考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

新しい学習指導要領のコミュニケーション能力

2008年12月24日 | 教育
 高校では、英語の授業を英語で行うらしい。今更言うまでもない疑問である。
 思うに、発案者の脳裏には、いわゆるselhigh、英語教育を重点的に行うスーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイ・スクールの成功例があるのだろう。興味深いことに、sshスーパー・サイエンス・ハイ・スクールは、進学校、それも、トップ校との言える学校が指定されるが、selhighの方はそうでもない。英語科などがあることは多いようだが、進学校でもない学校が指定されることがある。(もちろん、進学校もある。学校が名乗りを上げれば指定されうる。)それで、selhighの中に、特に学力が高いとも言えない高校生が、英語をかなり自由に操る能力を獲得し、授業で、活発に「コミュニケーション」を行っている実践例がある(と聞いた)。だから、発案者は、英語が話せる、話せないは、生徒の能力によるのではない、教師の指導力による、と思っているのであろう。だから、教師の指導力によって日本全国の高校で、話す英語の授業が可能であると考えたのだろう。まあ、selhighの指定を受けると経済的な側面でもさまざまな恩恵を受ける。もちろん、お金があればできる、と言うわけでない。けっこう、お粗末な実践報告もあると聞く。
 私は、短慮だと思う。「うまくいった事例」を敷衍化するのが危険であるということがある。(これって、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と関係するのかな?)

 で、以下を最初に書くべきだったろうが、学習指導要領にある「コミュニケーション能力」とは、私が見る分には、「同時代人とのコミュニケーション」としか規定していないように思う。私はこれを落ち度であると見る。
 人間が行う「コミュニケーション」の大きな特徴は、「時空を越えている」ことにあるからだ。同時代の「種」同志のコミュニケーションなら、あらゆる動物が行っていることである。これは、必ずしも言語を介在せずとも行うことが出来ることを意味する。(帰国子女の生徒に意外にいるのが、「私は英語でコミュニケーションが取れるから、学校で英語を勉強する意味がわからない」というものである。生徒によっては、身振り手振りで伝わるから、それで十分だと言うこともある。)
 しかし、時空を越えたコミュニケーション、特に、時間を超えたコミュニケーションを行うことが出来るのは人間だけではないだろうか。この人間特有のコミュニケーション能力を、この学習指導要領はどのように規定し、育成しようと努めているのだろうか。ほとんど何も述べられていないように思われる。これだけ「コミュニケーション能力」という語を用いながら、なぜなのだろかと訝しく思う。

 「時間を超えたコミュニケーション」は、具体的には文字の解読であろう。(絵というのもあるけどね、まあ、それは英語とはちょっと外れるからのけておく。)読解である。それこそ、人間はこの能力を得ているからこそ、現代に住む我々であっても過去の人と交わることができるし、現代人は未来への遺産を今後残すことが出来るのである。それは、これまで古くは数千年間、近いところでも数百年、1000年にわたって、「教育」と言う名で行われてきた営みそのものではないのだろうか。

 現代の日本に住みながら、我々は、過去の日本人はもとより、数百年前の英語話者の思いを辿ることができる。彼らの思いが深遠で、意味深いものであれば、こちらが問いかけをしたときに、彼らは必ずや答えてくれるであろう。英語話者の言葉そのものでなくとも、「翻訳」と言う手段を通して、これまで我々は、いかに多くの思想に触れることができただろか。(翻訳には、同時代人も含まれるが。)具体的には、「古典」と言われるものを通してのコミュニケーションである。高等教育を受けた人で、この経験を全く持たない人はいるまい。こういった人間特有の、かなり高度なコミュニケーション能力こそが、人間を人間たらしめてきたのではあるまいか。現在の日本人が多くの西洋語に触れることができるのは、高い翻訳能力を持つ人たちがこれまでに数多く存在したからこそであろう。今の高校教科書も、そのお陰を負っているはずだ。こうした高いコミュニケーション能力を培う基盤としての学習の重要性は、新しい学習指導要領のどこに記されているのだろう。コミュニケーションの主流が、同時代の直接的な人と人の関係になれば、新しい学習指導要領は、これまで我々が享受してきた豊かな世界を狭隘なものにしかねない種を蒔くことになるのではないか。

 高等学校の学習は、社会生活における実用性を伴う知識や技能と言った義務教育に置ける学習と異なる側面を持つものだろう。一体、今後の英語教育のどこに活かされるのだろうか。
 
 私が生徒に言うのは、日常的な会話なら、中学の英語で十分である。それなのに高校で英語を学習するのは、それ以上の内容を語るためである、ということだ。日常会話に関係詞はほとんど必要がない。複文も必要がない。ややこしい接続詞の用法も必要がない。
 しかるに、「論理」を語る際に、これらは必要になる。この論理の学習は、現行の学習指導要領において非常にお粗末である。(ライティングの学習指導要領解説を見よ。)より高度な「コミュニケーション能力」の育成を図るならば、論理の学習はいつどのように、どの段階で行うのであろうか。それも、「英語を使った授業」で行うのであろうか。言語習得の学習と論理の学習は、全く別物である。
 発案者は、こういった高度なコミュニケーション能力の育成については、どのように考えているのだろうか。わずか3000語の英語で、いかなる論理を語らせるのか。

 と、文句を述べたが、唯一賛同できることが書いてあった。自立した学習者になるべくの「辞書の指導」である。