今日の覚書、集めてみました

いつの間にか、10歳になりました。

この社会情勢で商売する気になるのか!?@テレグラフ

2005-08-23 12:15:49 | Telegraph (UK)
昨日はワシントン・タイムズに出ていた中国ビジネスの最低最悪な状況についてお届けしたが、今日はテレグラフから、中国の社会情勢がどれほど最低最悪な状況になっているかについて…。

1. Wealth gap threatens stability in China
By Richard Spencer in Beijing
The Telegraph: August 23, 2005

経済成長によってもたらされたストレスの為に、5年以内に社会崩壊(Social Meltdown)のリスクを中国は抱えている、として、昨日、政府当局者が警告された。

貧富の差の拡大に焦点を置いた或る公式報告書によれば、同国は現在、「社会安定性」指標の上から二番目に深刻な「黄信号」ゾーンにあるという。

「もし、これからの2~3年の間に効果的な解決策がなければ、我々は2010年には赤信号に到達するだろう」
と労働社会安全省によって委託された報告書は書かれている。

警告が本当であるかのように、この地域では暴力的抗議運動が発生しているが、最も最近のものとしては、中国東部の省Zhejiang省の町で暴動が発生した、と警察は告白した。子供達に鉛中毒を与えたとして電池工場を訴える親達が率いた暴動で、建造物とパトカーに火が点けられた。

このような暴動は今では多くの都市で日常茶飯事になってきとり、開発へ突進した事による、不正と環境破壊のコンビネーションに対する抗議運動がよく起こっている。

これらの暴動報道の増加は(国営China Dailyに労働省の発見した事柄が報道されていた)、膨れ上がる政府の憂慮を示している。

2年前に政権を継いだ胡錦涛主席率いる国家の指導者達は、貧民の苦境を採り上げ、地方での税金を廃止すると発表した。

しかし、これは、自分達の基盤と銀行口座の残高を支える事に必死な地方当局者による中国の工業好況からの搾取を阻むのは無理だと証明した。

香港で中国の労働者の権利に関する活動を行っているHan Dong-fangは、中国政府の破滅の予言は、地方の不正を激化させているようだ、と語った。
「今の所、当局者達は肩書きも経済力も持っている」
と彼は言った。
「彼等は急がなければいけないと思っている。でなければ、掴み取れるものも掴み取れなくなってしまう、と思っている」。

市場主導経済改革が25年以上前に開始されてから、平等主義に関する旧毛沢東主義的信念は消えうせてしまった。皮肉にも、貧富の差の標準測定値は現在、長年の的である資本主義台湾よりも「共産主義」中国の方が、よりはるかに不平等なのだ。

国家統計局によれば、昨年の地方平均収入は都市生活者のそれの1/3以下の£200/人だった。そして、貧富の差は広がってきているようだ。昨日公表されたデータによれば、中国のGDPが昨年比9%以上だった一方、地方の平均収入はたった4~5%しか上昇していなかった。

最も最近起こった抗議運動では、Zhejiang省のMei-sahnで、警察が抗議運動の人々に棍棒と催涙ガスを使って突撃した後、最大70名が負傷したと伝えられた。その後、首謀者達を逮捕するべく警察が戻って見ると、地元住民が暴れ続けており、電池工場に放火し、政府の建物に乱入し、パトカーを燃やしたという。

公安省は先日、一昨年の30,000人から増加し、昨年は、74,000人のデモ隊がこのような抗議運動に参加した、と告白した。地方の抗議運動(当局者はテロと一緒くたに安定性の敵とした)に対抗するべく特殊暴動部隊を創設すると中国当局は先週発表している。

中国の労働者による暴動を研究している香港の政治家学者David Zweig教授は、最近の政府の警告は、しっかりやらなければ大変な事になるぞ、と幹部に向けて発しているものだ、と語った。

