鷹10月号。
月光集巻頭句、主宰が「秀句の風景」に書いていて注目した。
香水の封切る繋縛(けばく)始まれり 三代寿美代
【小川軽舟評】
「繋縛」という言葉に驚かされた。一瞬だけど「緊縛」と見間違えて、あらぬ連想に誘われたからかもしれない。「繋縛」は「けいばく」「けばく」どちらにも読めるが、「けばく」と読むのは仏教用語で、煩悩に縛られることを指す。香水の封を切るのは新しい恋の暗示であろう。それが繋縛の始まりだと言うのだから、これまで経験してきた恋の激しさとしんどさがしのばれる。
三代は確か60代の中ごろ。魅力的な女優にメディアが「恋多き女」という言葉を贈るが彼女もそういうタイプである。年齢不詳のキャピキャピした風貌が三代の売りなのだ。
主宰が「香水の封を切るのは新しい恋の暗示であろう」と読んだのは正鵠を得ているだろう。
恋は卒業したかと思っていたが驚かされた。こうしてみると同時に発表した
萍の花柵(しがらみ)を越えて咲く 寿美代
も、「萍の花」に恋を象徴させたのではないかと深読みしてしまう。この読みがそう的を外れていないと思うのは、ひとえに、「柵(しがらみ)」という言葉による。「柵(しがらみ)を越えて」には不倫めいた味わいがついて回る。
恋といえば鷹の重鎮、奥坂まやのこの句にも驚いた。
肉慾のわが身に蠅の来て止まる 奥坂まや
奥坂の句は三代のように情念に傾いて作っていない潔さがある。「肉慾のわが身」と自分をモノ化したところがあっぱれである。
以前、奥坂と酒の席で性欲の話をして盛り上がったことがある。奥坂が「女は死ぬまでよ」と言って笑ったのが印象的であった。それを晴れ晴れと一句にして見せた。
しかし、「蠅」を止まられたことで性欲を鬱陶しがっているのがわかる。奥坂はわかりやすい。
同時に発表した
わんわんと大向日葵の立ちゐたり まや
向日葵のみごとな一物と思うが、なにせ、「肉慾」の句と一緒にあると、この句にも女の旺盛な性欲を感じてしまう。奥坂の20年前の50代の肉慾が「わんわん」ではなかったかと妄想するのである。
こういう読みは邪道であるが、活力ある秀句には必ず性の意識がついて回る。俗にいう「エロス」は秀句をなす根底に横たわるものである。
奥坂や三代のような才能は意識するしないにかかわらず、性というものに敏感なのである。
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