考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

同業者として恥ずかしい

2008年12月11日 | 教育
 センター試験のHPで、まあ、言わば「講評」のようなものがある。教育関係者と教育関係団体、それに、入試センターの見解が各教科述べられている。
 実は、先日まで存在を知らなかった。(というか、自分で検索して読んだのが初めてだった。)
 で、昨年の英語をみると、「高等学校教科担当者の意見・評価」は、(全部丁寧に読んでるわけでもないけど)a large audience の出題やthat節内の強調構文を「難しい」としている。
 う~ん。。。「大勢の観客、観衆」って、日本語で言うと、どのくらいのレベルなのだろうか。小学生か。それを英語で表現することを大学に入ろうとする者に要求することが、そんなにも「難しい」と判定されることなのだろうか。まあ、日本語の感覚では難しい「集合名詞」だからではあるが、だったら、母語にないからこそ重要かつ習得すべき事項であろう。それなくして何が外国語の学習だろうか。また、大学に入って読む文章に、that節内の強調構文は存在しないのだろうか。だから、逆に、「これらは良問である」くらいのコメントをつけてしかるべきであろう。それを「難しかった」で終わっては困る。何ら生徒と変わりない。教員は生徒の代弁者でなかろう。
 解答番号の35に至っては、「前後においては内容的な繋がりはほとんどなく」と論じているが、文章は全体で書いた人が言いたい文章である。前後だけ読んで判断するのは浅薄であろう。「文章構成能力を問う」とあるが、これは文章構成力を問う問題ではない。読解力そのものを問う問題ではないか(と私は思うけど)。
 図形の位置関係を問う問題は、「問題のための問題」としているが、こういった抽象的な視覚情報(空間的な認識)をどのように言語化(時間的認識)に変えるかこそ、言語能力を問うのではないか。私だったら、作文で出しちゃうぞ。で、中学生でもするアクティビティに、「隣の人に説明して絵を描かせる」なんてのがある。これ、高校生でも生徒は結構喜んでやるよ。
 で、圧巻?は、「意見・要望・提案等」の一番の「出題形式の変更がある場合には、前もって公表していただきたい。」には、参った、としか言いようがない。如何なる出題であろうと「できる」のが学習の基本であろう。学校の先生が、「受験勉強は試験対策である」と言って、どうするのだろう。
 あまりにも「生徒目線」で試験を捉えているのではないか。解きやすい問題が良い問題、というか。。。observe the traffic rules にしても、教科書でも何でも「出てきたときに覚える」表現の一つである。熟語集や単語集で覚えるものでもなかろう。授業を大切にすれば良いだけの話である。

 まあ、言い分はわかる。「問題形式が変わると折角勉強をしてきたのに戸惑う生徒が出てくる。」これがアタマから離れないのである。ストップウオッチ片手に「受験指導」している教員の発想だろう。しかし、問題形式云々は当たり前だ。要は、日頃の勉強からして如何なる問題にも対応しうる勉強法で生徒を鍛え上げればいいだけの話である。出来ないのは、その生徒の努力か能力が足りないだけの話である。「入試」だから致し方ないだろうに。

 ホントに、この「意見・要望・提案等」は、私の目にはあまりにもバカげた内容であると思う。要は、出題をパターン化して、対策を立てやすくしろ、といってるようなものである。
 ・・・学校の先生をしてるのが嫌になる。

ゴミ・作文は脳味噌の整理

2008年12月11日 | 教育
 ずっと文章を書いてなかったから、何だかアタマの中に澱のようなものが貯まってきた気がした。昨日は、記事を書いたから、まあ、あんなものでも、ちょっとすっきりした。
 私にとって文章を書くことは、脳味噌の中の交通整理をすることなのだろうと思う。別に、昨日の記事は、昨日書きたかったものでもない。でも、「名前を間違えられたときの生徒の反応」を書いてみたかった。
 でも、「先生が名前を間違えるなんて、とんでもない」と顰蹙を買ったかもしれない。
 私は相手が大人であっても、人の顔の名前を覚えるのは苦手である。小学生の時に忘れ物を良くしたので、罰として漢字を何十回書いたせいでないかと思ったりする。