「スローガンは、『農民の苦役を軽くしよう』で、1978年に最初に掲げられた。という事で、なんて彼等の政策は効果的なんでしょうねえ」。



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VJ Day(対日戦勝記念日)@テレグラフ

2005-08-22 12:36:26 | Telegraph (UK)
戦争中は、こういう事もしたんです。あったんです。同じような事をイギリス人もやりました。もっと酷い事もやりました。世界中が酷い事をしていました。日本人だって食うものも食わずだったんだって?わかっていますよ、そんな事…よく、わかっています。

私が怒っているのは、アンフェアなジャパン・バッシングです。だから反論しています。だからブログを書いています。

しかし、「怒ってフェアじゃない!」と叫ぶ以上、何は本当に行われたのか、を知らなければ、相手にとってフェアではありません。

相手がアンフェアだからこちらだってアンフェアな手を使ってやる、では、大和魂とは言えませんでしょ、ほっほっほっ。

だから、こういう事も知っておいて下さい。

2. Far East veterans remember and forgive
By Hugh Davies
The Telegraph: August 22, 2005

長崎に落とされた原爆の放射と日本の捕虜収容所の恐怖から生還した或る老兵が、戦没者記念碑に白い蘭の花輪を捧げるべく昨日ホワイトホールを行進した。

60年前に原爆が投下された時、今は86歳になるジョン・バクスターは長崎から30マイルの或る村に囚われていた。
彼が放射能に苦しまなかったのは、彼への海草と水という乏しい配給のおかげだとしている。

ウィルトシャー州トロンブリッジ出身のバクスター氏は、まだ快活で、どの戦域においても最多数の29個のヴィクトリア勲章が勇敢さを讃えて贈られた極東での紛争の、細かい所まで完全に記憶している。

そこで戦った人々の為の記念式典で、チャールズ皇太子とプレスコット副首相に率いられた高官の列に彼は続いた。

明るい陽光の中、日本が1945年8月に降服した対日戦勝記念日(VJ Day)記念式典の最後の全国式典で、ビルマ・スター協会(Burma Star Association)の会員は30本の旗を掲げた。

約3万人のイギリス人兵が日本との戦いで戦死し、各国出身の30万人の戦争捕虜の内、たった20万人しか生き残らなかった。

長崎に1945年8月9日に投下された爆弾は73,884名を殺害し、内25,000名は続く年月の中で死んでいった。

バクスター氏はこう語った。
「突然閃光が走った時、私は稲築の村にいたが、放射能は一度も私に影響を与えなかった。恐らく、日本人が我々に6ヶ月間も海草ダイエットをさせたからだろう」。

「通常11ストーンの私は7ストーンになっており、捕虜として蹴られたり殴られたりした」。
※訳者中:1ストーンは14ポンド。1ポンドは約0.45g。

「両肺の結核を含めた1/2ダースほども深刻な病気を抱えていた私を、医者達はどうにもならないと思ったんだろう。12ヶ月もつかも、と言われた。しかし、私はここにいて敬礼し、まだ元気だよ」。

先週BBCNew24の番組の中での在英日本大使の野上義二(ノガミ・ヨシジ)の個人的謝罪の為に、元鉛管工のバクスター氏が一人選出されたのだ。

彼はこう語った。
「私は驚かされる事に慣れてはいるが、この謝罪は物凄い驚きだった。彼は割合と本物のようだった。結構感情的な一瞬だった」。


彼の息子ジョン55歳はこう述べた。
「父は1982年まで私に彼の経験を話してくれなかった。日本人が彼にした事について、父は日本人を許した」。

父親が日本軍に対してイギリス・インド軍を率いたスリム子爵は、ビルマ・スター協会の会長としてKohima碑文を語った。
「家に帰ったら、彼等に我々の事を伝えてこう言ってくれ…貴方の明日の為に、我々の今日を捧げた、と」。

