考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

覚えるのが苦手

2008年12月13日 | 教育
 昔々、大昔、生徒の記憶力の良さに感服したことがある。彼らは試験に出そうなことをとにかく覚えて乗り切ろうとしていた。「覚えろ」と言うと、「よし」と気合いを入れて覚えるか、「覚えりゃいいんでしょ」と覚えることを当たり前のように覚えていた。それで、実に勤勉に覚え込んでまあまあ良い成績をあげていた。自分の高校時代と比べてなんという違いだと内心で感嘆していた。私は記憶力が悪いので、覚える量が出来るだけ少なくて済むように、あるいは、覚えやすくするために論理付けをしたりなど試行錯誤をして苦労していたが、その頃に出会った生徒の記憶力は、もう、抜群としか言いようがない力を持つ者も多くいた。弱点は、「丸覚え」に近いので、定期テストは出来ても模試などになると力が発揮できてない生徒が幾ばくかいたことだった。彼らはゆとり教育以前の世代である。
 近年出会う生徒は、もちろん学校は異なるが、模試の平均偏差値はまあそんなに違わない。なのに、どう見ても、記憶を苦手とする生徒が多いように思われてならない。しかも、覚えることに価値をおいてないように見えるのが大きな違いなのである。「覚えろ」というと決して良い顔をしない。それどころか「こんなにたくさん覚えるの~~」と怖じ気づく。覚えることにもの凄い抵抗があるようにみえるし、覚え方も知らないようなのだ。
 小中学校での学習量が減ってきてからこの傾向が強いような気がしてならない。小学生の頃というのは、特に小学校3,4年の頃というのは記憶力がもの凄い時期ではないだろうか。何でもかんでも覚えてしまう。それで、覚えることに楽しみを見出したりする時期でなかろうか。しかるに、近年の子供たちは、覚えることが楽しい時期に覚えることをしてないのではないかと疑われてならない。私は彼らは「記憶する能力」をこれまで上手く育ててこなかったのではないかと思う。だから、高校に入って、特に英語なんぞで莫大な量の記憶を要求され、ギャップの大きさに戸惑い、ついてこれる状態でなくなるのではないのかと思う。
 自分の話で恐縮だが、とにかく私は覚えるのが苦手だったから、中学生のとき、社会科で地理でも歴史でもたくさん覚えるのに随分と苦労をした。白地図(←もちろん、自分で描いたよ)に書き込みをしたり、自分で年表を作ったり、表に纏めたりなど繰り返し書いたり言ったりの努力をして覚えた。その時思ったのは、「中学生の勉強でこんなに苦労をしてるのだから、高校に入ったら、もう勉強についていけなくなるのではないか」ということだ。しかし、高校に入ったら入ったで、もちろん勉強の苦労はずっと続いたが、それでもなんとかなった。振り返るに、中学時代に苦労して覚えて、言わば、覚える訓練を積んだ成果で記憶力でも学習能力が高まり、高校のより難しい事項もそれなりに習得できたのではないかということだ。もし、中学で覚える訓練をしなかったら、私の高校時代の成績は随分と違うものになっていたのではないか。単に、中学時代の言わば「貯金」の結果で高校の勉強とのギャップが少なくなったというだけでないように思われてならないのである。こういった観点で言うと、今の高校生は気の毒なことに、小さいときに覚える訓練を積んでこなかったから覚えることの大切さも知らず、記憶力も鍛え上げられないままきてしまったのではなかろうか。
 人間の子供の学習能力を十分に発達させるためには、当たり前だが、時機を得た学習が重要であろう。暗記力旺盛な時期に「考える力」を伸ばそうとしても無理である。考える力は、十代に入ってからで、それも、知識が骨肉化し、使える語彙がようやく思考内容と合致し始める後半になってからで十分であろう。(10代前半では、使用語彙より心にある思いの方が複雑だろうから、考えていることを言語化させるのは気の毒である。思考が使用語彙に制限され、言葉にならない思いを捨て、思考を単純化させてしまうはずだ。)
 知識はネットに預けておいて考える力だけ伸ばそうとしても無理な話である。知識を仕入れる段階で、知識のネットワークを自分の脳味噌に形成しなければ、周りにどんな有用な知識があろうと、有効に利用できない。つまり、考えることが出来るようにはならないだろう。「自分で考える」とは、ネットワーク化するということで、ネットワーク化する自分自身は、決してネット上に存在しない。知識はネットにあればいいと確か茂木さんはどこかで言っていたような気がするか、それは、彼が若い頃にもの凄く勉強をして(これも、なにかで読んだ。)、自分の脳味噌の中にネットワーク化できる能力を身に付けたからに過ぎない。そういう人と、そうでない人間が、ネットを記憶力代わりに利用して、同じように思考することは到底できないだろう。
 ネットを利用するにも、それ以前に外部記憶の知識を利用できるネットワークを自分の中に構築しておく、これが子供時代の教育目的の一つであろうし、そのネットワーク作りに重要なのは、以後の人生において、より大きなネットワークに繋がる「芽」としての知識の記憶である。材料は、もちろん流行によったものではなく、不易としてより豊かな世界を享受できる人間の叡智に関わるものであった方が、どれほど良いかわからないだろう。

