考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

学校に連れて行く人

2008年12月21日 | 教育
 教育学や先生の語源はギリシャ語で「子供を学校に連れて行く人」であると教えて頂いた。(madographosさん、どうもありがとうございます。)

 これって、とっても示唆的であると思う。
 「これ」とは、先生が「子供を連れた人」ではなく、あくまでも「連れて行く人」であるいうことで、私は「連れて行く」の「行く」に注目したいのである。
 で、結論を言うと、今の学校の先生は世間的に、或いは、自らが「子供を連れる(?)」ことを目的にすることが良しとされ、連れて「行く」ことが目的になっていないということだ。これが歪みを生んでいるのではないか。

 では、先生は子供をどこに連れて行くのか。--ギリシャ語では「学校」である。先生はすでに学校にいるにもかかわらず、「学校に連れて行く人」なのである。では、ここで言われる「学校」とは、どこか、或いは、何か。--当然、「学ぶ」ということであろう。
 つまり、先生が直接子供に学ぶことをさせるのではない、学ばせる主体ではないということを意味するのではないか。ということは、先生にできるのは、あくまでも子供を学ぶ場においてやることだけである。先生が、ストレートに教えるわけでは決してないのである。←と書いても、よくわかってもらえないかもしれない。

 「先生は勉強を教えるためにいるのではないか、ならば、先生は子供を教える人そのものではないか」--世間的な常識ではそのように捉えられるだろうが、そうでないのだ。あくまでも、先生は、「子供を学ぶ場に連れて行く人」であるのだ。
 
 では、「学ぶ場」とは何か。学校という「場所」ではない。学習そのもの、学ぶことそのものなのである。
 算数だったり国語だったり、理科だったり、まあ、枚挙にいとまがない学習内容である。先生は、子供にこの世の中には、そういうものがあるということをあくまでも提示するに過ぎない存在なのである。だから、「連れて行く」のである。子供が最初に学ぶのは、算数の1,2,3で、国語のひらがなカタカナである。同時に、「数」という、実は概念としか存在しないものが存在すること学ぶ。言葉というこれも概念としか存在しないものが、人間の世界に存在することを学ぶ。それで、人間は、それを使って自分の周りの世界を捉えてきたことを、さらにまた、世界をどのようにとらえてきたかを我が身を通して知ることそのものが「学ぶこと」で、子供が学ぶ対象に直に触れることによってしか子供は習得し得ない、ということである。(う~ん。。上手く説明できない。)子供が、自分で、1,2,3がどのようなものであるか習得しないことに「学ぶこと」は成立しない。この過程において、「先生」は介在しない。あくまでも、子供と対象とのストレートな関係でしか学習は成立しないと言うことである。子供の脳味噌に先生の脳味噌を植え付けるわけにはいかないと言うことである。子供の自身の脳味噌を変容させなければならない、これは、子供自身の活動でしかなし得ない。そこに、他人が介在する余地がないと言うことである。「学ぶ」とは、自身の変容に他ならないからである。自身の変容に他人は関係がない。だから、「他人」としての「先生」は、「連れて行くこと」しか出来ないのである。「馬を水場に連れて行くことは出来ても水を飲ませることはできない」そのものだろう。

 まだ、どうしても納得できない人は、「だったら、水場で馬に水を飲ませる気にさせることだったら、先生が学習に介在することになるのではないか」と考えるだろう。しかし。それこそ「落とし穴」である。
 「学ぶ」とは、上記の馬の譬えなら「水を飲むことによってのどを潤し、体内に水を行き渡らせる」行為である。それは、馬にしか出来ない行為で、水場に連れて行った人にできることでない。

 「学ぶ」とは、外形的なものではないのである。水を飲んだ個体が水が体内に入り込むことによって変容するように子供が変容しないことに「学ぶこと」は成立しない。主体はあくまでも子供自身にしかない。だから、先生は、あくまでも「連れて行くこと」しかできないのである。

 ところが、あまりにも「連れて行くこと」の価値が肥大化し、子供自身の変容が「連れて行くことの肥大化」に隠れてしまった。そこに、昨今の教育問題の根幹があるのだと思う。「学ぶ主体が子供であること」が忘れられているのである。だから、「先生が何をするか」、「先生が何をしたか」ばかりが問いただされ、「子供が内的にどのように変容したか」という視点がない。せいぜいで学力テストの点数などの数値化したものか、「目を輝かせる」かどうか、ということだろう。が、子供はさまざまなことで目を輝かせる。どういった観点から見た子供の目の輝きかがきちんと問われているか。
 ここに大いなる不幸があるのだと思う。