1979年にIRAの爆弾で殺害されたマウントバッテン卿の孫であるTV/映画プロデューサーのロムゼイ卿は、出席できなかった母親の伯爵夫人の代理として出席した。

アダム・イングラム軍務大臣や、防衛長官のマイケル・ウォーカー将軍も出席していた。

葬送ラッパがなると、帰らぬ人々の為に全員で2分間の黙祷を捧げた。

礼拝式次第を持っていないようだったので、プレスコット氏は祈りと賛美歌の間失敗したようだった。

列席者全員がプログラムに印刷されているビルマ・スター協会特祷を斉唱する時、プレスコット氏は言葉もなかった。

続いく賛美歌(Praise My Soulとthe King of Heaven)の間、マイケル卿(ウォーカー将軍)は副首相に彼のプログラムを見せてあげていた。

しかし、賛美歌が終わってマイケル卿が移動すると、プレスコット氏はまたまたプログラムがなくなったので、神への祈りには参加しなかったようだ。



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呼ばれなくとも太鼓持ちしろとさ@テレグラフ

2005-08-18 11:33:29 | Telegraph (UK)
日本軍の全員が聖人君子だなどと言った事はないし、これからも言わない。
お互いが傷ついた。お互いが傷つけた。
そうとしか言い様がないし、いえないじゃないか。
それで「オレは憎い。永遠に憎んでやる」と言われたら、黙って身を引く以外に方はないだろう。
誰が呼ばれもせず歓迎もされない場所にアホ面下げて「すんまへん」などとやるんだ。

お前等、やるかい?北アイルランドに行ってやってみな。

一々言いたくはないが、オーストラリアのおっさんにクソ偉そうな事を言われる筋合いはないぞ。

明らかに国際法に則っていないリンチ裁判(東京裁判)で、同じく連合軍の国々からやってきた弁護人達を頭ごなしに否定し追放し、挙句の果てに自分で検事と裁判長と兼務したのはオーストラリア人だろう。アボリジニをブチ殺したのもお前等だ。

その国、今では1,000人以上の中国人スパイが蠢動するオーストラリアからやってきた大使如きに
「招待してないけどさー、でもさー、それでもなんかしてれば、ちっとは許してやるのによぉ」
なんて言われるなど、忌々しい事この上ないわ。

イギリス人だってなあ、お前等の先祖がやった事は覚えているのか?習っているのか?北アイルランドの話は学校できっちり教えないそうじゃないか、ええ?無知な日本の若者は確かに多いよ。我々だって恥ずかしいと思っているんだ。だが、やつらに訊いてみたことはあるかい?日本は戦争で何をしたのか、って。へいこら頭下げてくれるぞ。自虐史観がしっかり掏りこまれているからな。それすら知らないってのは、あんたらが「別にどうでも良いよ」と言っている“日本の若者”とすら、特にコミュニケーションとった事がないって証拠じゃないか。

日本軍の中にいた権威主義のバカ共が酷い事をしたのは申し訳ない。犠牲者の方々には心からご冥福をお祈り申し上げる。

だが、一方的に「残虐だ」「非人道的だ」「永久に許さんぞ」「歴史を教えていない」などと言われてもだな、我々としては死者相手以外には、下がる頭も下がらんのだよ。

もっかいやる気かい?その一方的で見下し馬鹿にした態度と徹底的に日本を日干しにしようとした態度が原因でこんな事になったんだろうが。

最初から、こちらが求めているのは公正さだ。それ以外に何もない。認めてくれなんて言わんよ。お前等なんぞに認めてもらいたくもない。お前等が認めるべきは、己の歴史だろうが。

お前等こそ歴史に学べ。

4. Ex-PoWs find it hard to forgive horrors of the Death Railway
By Sebastien Berger at Hellfire Pass
The Telegraph: August 16, 2005

彼が建設を手伝った「死の鉄道」の砂利の上に立ち、遂にここを離れる事が出来なかった友人達を思い、ジョージ・リーの目に涙が溢れた。

「ここで死んだ人々を覚えている」
と84歳のオーストラリア人が語った。
「何人死んだかすら忘れたが、多くはコレラで死んだ。一日に2~3人死んだ。最高は一日に28人だった。大きな焚き火を作って、投げ込んで焼いた」。

