起こるたびに学校現場で言われる「いのちの大切さ」にしても、筆者は、182ページ「いのちの問題を物質論に矮小化したり権利論に抽象化したりすることは、無益なだけでなく大変に危険なことでもある。いま教育者がそうした殺人少年と共犯関係にあるといっていい-----。」と言う。
 
 しかし、この先生の言うことを理解する教員は、一体どれだけいるのだろうか?(ちょっと賢い生徒の方がよほど理解力はあるぞ、きっと。)

 私は近代以前を生きている。(笑)養老先生みたいに、1周遅れでそのうち先頭にならないかな? 今必要なのは、こういうことだと切に思うんですけれど。。。  

2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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誰が為に (猫楠)
2005-08-04 00:32:44
 “<不死なるもの>に死すべき者として踏みとどまれ!” これは『倫理』(アラン・バディウ)の腰巻きにあるキャッチです。

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プラトンの次はアランさん? (ほり(管理人))
2005-08-04 20:00:10
河出書房社ので、「善はただ善へ向かう姿勢の中にしか存在しない。その時、うまれるのは〈不死なるもの〉だ――。善と悪、倫理の問題を新たな視点から論じる〈出来事〉の哲学者バディウの大胆にて過激な問題作。」と出ていました。

う~ん、他で見ても、なんだか「まとも」そうな人ですね。(ほりは、「まとも」かどうかで人を判断する。)

猫楠さんは物知りだなぁ。。またいろいろ教えてください。



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