観客

2008年12月13日 | 教育
 この間、テキストを読んでいたら、a lot of(←だったと思うけど。) audiences という表現に出くわした。ふつー、audienceにsはつけない。「大勢の観客」はa large audience である。でも、文脈は、「彼は大勢の観客の前で実演した」と言う内容である。ってことは、この人、何回も実演をしたということではないか。その度に、観客が見ていたのだろう。集合体としてのaudienceがたくさんあったから複数形になってaudiencesということになったのだろう。まあ、だいたいsがついていたら、「いろいろい~っぱいある」と思って良いのである。
 と、生徒には言っておいたが、君たちはaudiencesと書かない方がいいよ、といっておいた。a large audience を覚えておきなさい。


勉強をするってのは

2008年12月13日 | 教育
 要は、「勘を身に付ける」ってことなんだよね。
 覚え立ての知識は上っ面でしかないけど、アタマの奥底にまで染みこむくらいの知識になってくると、それは「直観」に通じるようになる。そこまでいくにはやっぱりカラダで勉強をするしかないってことなんだ。繰り返し繰り返しやり続けることで、応用力たる直観が身に付く。で、「これって、一見正しく見えるけど、ホントは違うんじゃない?」とか、「これは理由は上手く説明できないけれど、正しい」などという判断に繋がる。だから数学の証明問題は、「わかった!これって、これとこれがこうなってできるんじゃないのか」という推論がなされ、それでから証明という意識化が始まるのである。で、これって、数学だけじゃなくって、他の判断でも何でもに関わるであろう。「あることが正しいかどうか」の判断力は、そうやってじわじわと身に付くのである。だから、勉強をすればするほど、正しく考えることが出来るようになるだろう。
 そこまでやってやっと勉強は「勉強をした」というレベルにまでなるってことだ。アタマの中での知識や理屈の段階ではまだまだ「勉強をした」ということにはならない。

 そういえば篤姫で、嫁入り前の時にお母さんが「考えて考えてそれでわからなかったら、感覚(直観だっかかも。)にまかせなさい」とか言ってた。そうだ、そうだ、と思ったけど、それって、こういうことだったんだ。
 勉強もせずに、ただ勘に任せていたのでは本能的な欲望のみが露出するだろうな。人間の場合、脳味噌の発達段階は常に「未熟児」の状態で生まれるから、未熟児の脳味噌で判断させないために、「勉強」という考える力を身に付けさせる活動が必要になるのだろう。それが脳味噌の成熟を促す。で、もちろん、ここで言う勉強とは、今流行りの上っ面な勉強じゃないよ、言っておくけど。