日本軍が6万人の連合軍捕虜と20万人のアジア人労働者を使って建設したタイ・ビルマ鉄道において、最も長く深い切り通しであるヘルファイア・パスの垂直な壁の間で、彼は語った。

殴られて、餓えさせられて、働かされすぎて、彼等は死に、260マイルの鉄道にある数千の枕木のそれぞれが、人の命を課しているのだ、と語った。半数がイギリス人の戦争捕虜の死亡率は20%だったが、夜にはランプが光と影を落とす所謂ヘルファイア・パスでは、死亡率は70%に上った。

鉄道の他の箇所で働いていたリー氏はこう語った。
「ワシは軍曹だった。ワシの連中が働かんと、奴等は殴れと命令した。殴らないと、奴等はワシを殴ったもんだ。辛い昔話さ」。

切り通しに設けられた記念碑の下に、彼は8つの木製の十字架と共にケシを置き、そして、体長が悪く切り通しを下る事が出来なかった他2名の元戦争捕虜と共に、シンプルな漆黒の御影石製の記念碑に一分間黙祷した。

しかし、戦後端坑夫として働いたリー氏は、日本人に対して何の恨みも抱いていない。
「全く気にならんよ。特に若い連中はな。だが、奴等は何にも告げられておらん」。

日本軍は侵略の際に捕虜を虐殺するよう命令し、リー氏も60年前シンガポールで彼が働いていた飛行場が完成したら、捕虜は全て射殺されると言われた。
「そう長くなかった。もう13日さ」。

彼についてきた息子と孫息子に頷いて、彼はこう付け加えた。
「こいつらがここにいることはなかっただろうなぁ…原爆がなかったらさ。ワシだってここにはいなかっただろうさ」。

車椅子に乗ったベイデン・ジョーンズ84歳は、彼の鉄道に関する最もはっきりとした記憶は「仕事、仕事、また仕事さ」と語った。

彼はこう言った。
「餓え、赤痢、なんでもかんでも…働き続けるのさ。仕事から戻ってきて座って、死を決断した友人達がワシにはいたよ。奴等はもう耐えられなかったのさ。木かなんかを背に座ってさ、ただ死ぬんだよ」。

「ワシは若い人達に対してなんにも恨む事はないが、国として奴等を憎む。あんな残酷な事や色々全て、必要なかったのさ。奴等はあんな事しなくたって、仕事は完成できただろう。ワシは奴等を決して忘れないし、決して許さんよ」。

ボビー・ランダース84歳は、最後のアボリジニ人戦争捕虜であり、この鉄道建設作業に3年と半年の間従事した。

「オレはジャップが憎いね」
と彼は言った。
「クソ野郎共だ。オレはあの間抜け共に背中に傷をつけられたんだ。奴等はオレの仲間を大勢殺した。俺達が死の行進をしている時、オレがアンタを助けられず、アンタが俺を助けられず、じゃなかったら奴等がアンタを銃剣でブッ刺しただろうさ。だからオレはあのクソ野郎どもが大っ嫌いなのさ」。

全員クイーンズランドのイプスウィッチ出身の彼等は、昨日、クワイ川の橋から2~3マイルの所にあるKanchanaburi戦争墓地の式典に出席した現在唯一の生存者である。

2名のタイ人演奏家がラッパでLast Postを奏で、旅行者達が墓の間を歩く中、約200名の親戚と関係者が記念式典を行い、花輪を置いた。

式典に日本人出席者はなく、花輪も送られなかった。

「彼等は招待されていないし、来なかった」
と、タイのオーストラリア大使ウィリアム・パターソンが語り、こう付け加えた。
「(正式に敬意を表する事は)謝罪のように見えるだろうし、日本へも大きな波及があっただろうに」。



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